第7話 助けて欲しかった

 長い長い夜があけて、朝はまた昨日と同じようにやってきた。

 体がいつも以上に重いことも、上を向いていなくちゃ涙が出そうなくらい不安な心も、全部無視して必死に自転車のペダルをこいだ。


 そして見なれたお店の前。


 スタッフ用のドアノブにかけた手に力を入れるのが、怖かった。

 もはやこのまま逃げ出してしまおうかとも思った。


 でも、朝になって冷静になって考えてみると、自分が命懸けで描いていた作品をあんなにボロボロにさせられたのに、このまま謝罪もなく、曖昧なままで終わらせてしまっていいのか?という疑問が頭の中で回っていた。


 深月を陥れるためにやったことなのはわかる。


 もちろん、それだって許してはいけないことだけど、それよりも本を破いていいわけがない。


 これが例え、深月の描いた作品じゃなかったとしても、誰かが全力で描いた作品を破いていいなんてことはないだろう。


 だから、戦わなければ。


 深月に対する謝罪じゃなくても、構わない。


 気持ちがこもってなくても、構わない。


 せめて、本を破いたことだけは反省して欲しかった。


 思い切って、お店のドアを引く。


 そんなに遅い時間だった自覚はなかったけど、体が重くて自然とペダルを漕ぐ足が重くなっていたんだろう。


 事務所には既に今日出勤のメンバー8名全員が揃っていた。


 みんなの視線が痛い。


「おはようございます!」


 そんな中、いつも通りに挨拶をしてくれたのは早番で出勤していた壬生だった。


 パートの3人やほか部門のパートさんの熱烈な視線を感じながらも、顔を上げると嬉しそうに深月を見ている彼女がいた。


 その笑顔がやけに久しぶりに思えた。


「お……はようございます」


 驚きで言葉が詰まるも、ここで挨拶を返さないのは明らかにおかしいので、深月はもごもごと挨拶を返す。


 その様子がいつもと違って面白かったのか、壬生は、え?なんだって?と笑って深月の肩に手を置いた。


 昨日のことを聞いていないはずがない。


 社員の彼女には事が起きてからすぐに店長から連絡が行っているはずだ。


 なのに……どうしてなんだろうか。


 店長は深月がやっていないのはわかってる、と言っていたけれど、やっていないという証拠はどこにもなかった。


 だから、他の人からすれば、昨日途中で早退した深月が一番怪しく映るはずなのに、彼女はどうしてこんなにも、分け隔てなく自分にも笑顔を向けてくれるのだろう。


 理解できなかった。


 でも、今の深月には、それがこの上なく温かく感じられた。


「今日も、頑張っていこうね!」


 泣きそうになるのをぐっと堪えて、無理やり顔を上げた。


 そうだ。


 彼女は、こういう人だった。


「はい!」


 そんな深月を壬生はしっかりと見ていたけれど、何も言わずに朝礼がはじまるまでそばにいてくれた。


 時間になると、さっきまでの笑顔が凛々しい表情に変わって、彼女はスタッフの前に進んでいってしまったけれど、なぜか、それだけで元気づけられたような気がした。


 彼女みたいに胸を張っていこう。


 開店作業を終えて、深月はそのまま2時間、レジに入った。


 平日でお客さんはそこまで多くないから、このあとちゃんと書籍スタッフと話そう。


 そして解決させよう。


 そう、決心した。


 頭の中はなんて切り出すかばかり考えていて、レジは全然集中できなかった。


「大西さん、時間なので変わります」


 なんだか緊張しているせいでまだ出勤して3時間しか経っていないのに疲労感と倦怠感が酷かった。


 ゲーム担当の斎藤夢がだるそうにPOPを抱えながらレジに荷物を置く。


 そういえば今になって思えば、初めの頃慣れない深月に明るく漫画の話をしてくれたのは彼女だった気がする。


 小さな彼女が深月のことを下から眺めていた。


「あ、あと、書籍の人が倉庫に来て欲しいって言ってました。柴田さん……かな?」


 彼女の視線がレジに向かってくる遠くのお客さんの方に向いて、もうここで立ち話ができないことを悟った。


 背筋がぞわりとした。


 自分から切り出す前にあちら側から切り出されてしまった。


「はい。向かいます」


 事務所を抜けて、一口だけ水を飲んでから書籍の作業場の奥、品出し予定の本が並べられている倉庫に向かう。


 窓もなく、ドアも出入りする1つしかないこの静かな倉庫が深月はあまり好きではなかった。


 エアコンがついていないせいで淀んだ空気が深月を迎えた。


「お待たせしました。えっと……作業指示ですか?」


 柴田が呼んでいたと、さっきは聞いたけど待っていたのはいつも通りパート3人で、いつもは顔を見るなり悪態ばかりつく3人が黙って深月を睨んでいて、それが奇妙で仕方がなかった。


「なんであそこまでしたのに、店長はお前のこと追い出さないわけ?」


 しばらく睨まれたあと、柴田が沈黙を破った。


「体でもさしだしてんじゃないの?」


「ゴミクズがさっさと消えろよ」


 これまで何かにつけて文句をいっていたのとは違う。

 もうこれは完璧に、ただの暴言だ。


 距離を置いていた3人が、ジリジリと深月に近づいてくる。


 事務所から離れていて、お店の音も遠くにしか聞こえないこの倉庫で、ハッキリと3人の罵倒が深月に突き刺さっていた。


「バカみたい……」


「……は?」


 思わず、口にするはずのなかった本音が零れてしまった。

 でも、ここまで言われてここまで貶されたんだ。


 少しくらい反抗したって構わない。


 今まで黙って反抗することのなかった深月が急に怒り出しているのを見て、声をなくして立ち尽くしている3人に畳み掛けるように吐き捨てた。


「書籍担当なのに、本を傷つけて恥ずかしいと思わないんですか?くだらない。子どもじゃないのに自分の感情すら管理できなくて、よく今まで生きてこれましたね。いったいどんな育て方すればこんな非常識な人間ができあがるのか、ご両親に聞いてみたいですよ」


 息が上がった。

 怖くて手が震えた。


 こんなに自分の考えをはっきりと口にしたことなんて、今までなかった。


 でも、本心だ。

 これまで溜まっていた思いだ。


 深月は想像以上の解放感を味わっていた。


 全力の皮肉で自然と顔がほころんでいった。


 でも。


「何言ってんの?弱虫のくせに。口ごたえとか笑えるんですけど」


 そんな言葉が通じるような相手ならこんなことにはならなかった。

 正常な神経と判断能力があったのなら、深月の思いを察してくれないはずがなかった。


「消えろよ、無能」


 真ん中に立っていた柴田が無表情のままとうとう深月に迫ってきた。

 胸ぐらを捕まれ柴田の視線が深月のそれと交わった。


 八重垣と新田が倉庫と書籍の作業場を繋ぐ扉に鍵をかけて、不敵な笑みを浮かべていた。


「だいたいさ〜どんだけ神経太いのよ。今まで1回も失敗せずに全員2ヶ月以内にバイト辞めさせてたのに」


「記録更新の予定がとんだ出遅れよ」


 3人の手にはいつの間にか分厚く大きな文芸書があった。


 2018年の本屋さん大賞をとったハードカバーの作品。


 あ、これはダメなやつだ。


 そう思った時にはもう、遅かった。


 まず深月の胸ぐらを掴んでいた柴田が本で深月を殴った。

 右側から頭部に向かって近づいてくるそれを、避けようと思って身を屈めたが、そのせいで逆に頭部を狙ったそれがこめかみに突き刺さってしまった。


 ハードカバーの角。

 それがどれほどまでに強力か……。


 痛みで右目が開かなかった。


 血の気が引いて、膝がガクガクした。


 恐怖が。

 15年前の夏の日が、フラッシュバックしていた。


 こめかみへの一撃でのせいで、平衡感覚を保てなくなった深月に、一息つく暇もなくつづいては八重垣が本を投げた。


 至近距離から投げられたせいで、もはや反応すらできず、次はその角が深月の頬を殴った。


「まあ、別に私たちが直接手を出した訳じゃないしね」


「ちょっと手が滑って本飛んでっちゃっただけ〜」


 どうやらかなりの威力で飛んできたらしい。頬への一撃で口の中がかなり酷く切れてしまった。

 飲み込む唾は血の味がした。


 あの時と、同じだ。


「さて、最後は……」


 近づいてきた新井が膝に手を付き、痛みに耐える深月を見下ろした。


「ここだよね」


 全力の力が深月の後頭部を襲った。


 一瞬視界が大きく歪んで、体から自然と力が抜けていった。


 膝が床につき、バランスを保てなくなった体が、なんの抵抗もなく床に打ち付けられた。


 猛烈な吐き気と深月を襲う痛みがあの日の思い出と重なって、記憶が混同した。


 お願い。行かないで。


 お父さん。


「それじゃ、あと片付けはよろしくね〜」


 こめかみから血が出ていたみたいだ。

 横たわったことで今まで下に流れていた血が、目に入り視界か少し赤に染った。


 3人は深月を傷つけた本をその場に投げ捨てて、重いドアを開けた。


 自分も早く逃げなければ。


 お父さんに、二度と会えなくなってしまう。


 もはや彼女たちが次にとる行動は予測できていた。


 なのに、体が言うことを聞かなかった。


「いい気味」


 扉を閉めつつ、その隙間から深月を見下ろした楽しそうな柴田の顔が。


 15年前の父の顔と重なった。


 ガチャりと金属音がして、扉に外側から鍵がかけられる音が聞こえた。この古い扉は外側から鍵はかかるのに、なぜだか内側からは開けられない仕組みになっている。

 そして、ダンボールの引きずられる音。それが扉の前でいくつか留まった。


 念には念を、ということなんだろう。


 そこには明らかな悪意があった。


 完璧な密室が、できあがった。


「お願い。やめて、謝りますから。もう、辞めますから。お願い、やめて。やめて……」


 電気が、消された。


 目が開いているのか閉じているのか、もはや自分ではわからなかった。


 大嫌いな暗闇が、やってきた。


 深月はその瞬間、息が出来なくなった。


 正確には深月の世界から空気がなくなった。


 必死に吸ってもそこに空気がないから、苦しくて苦しくて、もがいた。


 扉の前にはあの日の父が立っていた。



『おまえが全て悪いんだ』



「ごめんなさい。もう、二度としません。二度としないからお願い出して……お父さん。お父さん!行かないで……暑いよ」



 違う。

 違う!


 ここはあの日のクローゼットの中ではない。

 扉の前には誰も立っていないし、そもそも何も見えない。


 そう心に言い聞かせても、深月の目には確かにそこに父がいるように見えていた。

 こちらを見て笑っている。

 這いつくばった深月を見て、幸せそうな顔をしている。


 15年前のあの日、折れていた肋骨と頬骨と鼻が傷んだ。


 本で殴られたくらいで折れるわけがない。


 あの日とは違う。


 思考がその場で回っていた。


「助けてください……痛いよ。お父さん」


 理解していても、自分をコントロールすることができなかった。


 次第に意識が薄れてくる。


 どうやら、息がしずらいのと暑いのは気のせいではないらしかった。


 ずっと、待っていれば、このまま永遠の眠りについてしまえば、父が喜んでくれるような気がした。


 あの日できなかったことを今になって、繰り返していた。


 もう今の自分は身勝手に死ねる立場じゃなく、追いかけるべき夢も、守るべき人もたくさんいるのに、そんなことを忘れて床で静かに息が浅くなるのを待った。


 ごめんね、で許してくれるかな。


 古美門の顔といつも支えてくれたアシスタントたちの顔がチラついていた。


 顔も知らない不特定多数のファンも、出版社のお偉いさんも、壬生も。

 走馬灯のように、深月の中で思い出されていた。

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