第10話 涙
暑い部屋で笑いあったあと、冷蔵庫に入っていたフルーツジュースを二人で飲んで一息ついたら、深月は夕飯の支度を、壬生は勧められた通りにお風呂に入った。
その間に暑かった部屋も冷やし、緊張しきっていた体も解し、深月はようやく帰宅した実感を味わっていた。
父の影をみた恐怖も和らいでいた。
初めて誰かのために食事を作った。
食事が終わったら全てを話そうと決意をした。
早炊でご飯を炊き終え、キャベツを刻んで、フライパンに肉を載せたあたりで壬生がお風呂から上がった。
ダイニングに肉の焼ける香ばしい匂いが広がって、忘れていた空腹を2人は思い出した。
「わ、私何か手伝うことあるかな?」
少しサイズが大きくてあまり着ていなかった深月の部屋着に身を包んだ壬生が、恐れ多そうにそう聞いてきて、まるでいつもと立場が逆だと笑った。
招いた側の深月が彼女に手伝いを強いるなんてことはあってはいけないし、何より初めて我が家にやって来てどこに何があるかもわからない彼女に手伝ってもらうより、自分でやった方が圧倒的に早かった。
彼女の申し出を断わり、ダイニングテーブルに麦茶を出した。お風呂上りで体が火照っていた壬生はそれを一気に飲み干した。
「壬生さんって普段料理しないんですよね?」
「うん。家事嫌いなの!掃除は、アレルギーだからよくするけどね」
「分かります!それ」と深月が答えると、壬生は自分の家が古く、埃っぽいことを打ち明けた。
「私が生まれた頃におじいちゃんが死んじゃって、おばあちゃんと一緒に住んでたんだけど幼稚園の時におばあちゃんも死んじゃってさ。家はお父さんが改築したけどかなり古いんだよね」
祖父祖母、そんな話題が出たのはいつぶりだろうか。
あの日以来、深月の家では広島の祖父母の話をするのは暗黙のルールで禁止だった。
「大西さんの家は?おじいちゃんとおばあちゃん。一緒に住んでた?」
「いえ、母は出身が広島なので祖父母もそっちで。父方は……。父は孤児だったって聞いてます」
焼きあがったお肉をキャベツのいるお皿に盛り付ける。
しょうがの独特の匂いが鼻をくすぐった。
「だったって聞いてる?」
「私、父のことはよく知らないんです。一応母からは聞いてるんですけどね。あ、できましたよ。ご飯どれくらいにしますか?」
深月が振り返ってみると笑ってるんだか、泣きそうなんだかよくわからない顔をした壬生がいた。
「たくさん」
二人分のご飯をよそって、深月も壬生の正面に腰掛ける。
さっきまで微妙な顔をしていた彼女はしょうが焼きにみとれていて、キラキラと輝いた笑顔をしていた。
「食べましょうか」
「いただきます」
二人の声が重なって、三ヶ月ぶりに誰かと夕飯を食べた。
炊きたてのご飯の甘みが口全体に広がって、続いて頬張ったしょうが焼きの甘辛さがご飯にピッタリだった。
「おいしい〜」
満面の笑みを浮かべる壬生を見ると、今まで知らなかった充足感が深月の心を満たしていく。
母が言っていた、誰かのための料理とはこういうことだったのか。
それは紛れもなく幸せだった。
「やっぱりカロリーなんか気にしてられないよね」
「うわっ!女子力ゼロ発言!」
例えば古美門に一度でも夕飯を作ってあげられる機会があったのなら、彼女はこんなふうに幸せそうな表情をしてくれただろうか。
仕事を忘れて、深月のことだけを考えてくれただろうか。
比較しちゃいけない。
誰かと誰かを比較することは大罪なんだと分かっていても、頭の中ではどうしても考えてしまっていた。
そして古美門と比べるということは自分の中で壬生がそういう存在になりつつあるということの象徴だった。
それに気づいていたけど、深月はそんな気持ちには目を向けなかった。
「大西さーん?食べないなら食べちゃうぞ」
大盛りによそったご飯を食べつくし、自分の分のお肉も食べ終わっていた壬生がぼんやりしていた深月の皿に手を伸ばしていた。
「壬生さん?キャベツ、残ってますよ?好き嫌いする人はおかわりはなしです」
「えー!野菜だよ?嫌い!」
仕事中とは打って変わって、子どもっぽい仕草がかわいかった。
目をそらせなかった。
壬生が野菜と格闘している間に深月は早々にご飯を平らげ、残ったお肉をしかめっ面の壬生の皿に移した。
「食べながらでいいんで、聞いてもらってもいいですか?」
「ん?なになに?」
「私が、今日倒れた……本当の理由」
さっきの微妙な表情を思い出すと、全てを話そうと決心した心が揺らぎそうになるけれど、自分が、彼女になら話したい、と思ったことを大事にしたかった。
大丈夫。
彼女ならきっと。
幻滅しない。
「うん。実は看護師さんから少しだけ聞いたの。大西さんのポケットにドラックストアじゃ買えない薬が入ってたって。それってさ、何か病気があるってこと?」
「あぁ。そっか。私、入れたままだったんだ。……病気。では、ないです。これは精神安定剤の一種なんです」
右のケツポケットに手を入れると飲みかけの錠剤に指先が触れた。
一口、しょうが焼きを口に入れた後に、詰め込むようにキャベツを食べる。口いっぱいに彼女が詰め込むから、面白くて、話の内容に反して笑みが零れてしまう。
「へいしん、あんていじゃい?」
「口の中にもの入れながら話さないでくださいよ」
深月は立ち上がって洗い物を流しに運んだ。そのままヤカンに水を入れて火にかける。
熱い、ほうじ茶が飲みたい気分だった。
「それで……その。なんで精神安定剤?」
「簡単に言っちゃえば、精神病患者なんですよ、私。……あ、精神病なら病気でしたね」
油のお皿を洗剤につけた。
こうすれば後で洗い物をする時に楽になる。
背面の彼女がキャベツを咀嚼する音がこちらまで聞こえてきて、規則正しいリズムに安心した。
「うち、親が離婚してるんですよ。私が小学校5年生の時に」
「……なるほど。さっきのお父さんをよく知らないって話はそういうことね」
「でも私、お父さんのこと大好きだったんですよ。それこそお母さんに少し嫉妬するくらい異常に」
「……」
あの頃、自分はなぜ父の子どもなんだろうと運命を恨んだ。
自分が母になれたらいいのに、そしたらもっと父のことを大切にできるのに、とどう頑張っても叶わない夢をみていた。
「父も私のこと、可愛がってくれてたと思います。小説家だったんですけど、一緒に書斎でたくさんの本を読んで、感想を言い合って……。私学校に1人も友達がいなかったんですけど、全然辛くなかったんです」
「なんか、想像つくな〜無愛想で笑わない、子どもの頃の大西さん」
彼女がお皿の上に箸を置く音がして、深月は彼女の方に体を向けた。
「ごちそうさま」
丁寧に手を合わせた彼女が顔を上げて、深月を見つめた。
真剣な面持ちの彼女が、話していいよ、と言ってくているような気がした。
「夏休みで、母と妹が広島の祖父母の家に行くことになりました。私も誘われたんですけど、父と二人きりで過ごせるチャンスだったので、家に残ったんです」
「うん」
「母と妹が家をでるなり、父はいつものように私を書斎に呼んで……。でも、部屋はいつもと違って、昼間なのにカーテンが閉められてて、電気もついてなくて、私とっさにお父さんを見ちゃったんです」
あの不敵な笑み。
自分の大好きな父を失ったのだと感じた。
「父は笑ってました。笑顔、とかじゃないですよ。狂気っていうんですかね?そしてその後『おまえが悪いんだ』って何回も叫びながら部屋中の物を投げました。ランタンが割れて、本が散乱して、たまに私の頬を掠めることもありました」
お湯が沸いたので再び彼女に背を向けて、急須に茶葉を入れた。
話を少しだけ止めて、お湯がタプタプと音をたててお茶に変わっていく様子を眺めていた。
透明が透き通った茶色に変わっていった。
「何か、甘いものでも食べますか?」
「いらないよ。大丈夫」
甘いものが大好きな彼女がそう言った意味を読み取れないほど、子どもじゃなかった。
壬生はそのあとも黙ったままで、深月はゆっくり意識を過去に戻していった。
お茶をマグカップに注ぎ、それを持って再び彼女の前の席に深月も腰掛ける。
「部屋中の物を投げ終えた父は……」
「うん」
「私の胸ぐらを掴んで、殴りました。最初は平手打ちだったんですけど、だんだん拳で殴られて、蹴られて。そしてそのまま私を真夏のクローゼットの中に閉じ込めて、3日間放置しました。頬骨と鼻骨と肋骨が2本折れていた上に脱水症状に熱中症。死ぬ直前でした」
深月は熱々のほうじ茶を少しだけ口の中に含んで、熱が冷めてから飲み込んだ。壬生は驚いた顔をしながらも目を伏せて、マグカップの淵をじっと見つめていた。
「そのあと、父には1度も会うことなく母は離婚して、私は中学生の頃に病院で心的外傷後ストレス障害と診断されました。PTSDって聞いた事ありますか?」
「んー。聞いたことあるような気もしなくないけど、わかんないな」
「まあ、簡単にいえばトラウマです。はじめの頃は寝れないだけじゃなくて、誰かが体に触れるだけで驚いて、会話もできないくらい酷かったんですけど、大人になるにつれて落ち着きました」
「うん」
「でも、いくつ歳をとってもクローゼットとか狭くて暗い場所に長時間いると父の幻覚を見て、発作的に意識を失うんです。だから、その……今回のは暴力もありましたが、私の個人的な問題も大きく関係してて……」
壬生は意を決してマグカップを持ち上げて熱々のほうじ茶を飲み始めた。口をつける前に息を吹きかけて、できる限り冷ましたのに、結局熱すぎてほとんどが口に入ってないようだった。
彼女がド級の猫舌であることは覚えておこう。
「なるほどね。だから精神安定剤か……」
「その……悩み事とか辛いこととかあると一睡もできなくなることがよくあって。ここの所も1週間寝れてなかったので、多分眠かったのもあるんですよね」
「1週間?一睡もしてないの?」
「もちろんベッドに横になって体は休めてますよ。ただ、横になると余計に意識が覚醒してくるんです。理由はわからないですけど……」
そこまでの経緯はどうあれ、深月はこの日久しぶりに脳を休めた。
この世界から意識を切り離すことができた。
それだけで苦しみは軽減されていた。
それで十分だった。
「以上です。だから、もちろん、暴行は受けましたけど、大きな責任は私にあるので、あまりに……気にしないでいただきたいんです」
彼女の顔をうまく見ることができなかった。
笑顔が強ばる。
「ねえ、大西さん」
「はい」
「いくつか、聞いてみてもいいかな?」
壬生はどうやらほうじ茶を飲むのを諦めたようだった。
エアコンをまわして、涼しくなった部屋でマグカップで手を温める。
少し部屋の温度が下がりすぎたみたいだった。
「ここに来るまで。東京にいた頃は実家暮らしだったの?」
「はい。母と妹と住んでましたが、母は基本的に仕事で家を空けていて、妹はその……素行があまり良くないのでほとんどいなかったです」
「ずっと今みたいな、苦しくても薬飲んで、限界が来たら倒れるみたいな生活をしてたの?」
「友達が、面倒を、みてくれることもありましたが、そうですね。普段は今と変わらなかったです」
面倒をみてくれていた時は友達じゃなかった古美門の話を、初めて壬生に話した。
仕事仲間とも元恋人とも彼女には言えなかった。
「そう……なんだ」
壬生はそれっきり黙り込んでしまった。
マグカップに視線を向けたまま、まるでその縁に何かがあるかのように凝視していた。
深月にはもう、今の壬生にできる話は残されていなかった。
全てを話し尽くした。
これで彼女が自分から離れていくのならそれまでだ。
自分で病気の意識はなかったけれど、職場のトラブルメーカーで持病があるとなれば、何かにつけ面倒がつきまとう。
彼女なら話しても大丈夫、と思っていた。
できるならば、もっと彼女を知りたかった。
逃避行の期限ギリギリまで。
でも彼女がそれを望まないのなら……。
そうして何分時間が過ぎたかはわからない。
気づけば深月のマグカップのほうじ茶は空になっていた。
茶渋がつくからと立ち上がろうとしたその時、椅子を引いて先に立ち上がったのは壬生だった。
「壬生さん?」
彼女はそのまま、うつむき加減に、反対の席にいる深月の後ろまで進んできて。
そして……。
深月の背中を包み込むように、後ろからそっと抱きついたのだ。
「ちょっ!え?!」
深月の胸の前で交差した手は、しっかりとその細い肩を抱いていた。
深月は気づかなかった。
壬生は気づいていた。
自分の過去を話していた深月の肩が小さく震えていたことを……。
「聞こうか迷ったの。私はまだ大西さんと仲がいいとは言えないし、全然知らないから。でもね、もう言わないで後悔するのは嫌なの」
「え?どうしたんですか?急に」
「ねえ。お父さんに会えなくなってから、誰かと一緒に眠ったことってあった?眠れない大西さんを抱きしめて夜を過ごしてくれた人はいた?」
「……」
「お父さんに暴力を振るわれたことじゃなくて、大好きなお父さんに会えなくなってしまったことを、一緒に悲しんでくれた人はいたかな?」
深月に対する罪悪感にまみれた母は、あの日以来、深月に触れることを怖がっていた。
父のいなくなった家族は、愛のある家族とは言えなかった。
昨日の夜はあんなにそばに感じられたのに、そうして考えてみれば、仕事に追われていた古美門が夜から朝までずっと深月のそばにいることはなかった。
深月より先にベットに入って寝ているか、 意識を失った深月が起きるのを料理をしながら待っているか。
ひとつのベットに一緒に入ることはあっても、私に気を使って背中合わせで眠る彼女の優しさは、感じることができなかった。
比べてはいけない。わかっている。
でも……。
古美門は。
彼女は、深月の過去の話を聞いた時どんな表情をしていただろうか。
悲しんでくれてただろうか。
理解をして、共感までしてくれていただろうか。
壬生のように。
「あ……れ?私……」
いつの間にか深月の肩は濡れていた。
それは、壬生の涙だった。
あぁ、憧れの人が泣いている。
あの壬生さんが泣いている。
そう思った時、深月の目からも大粒の涙が溢れていた。
そうか。
悲しくていいんだ。
泣いて、いいんだ。
「わ、私、そう。お父さんに殴られたことも蹴られたことも閉じ込められたことも怖かったけど、でも!でも、お父さんに二度と会えないんだって考えると、寂しかった」
「うん」
「今でも怖いし、殺されるかもしれないけど、会いたいって思って、頭がぐちゃぐちゃなのに、だけど、誰にも話せなかった!誰も聞いてくれなかった。みんなお父さんを悪者にした。違う、ちがっ。私だって悪いのに……」
「うん」
子どものように泣きじゃくった。
思えば、苦しみに耐えることに慣れ、誰かに助けを求めることはなくなっていた。
死ぬことを願った11歳の深月は、一番の願いを失った時に、願うことをやめてしまったのかもしれない。
生きているのに、希望を捨ててしまったのかもしれない。
死ななくても、解決することはできたのに……。
「大西さん。時間がかかってもいいと思う。部外者で赤の他人の私が言うようなことじゃないかもしれないけど、お父さんに今でも会いたいと思うなら、会いに行こう!話そう。怖くても絶対、私がそばにいるから!私が守るから」
深月の肩を抱く腕に、ぐっと力が入って少し息苦しかった。
でもその圧迫感が彼女の気持ちなのだと思うと、その腕を解いて欲しくなかった。
彼女はどうしてこんなに深月に寄り添ってくれるのだろうか。
その疑問がないわけではなかったけれど、もしこれが彼女の気まぐれだったとしても、今は甘えたいと思えた。
通りすがりの優しさだったとしても縋りつきたかった。
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