第8話 泣いて笑って
退勤時間が近づいていて、ちょうどゴミ箱のゴミが溢れそうだったから、こないだまで展開していたゲームのPOPを捨てるついでにみんなのゴミを引き受けた。
ゴミ捨て場は書籍の作業場を抜けた先にある倉庫の端だ。
だから、異変は感じていた。
今日は書籍のスタッフが4人いたはずなのに、作業場は人影がなく、ほぼ毎日開いている倉庫の扉の前にはいくつものダンボールが積んであった。
「全く、やりっ放しはよくないぞ」
口では愚痴を言いつつ、本当は壬生も、この時既に最悪の事態を予想していたんだと思う。
本の入った重いダンボールを片付け、なぜだか鍵のかけられていた倉庫の扉を引いた。
エアコンのない倉庫の熱気が壬生を襲った。
そして、作業場からの微かな光が倉庫の中の全貌を明らかにした。
「大西さん!!!!!!」
暗闇の中で人が倒れている状況を見るなんてことは、人生の中でそう何度もあるものじゃないと思う。
普通なら。
彼女は倉庫の端で、体を小さくして倒れていた。
まるで何も見たくなくて部屋の角に体を押し込めるように、小さく小さく体を丸めていた。
彼女が意識を失う前、どんな葛藤があって、何に苦しんだのか壬生には全く想像ができなかったけれど、その整った顔が意識を失っているのにも関わらず今にも泣きだしそうで、胸が押しつぶされたように苦しかった。
二度目だった。
歳をとっているならわかるけど、この年齢で、医療関係の仕事でもない。
苦しそうな顔なんて見たくないのに。
笑わせてあげたかったのに。
だから自分はきっと、普通じゃないのだと、思わざるを得なくなる。
頭から血を流し、頬が少し切れている深月の顔は真っ青で、力なく倒れているのを見た時、壬生の頭の中ではあの日がフラッシュバックされていた。
彼女があの子とは違って大人として成熟していることや、可愛らしさの欠片もないこととか、弱かったあの子に彼女を重ねる要素なんてほとんどないのに、壬生は深月の姿にあの子の影を見ていた。
だから、必死だった。
その状況に遭遇したら誰だって焦るかもしれないけれど、壬生の場合それは異常なまでに、激しい焦りだった。
汗が吹きだし、走ってもいないのに息が切れた。
深月を呼ぶ声も震えて、救急車を呼ぶという当たり前な判断ができなかった。
また、目覚めなかったら。
もう、会えなかったら。
そんな考えだけが頭の中で渦巻いて、大して親交を深めたわけでもなかったのに、深月を失うことがとてつもなく恐ろしかった。
大声で深月の名前を呼ぶ壬生の声を聞きつけて、その他のスタッフが駆け寄ってきた。
もちろん退勤時間は2時間近く過ぎていたからそのスタッフの中に、おそらく関係者である書籍担当のパート三人はいなかったけれど、他人事のようにこの状況を見下ろすスタッフたちが憎たらしかった。
自分の中で真っ黒で汚い感情が溢れ出た。
店長の顔を見た時もそれは同じだった。
あの人たちさえいなければ。
店長が店の電話で救急車を呼んで、狭くて空気の悪い倉庫から事務所のソファまで深月を運んだ。
壬生1人では運べないかもしれないと、とりあえず抱きかかえて誰かに手伝ってもらおうかと思ったが、壬生の想像をはるかに上回るほど、深月は軽かった。
そこには魂なんてないんじゃないかと疑いそうになるほど、彼女は軽く、この仕事が好きです、と笑った彼女がどれほど苦しんでいたのかを知った。
力ない彼女をソファに横たえる。
スタッフ用に事務所に備え付けてある冷凍機能付きの冷蔵庫から、ありったけの氷を袋に出して、急いで深月の首や脇の下を冷やした。
ぐったりとする彼女の制服のボタンを上から2つ外して、白く細い首筋が顔を見せた。
その白に生える、漆黒の髪。
短く切りそろえられた柔らかなその髪にそっと手を伸ばす。
まだ息をしていた彼女の寝癖がなぜだか気になって、指先はそこを目指したけれど、触れるか触れないか微妙なところまで伸ばして壬生は手を引いた。
怖くて、触れられなかった。
程なくして救急車が到着して、退勤時間だった壬生がそのまま同乗した。
同じゲーム担当の部下で幼なじみの
なぜ、大丈夫だなんて、言うんですか?
と心の中で反発はしたけれど、彼女が生きていて、落ち着いた状態であることを素っ気ない電子音が告げて、逆に焦りすぎている自分がそこには不釣り合いであったことを知った。
病院の待合室で夢に断りのLINEをいれて、一息つくと、数分しか経っていないのに治療を終えた看護師が治療室からでてきた。
「今はとても、よく眠っています」
自分よりも若そうな男性の看護師が、優しくそうつぶやくとそれまでの疲れがどっと体を襲ってきて、ソファに深く座り込んだ。
薄緑色のソファに、壬生の汗が数滴落ちている。
真夏の夕方。
暗い病院。
何もかもが、あの日と似ていた。
「あの、大西さんは……どこか悪いんでしょうか?倒れた原因はなんだったんですか?」
顔を上げ彼を見ると、優しく微笑んでいた彼の眉間に少しだけシワがよった。
そうだ。
こんなデリケートな話、病院の人は本人の許可なく家族以外には話せない。もちろん友人でも。
「今回倒れた原因。大きなものは熱中症と軽い脱水症状です。恐らく長時間水分も取らずに仕事されていたんでしょう、と言いたいところですが、こめかみの傷、頬の傷、そして後頭部にも強く殴られた跡がありました。いったい、仕事中に何が起こったんでしょう。それに……」
友人でもない、ただのバイト先の上司が何を聞いているんだろうか。
口に出したあとで、彼女にとって自分がどれほど小さな存在であるかに気づく。
それでも彼は再び優しく微笑んで、深月が休んでいる治療室に一度目を向けた。
「大西さんのポケットにドラッグストアでは買えない薬が入っていました。いずれにしろ、私どもからは何も言えないので、そのあとの話はご本人からきいてください」
「……はい。すみません、当たり前なこと聞いてしまって」
「いえいえ。あまり、気にやまないでくださいね。あなたみたいな方がそばにいてくれたら、彼女も心強いと思います」
彼は壬生にそう告げると、自分の仕事に戻っていってしまったが、壬生はなんだかまだ治療室に入る気にはなれず、何十分かそうして外の待合室にいた。
長い廊下の突き当りにある小さな窓の夕日のオレンジ色がなくなって、そこは完全な黒に覆われていた。
昔、高校生だった時もこうして長いこと暗闇に包まれていく病院の廊下を眺めていた。
あの時はもう、どう考えたって希望なんかなくて、廊下を見つめている時にはもう、彼女はこの世界にいなかった。
深月は、違う。
怪我はあっても元気に生きている。
だから、彼女と重ねてはいけない。
でも、壬生は深月のことが気になって気になって仕方がなかった。
他人を寄せ付けないような強さが、自信はなさそうなのにハッキリした物言いが、あの子にそっくりだった。
償い、なんだろうか。
あの日、あの子を救えなかった自分は、その代わりに彼女を救えば、許されると思っているのだろうか。
代わりなんていない。
そんな、馬鹿な話あるわけないと分かっているけれど、きっとそれを願っているんだろうと思わざるを得ない。
二度と同じような過ちを繰り返したくはなかった。
ここ1年半、うちのお店で書籍担当になったバイトたちは1ヶ月足らずで辞めていった。
5人、だったろうか。
だから、書籍部門に何か問題があることは周知の事実で、なんとかしないといけないと思っていたけれど、書籍部門担当の社員がいる以上、ゲーム担当の壬生が首を突っ込むわけにもいかずなんの対策もできないままここまできてしまった。
これまで辞めていった人たちは何かことが起きる前に辞めていったから、こんな大事になったのは深月が初めてだった。
そういえば、と慌てて病院の外に出て店長に報告の電話をする。
『そうですか。命に別状がないのなら何よりです。うちの店で死亡事件なんてシャレになりませんからね』
『……』
そのものの言い方が癪に障って、返事をせずにいた。
シャレにならないのはお店の方じゃなくて、バイトを目の敵にして攻撃している他のスタッフの方がじゃないか。
『じゃあそのまま様子をみて帰って頂いて大丈夫です。子どもじゃないんだから付きっきりじゃなくてもいいでしょ』
『……悪いのは、大西さんなんですか?!昨日店長と話をしたんですよね?怪我してるんですよ!熱中症に脱水症状、監禁、これ十分訴えられるような傷害事件なんです。なのに、大西さんが悪いみたいな言い方しないでください!!』
電話越しに彼の息を呑む音がした。
閉店時間にはまだ早いから、おそらく事務所のどこかでこの電話に応えているんだろう。
後ろからお店で大音量でながれている、有名アーティストの新曲が聞こえていて、黙ったままの空気が重かった。
『目が覚めるまでそばにいます。この件に関してはまた後日、詳しく話しましょう』
彼はそのまま返事をすることなく無言で通話を切った。
やっぱり最低な人間だと思う。
彼がこんな人間だから、このお店の状態は悪化の一途を辿っているのだろう。
それは1人の社員として、責任のある一人の人間として、改善しなければいけないことだと再確認した。
ふと我に返ったら病院の前で、夜に、大声を出してしまったことが恥ずかしかった。
待合室に戻る手前にあった自販機で冷たいお茶を買って、再びソファーに腰掛けると、さっきとは違う女性の看護師に声をかけられて、深月が目を覚ましたことを知った。
「壬生さん……」
治療室に入ると彼女はベットの上で点滴を受けていた。
軽い脱水症状だったから質のいい水分が必要らしかった。
頭には包帯が巻かれていて、頬には大きなガーゼがあてられていた。救急車に乗り込んだ時は気が動転していて気が付かなかったけれど、怪我はかなり酷そうだった。
「ご迷惑を、おかけして。もう、なんて言ったらいいのか……」
彼女は未だに青い顔をしていて、こちらを見つめる様子が痛々しかったが、苦しさと辛さの入り交じったような笑顔を壬生に見せて、もう罪悪感でいっぱいだった。
「よかった。元気そうで。迷惑なんかじゃないからね」
申し訳なさで彼女のその綺麗な目を見つめることができなかった。
「今まで……何も、できなくて、ごめんね」
泣き出したいのはきっと彼女の方だった。
理不尽さを叫んで、自分の顔に傷をつけられたことを怒るのは彼女の方だったはずなのに……。
壬生は止められなかった。
泣きたいわけじゃないし、コントロールしようと上も向いているのに涙が溢れてどうしようもなかった。
「ごめんね。気づいてたのに、こんなことになるまで何もできなくて、ごめんね」
治療室に入ってくるなり泣き出した壬生に驚いているのは深月だけではない。
通りがかっていく看護師たちも、子どものように泣きじゃくる壬生を物珍しそうに見ていた。
「ちょっ、壬生さん」
最初に笑い始めたのは深月だった。
「なんで、壬生さんが、泣くんですか」
笑いながら息も絶え絶えに深月は壬生の名前を呼んだ。
泣き続ける壬生をよそに、そうして笑っている間に深月自身の苦しみが少し軽くなっていくのを感じていた。
笑いで寿命がのびる、という研究結果も今なら信じられる気がした。
「だって、だって!大西さん何も悪いことしてないのに、みんな、大西さんを悪者みたいに言うから」
泣き笑いしながら言い訳する壬生が、いつもと違って可愛く見えて、深月は純粋に、この人に自分を知ってもらいたい、と思ったのだ。
そんなことは、今までに一度だってなかった。
もちろん、古美門の時も。
「……壬生さん。あの、お話したいことがあります。今日こうなった理由とか、私のこととか」
肩を震わせて、もはや笑っているのか泣いているのか、訳の分からない状態の壬生の手を握って深月は微笑んだ。
来年にはこの場所から消えると決めている。
逃避行は1年の期限付きだ。
だから嫌がらせも暴言も耐えられた。
人の感情を適当に流せた。
ここから離れてしまえば二度と会うこともなく、関わりあう事もないのだから、どうでもいいと思っていた。
その中でも一人だけ特別だった彼女。
どうでもいいと思っていても、ここ数ヶ月の深月にとって目標という名の希望だった。
だから、彼女はもう、どうでもいいじゃなかった。
話したい。
古美門のときは、話さなきゃいけない、だった。
大切な人だからいずれ話さなければいけないなら、今話さなきゃと思った。
でも違う。
壬生は違う。
話したい。聞いて欲しい。
それはもはやエゴでしかないのかもしれないけれど、自分が前に進むきっかけになるかもしれないと思った。
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