第9話 そばにいるということ


 いったいどこから話そうか。


 点滴が終わるまでずっとそれを考えていた。


 1滴、また1滴。


 透明な水のような魔法の液が、深月の許可なく体に侵入してくる。


 そんなものはもちろん感じることはできないけれど、久しぶりの感覚に少しだけ違和感を覚える。


 また、誰かの力を借りてしまった。


 こちらに来て、母も古美門も誰もいない生活ならば、どんなに辛くても限界でも、頼れないのだから倒れることはないだろう、と思っていた。


 限界がきたらきっと勝手に眠れるようになると、安心などいらないのだと思い込んでいた。


 もう何日も意識を失うように浅い眠りにつくことすらなく、体が不眠不休の状態だったのだから、正直今日のことは何も不思議なことではなかった。


 少しだけ、他者からの影響があっただけ。


 壬生は深月が倒れた全ての原因が仕事にあると思っているようだったので、逆に心配になった。


 どうみても、変に責任を感じているようだった。


 きっかけは確かに、書籍のパート3人からの暴行だったかもしれない。

 でもそれは深月の中できっかけに過ぎず、ただ暴行を受けただけならば、意識をなくして救急車で運ばれるようなことにはならなかっただろう。


 事後になって考えてみれば、なるべくしてこうなったのだ。


 だから、それも踏まえ壬生に深月の過去について話すのは好都合だった。


 仕事は少し関係あるけれど、あなたに責任は一切ない。


 それを伝えたかった。


 もちろん書籍のパート3人のしたことを許すわけではないけれど、今はそれよりも大事にしたいことがあった。


 幸いなことに殴られた箇所は特に異常なく、止血は済んでいるので点滴さえ終われば特に入院する必要はないとのことだった。


 壬生は、少し落ち着きたいから、外で待ってるね、と言って今は再び外の待合室で待っていてくれてる。


 子どものように泣きじゃくる彼女の顔が頭から離れない。


 こちらに引っ越したら、自分のことを考えてくれる人なんていない、できるはずない、と深月は思っていた。


 だって自分は人様に誇れるような人間じゃない。


 何人もの人の人生をたった一日にして地獄に突き落とした悪魔なんだ。


 眠れない夜はよく、そんなことを考えていた。


 きっと、古美門だって成り行きだったんだ。

  母は家族という宿命だったんだ。


 じゃなきゃ、説明がつかない。


「大西さーん。点滴終わりましたので、もう帰って頂いて大丈夫ですよ」


 気づけば点滴の袋はぺしゃりと元気をなくしていて、深月の体に侵入してくるものはいなくなっていた。


「あ、はい」


 さきほど手当してくれた看護師とも、詳しく様子を話してくれた看護師とも違う女性が深月の腕に突き刺さっていた針を抜いた。


 少しだけ血が出て、痛かった。


 処置室の硬いベットから体を起こすと首や肩がバキバキと音を鳴らして、激しい痛みが全身を襲った。


 どうやら倒れた時に全身を打ち付けたようで、頭の傷や頬の傷よりも圧倒的に強力な痛みが訪れていた。


「これは……ひどいな。結構痛いものなんですね」


 点滴を吊るしていた器具を片付け始めていた看護師が顔を上げて、少しして微笑んだ。


 何も、答えはしなかった。


 彼女たちにとって、痛みはきっと普通なことなんだろう。


 病院に訪れるような人は必ずどこかに痛みを抱えているものなんだから、いちいち共感したりしてられないよな、と心の中で自分に言い聞かせつつ、少しだけ返事がなかったことにショックを受けていた。


「では、ありがとうございました」


「はい、お大事にして下さーい」


 荷物は何も無かった。


 残念なことに。


 ついいつもの癖で、ドアに手をかけた時に気になって忘れ物をしてないか確認のために振り返ったが、置き忘れるようなものは何一つなかった。


 服も仕事の制服のままだ。


 深月はドアの取手を掴んだ手に力を加えると同時に、その手とは逆の手で制服のボタンを外し始めた。


 廊下に出ると治療室よりもエアコンの効きがよくなくて、冷えてしまった体に少しだけ優しかった。


「壬生さん」


 最初は寝ているのかと思った。


 廊下の奥の方を見つめて動かなかったから、顔を上げたまま眠ってしまっているのかと思っていたのだ。


 でも、彼女に近づくと間違いなくその目は開かれていて、廊下の奥の窓を見つめていた。


 夜のせいでそこには何もなかった。


「壬生さん」


 もう一度呼ぶ。今度はその肩にそっと手を触れて。


 ハッとして肩を弾ませた彼女は、頭に包帯が巻かれているものの、自分の足でしっかりと立っている深月を見て安堵していた。


「終わったんだね」


「はい、お待たせしました」


 壬生は自然な動作で立ち上がって、深月はそれを見て受け付けに向かって歩み始めた。


 壬生は、何も話さなかった。


 いつもの彼女と、何かが違った。


 財布を持っていなかった深月に代わり、壬生が会計を済ませ、出口を出た時に保険証を提示していなかったことに気がついた。


 慌てて壬生に確認すると、そのこともまた今度ちゃんと話し合おうと話をそらされた。


 労災になるのか、加害者負担で一件落着なのか。


 それは当事者の深月にもよく分からなかった。


 いつの間に手配してくれていたのか、外に出るとタクシーが止まっていた。


 そこまで気が回っていなかった。


 二人とも救急車でここまでやってきて、既に夜の8時になろうとしている。

 バスもなく、歩く訳にもいかず、壬生の大人の気遣いに感嘆した。


「すみません。お手数おかけして……」


「……テンプレだけどさ。こういう時はありがとうって、言って」


 先にタクシーに乗り込もうとしていた壬生が後ろにいた深月のほうを振り返った。

 その笑顔が傷ついた心に甘く染み渡った。


 にこやかで優しい運転手に深月の家の住所を告げて、病院を出発した。


 タクシーに乗ってからは壬生があまりにも何気なく話すので、深月は大切な話があると言ったことは忘れてしまったのかもしれない、と少し不安になる。


 ただ、それはタクシーの中で切り出すような話でもなかった。


「あの……壬生さん。明日ってお休みですか?」


「うん。明日は、休みだよ。そういえば、大西さんも怪我が思いのほか酷いから5日間休みにして貰えるよう、さっき店長にもLINEしておいたの。ごめんね、勝手に」


「いえ!さすがに頭に包帯のままじゃ仕事できないので……」


 横目で窓の外を見るとちょうどバイト先を通過したあたりだった。


 もう見なれてしまったいつもの道のはずなのに、少し緊張して、そこはまるで深月の知らない街のようだった。


「よければ……このままうちに泊まりませんか?その、聞いて欲しい話があって。喉もかわいてますよね、今晩暑いみたいだし」


 田舎街の街頭にたまに照らされる彼女の顔が少しだけ困っていたような気がした。


 壬生が一瞬返事をためらったせいで、深月は彼女が自動販売機で購入したお茶を手に持って待合室のソファーに座っていた様子をハッキリと思い出した。


「……」


「やっぱり……突然だしダメ、ですよね」


 深月はその空白の時間を断りの返事だと解釈した。


 こんな誘い方したら、断りたくてもなかなか言い出せないよな。


 かける言葉を間違ったと内省しつつ、恥ずかしさで虫の居所が悪くなる。


 もう、あと少しで自宅だった。


「お邪魔しても、いいのかな?今日の今日で体辛くない?」


「……え?」


 もはや返答のタイムリミットは過ぎた、と勝手に頭の中で考えていた深月はその言葉をすぐに飲み込むことができなかった。


「親には連絡したから私は泊まっていいなら泊まりたいかな。怪我が心配だし」


 目的地は目前だった。


 彼女はうつむき加減につぶやいていた。


「その……今は、大西さんを1人にしたくない、かな」


 茶化したように彼女が深月の膝を2回、ポンポンと叩いた。


 壬生は本当は一度その柔らかそうな頭に手を伸ばしたけれど、包帯が巻かれていることでそうしてはいけないと踏みとどまった。


 大したことはなくても、仮にも怪我している頭に触れてはいけないだろう。


 そうして宙ぶらりんの手が行き場を探して、深月の膝へとやってきた。


「何、食べたいですか?って言っても昨日買い物しただけなので大したものは作れませんが」


「え、大西さんの手料理?でも、大丈夫?辛くない?」


「私が誘ったんですから。それくらいなら大丈夫です」


 夕飯はしょうが焼き、と決まった頃にはアパートの前にタクシーが止まった。


 またしても壬生に支払いをさせてしまったが、「これは今日の宿代」と言って笑って誤魔化された。


 タクシーを降りて、初めて誰かとアパートの階段を上った。

 いつもは上るのが億劫で長く感じる階段も今日はあっという間だった。


 誰かと話すのはこんなに楽しいことだったろうか。

 自分は人に飢えていたんだろうか。


 頭の中で色んなことを考えはしたけれど、それに答えはなかった。


 部屋の鍵を開けて、いつもの暗闇が深月の前に立ちはだかっても、彼女がそばにいると思うと少しだけ怖くないような気がした。


「朝のままなんで、散らかっててすみません」


 深月は玄関に足を踏み入れると同時に、玄関の壁にある電気をつけた。


 それはもう、瞬間的に。


 さすがにそれくらいで壬生が不思議に思ったわけではなかったけれど、彼女がつけた明かりが廊下を照らして部屋全体が見えるようになった時、違和感が壬生を襲った。


 そこは1人で暮らすにはあまりにも広すぎた。


「大きい部屋だね」


「友達が選んでくれた物件で……。一人用には少し広すぎますよね」


 廊下を少し進んだ扉を開ければ恐らくそこにリビングダイニングキッチンがあるんだろう。

 でも、そこにたどり着くまでの廊下の両サイドにドアが2つあった。


 2LDK。

 家族用といわれても驚かないほど大きなその部屋に壬生は招き入れられる。


 都会から田舎に引っ越すというのに物件探しを友人に任せるなんてこと、あるんだろうか。


 しかもその物件に何も違和感を感じずに過ごしている。


 深月はバイトだ。

 時給も県の最低賃金に少し上乗せした程度の低賃金の店で、どんなに頑張ったって月稼げるのは10数万がいいところだ。


 田舎とはいえこの部屋じゃ月の家賃は7~8万はするだろう。


 急に、彼女がここにやってくるまで、どんな仕事をしていたのかが気になった。


 ちょっとやそっとじゃない。


 間違いなくこの部屋で安定した生活を送れると友人が選ぶくらいだ、それくらいの収入はあったに違いない。


 そんな深月に壬生はどう映っていたんだろう、と不安になる。


 歳上だから、上司だからと言って、声をかけてきたけれど、自分はそれに足るだけの人間だったろうか。


「壬生さん?」


 深月は急に黙った壬生を不思議に思って、その顔を覗き込んだ。


 ハッとした壬生は接客の時に使う笑顔でその場をやり過ごして、深月に案内されるがままに中へと進んだ。


 深月が扉を開け、急ぎ足で部屋の電気をつけると、白を貴重にしたリビングが目に飛び込んできた。


 まるで今日、誰かが訪問することを予測していたかのように部屋は整理整頓されていて、壬生はいつもみている深月とは違う考えを持った人間がここで暮らしているのだと痛感した。


 仕事での彼女は大西深月の一面でしかなかったのだと知った。


「なんか……。意外かも。大西さんの部屋だからもっと汚いかと思ったよ」


「どういうことですか。失礼ですよ」


「予想外でーす」


 数年前、下手をしたら10年以上前になるかもしれない、一昔前のネタで返すと深月はケラケラと笑った。


 そんなに面白いようなやり取りではなかったような気がしたけれど、深月は緊張の糸がプツリと切れたように笑いだし、壬生も笑い続ける深月がなぜか面白くて笑った。

 うっすらと汗ばむような暑さの部屋で笑いあって、息が苦しくなった。


 でもそれは辛いものではなかった。

 久しぶりに感じる何気ない幸せだった。


 頭では否定したかったけれど壬生の中では、彼女のことをもっと知りたいという思いが芽生えていた。

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