第6話 長い夜
14時辺りに帰宅するとそのままリュックを置いて、バイト着のままベッドに飛び込んだ。
そこからの記憶はない。
眠っていたわけではない。
体は疲れきっているのに、目は冴え渡り、意識はハッキリしない状態が続いた。
なんだか自分の体なのによく分からなかった。
眠い、眠れない。
目は開いてる、焦点は定まらない。
こんなに、酷い日はいつぶりだろうか。
深月は自分の頭の中の記憶を1ページずつさかのぼっていくが、引越し以降の生活に該当する日はなかった。
確か、古美門と別れたあとはこんな状態が続いていたけれど、やらなきゃいけないことが山ほどあっていつの間にか忘れていたんだ。
締切明けに気を失うように眠って、起きると古美門が温かいご飯を作って待っていてくれた。
「はは……」
無意識に口から乾いた笑い声が零れていた。
目が潤んで、溢れ出そうになっている涙を腕で抑えた。
その時になってようやく、深月は自分が苦しんでいたことを自覚した。
自分が辛いと思っていたことに気がついた。
『先生!ねえ?!聞いてる?』
楽しそうな声で話す古美門の声を思い出して、懐かしくて、愛おしくて、我慢していたのに潤んだ目からは涙が落ちた。
こんなこと思っても無駄なのに。
これじゃまだ、好きみたいだ。
探しちゃいけない。
もう、探すことはない。
自ら望んで古美門と離れたのに。
「馬鹿みたい」
後悔していなかった。
楽しんでなくても、引っ越してこなければ良かったなんて思ってなかった。
でもこんな苦しい生活だって望んでいなかった。
絵を描かない自分が、こんなにも、こんなにも無力だなんて、考えたこともなかった。
深月は知らなかった。
これまで辛い時、古美門の存在がどれほど大きかったのか。辛いことも忙しさで忘れられたのは、そばで古美門が見守ってくれていたからだった。
古美門はいつだってずるい。
深月を喜ばせることと、深月に弱音を吐かせることがこの世の誰よりも上手い。
なのに古美門の思いを踏みにじってまでここでの生活を望んだのは自分だ……。
わかっている。
こんなふうに辛く苦しんでいても、絶対に古美門は深月に妥協を許さない。
帰るなんてことは絶対にできなかった。
昔、連載当初になかなか人気が出なくて心が折れそうだった深月に、古美門は途中で投げ出すことを許さなかった。
深月が1度決意したことを、絶対に曲げさせなかった。
11月になれば古美門は大台に乗る。
深月より5つ年上の彼女はいつだって、深月の前を歩いて、導いてくれた。
ものすごく仕事が出来て。そう思うと、壬生に憧れているのは、どこかで古美門に彼女を重ねているからかも知れない。
漫画家と担当編集という関係でもなく、恋人でもない。それなのに今でもずっと、深月の大切な人だ。
一人ぼっち、寂しい。
どうしたらいいのかもわからない。
そんな思いで頭がいっぱいになっていたのかもしれない。
自分が今何に向き合うべきで、どう変わらなきゃいけないのか。
古美門にはいつも心を動かされてばかりだ。
会ってもいないのに、それまで気づかなかった彼女の心遣いに今更感謝する。
彼女と恋人になる前の自分だったら、こういう彼女の優しさに胸がときめいて仕方なかった。
でも、今は違う。
少しときめいても、それを抑える方法を知っている。
深月は重い体を無理やりベットから起こして、大きく息を吐いた。
一緒に正気まで吐き出しそうになったが、ぐっと堪えて鈍く痛む足に力を入れた。
台所に向かってボイラーの電源を入れた。
設定でいつもより少し熱めに湯船が湧き上がるようにする。
せっかくいつもより早く帰れたんだから、湯船に浸かりながらゆっくり映画でも見よう。
そう思って防水のスマホ用袋を引き出しから取り出した。
不意に時計に目を向けると19時を回っていて、外は既に真っ暗だった。
いったい、これのどこが早い時間だというのだ。
と思いつつ、計画はそのまま実行する。
オンラインで前から気になっていた映画をレンタルする。
こんな日は悲しいラブストーリーに限る。
深月は割とバットエンドのラブストーリーが好きだった。結ばれないまま相手を想い続ける人間の心の強さというか、執念深さというか、いい意味にも悪い意味にも取れる人間らしさを第三者として眺めるのは面白かった。
昨年に公開された同性愛をテーマにした洋画を選ぶ。
同性愛をテーマにしているのに、最後に主人公の好きな人は女性と結婚する。
一度は身体的な交流まで交わしているのに、二人は年齢と性別という壁を乗り越えられなかった。
その、普通でなくても良いからと好きな人と結ばれることを望んだ主人公と、普通を貫き通した相手の葛藤がなんとも言えない切なさだった。
すっかりふやけてしまった体を湯船から出して、体をバスタオルで拭いた。
そのまま風呂場から出ると、もうすぐ23時を迎えようとしていた。
恐らく眠れない。
それはいつものことでもう、どうしようもないけれど、体と一緒に疲れきった心が温まったような気がした。
エアコンを回したままの快適な寝室でそのままベッドに寝転がる。
明日も頑張るしかないな。
大人なのだからたとえ辛くても自分の選択に責任を持つしかない。
期限付きの逃避行でも、自分で決めたことだ、今日の問題もどうにかするしかない。
深月は明日出勤をしたらまず誰に挨拶をすればいいのか考えながら、暗闇を見ないようにそっと目を閉じた。
✕✕✕✕✕
日付をまたぐかまたがないか。
そんな時間帯だったと思う。
じっと目を閉じていたせいで痙攣していた瞼が反射的に開いた。
足元に投げていたスマホが小刻みに震えて、頭の片隅にすらなかった人の名前が画面に表示されていた。
暗闇になれていた目が驚いていた。
低い音と画面の明かりが鬱陶しくて、深月は取る気のなかった電話に嫌々応えた。
「もしもし」
「……出られるなら3コールくらいで出てよね」
久しぶりに声を聞いたと言うのに、その人はものすごく横暴で、愛しさなんて微塵も感じられなかった。
似ても似つかない、それは性格も顔も。
妹のすみれは深月とは異なる人種だった。
「ごめん、スマホ充電しててさ」
家族に嘘を重ねるのは、もう息をするのと同じくらい容易いことだった。
罪悪感なんて感じない。
嘘をつくことで、深月はこれまでの自分を全て隠してきた。
だから、なのか。
母はもちろん、妹との関係もとても良いものとは言えなかった。
「お姉ちゃんが引っ越したせいで最近お母さんすごくしつこいんだけど」
静かで、引っ込み思案だった妹は、中学に上がった頃から少しずつ、道を外れていった。
立場のない人間の弱点に漬け込んで自分が利益を得て、時には暴力まで奮った。
髪は色が抜けきっていて、鎖骨の下に悪魔のタトゥーが入っている。
結果、今年の春に高校を卒業はしたけれど、定職につくわけでも進学するわけでもなく、自由気ままで行き当たりばったりな生活を送っていた。
もちろん、すみれがしていることが良くないことであることを深月だってわかっていた。
でも、かけてあげる言葉は見つからなかった。
「今日は何時に帰るのとか、どこ行くのとか、マジお前には関係ないだろってカンジ」
すみれが道から外れ始めたのは間違いなく、家族からの愛情不足だった。
はじめこそはすみれも母からの反応を気にかけていたが、仕事ばかりする母が目をくれるわけもなく、いつの間にか諦めたのか行為はさらにエスカレートしていった。
母が仕事をする。
それはもちろん父と母が離婚したせいで、離婚するきっかけを作ったのは元を辿れば深月なのだから、すみれの非行の原因は深月にあった。
別にだからって母に変わって、深月がすみれを可愛がるなんてことは見当違いだったし、すみれは幼い頃から深月のことを好いてはいなかった。
なるべくして、そうなった。
道を正せだなんて言えるはずもない。
いつか誰かに殺されそうなほど危ないことをしている様子はなかったし、さすがにすみれもほんの少しの良心はあったみたいで、犯罪に手を染めるようなことはなかった。
「そろそろ、本題に入ってもらってもいい?明日も仕事だから」
少しの間は母への愚痴を聞いてあげたが、いい加減面倒くさくなって、あっさり吐き捨てた。
冷たい言い方だったはずなのに、あーごめんごめん、とあまり気にしていないすみれのキレるボーダーがわからなかった。
深月は、要はお母さんが嫌いだから何されてもムカつくだけでしょ?と心の中でつぶやいた。
「でさ、本題?だけど……あの人から、お母さんに電話が来たの」
「ん?誰、あの人って?」
「……お父さん」
一気に体から血の気が引いて、指先が冷たくなっていった。
すみれの口からお父さんという響きが出たのは一体いつぶりなんだろうか。
父が家を出ていった日、すみれはまだ4歳で何日も家に帰らない父を探して、よく夜中に深月の部屋を訪れていた。
小さな妹には口が裂けても、私がお父さんを奪ったの、とは言えなかった。
「そっか。いつ……ぶりだっけ?」
そう思うと時の流れとは早いもので、あれから15年が経とうとしている。
「知らないよ。私の記憶にはないから、もう10年以上は前じゃない?」
こんなにも胸が高鳴って、汗が止まらないことに電話越しのすみれは気づかない。
深月の人生を台無しにして、15年が経った今でも深月を縛り続ける恐怖の人。
なのに、父のことが、気になって仕方がなかった。
「お父さん、お母さんになんていってたの?」
「んーいや、私もハッキリ聞こえたわけじゃないんだよ?お母さんに聞いても教えてくれなかったし」
「うん」
「お父さん、末期ガンで、どんなに頑張っても年は越せないって」
誰かが、トンカチで頭を叩いたんだろうか。
それくらい、大きな衝撃だった。
死ぬ。
それは簡単なことで、今時小学生でも理解できることだ。
でも深月は父が死ぬなんてこと考えられなかった。
何十年も会っていないのに、未だに深月に恐怖が与えられている。
それが、ただこの世界からいなくなることで一体どう変わるのかがわからなかった。
「てかさ、ビビったんだけど。お姉ちゃん、お父さんと連絡とってたの?」
「え?……いや。私も小5で会ったのが最後かな……」
その魂がこの世から跡形もなく消え去ろうとも、何も、変わらない。
「お父さん今ね、お姉ちゃんが住んでるトコロの近くに住んでるらしいよ」
「……っ」
はっと、息を飲んだのは、きっと電話越しのすみれにも分かっていたと思う。
思わず、声が出なかった。
返事ができなかった。
「お母さん馬鹿だなって、思ったんだけど、深月が近くにいるから、絶対に会いに行ったりしないでね、って。会いに行ったら警察に通報するって言っててさ。バラしてんじゃん」
その笑い声は失笑だった。
「気をつけてって。ただ、それだけが言いたかったの」
いつだったか、父と母の離婚の原因を大きくなったすみれに話した。
父の記憶があまりないすみれにとって、それはどうでもいい話だったけれど、いつまでも誤魔化したままではいられず、母が仕事から帰ってきたあと嫌がるすみれをダイニングテーブルに座らせた。
すみれはその時、既に学校にはほとんど行ってなかったし、俗に言うグレた子だったけど、淡々と話す母の隣で俯く深月に、一言ごめん、と言った。
何も悪くないのに、関係もないのに、ごめん、と謝った。
それに深月は返答できなかったけど、彼女に謝らせてしまう自分の過去が許せなかった。
「なんでなんだろうね。なんで、そこなんだろうね」
この場所に決めたのは日本全国の中で一番魅力のない場所で、無駄に人が集まって来ないと思ったから。
この街を選んだのは、自然の多さが良かったから。
東京へのアクセスも悪くはなかったから。
もしも、父が深月と同じ考えなら。
いや、逆だ。
父の考え方に、今も深月が囚われているのなら。
それは何も、おかしな話じゃなかった。
「私は別にさ、覚えてもない人が死のうが生きようが関係ないけどさ。お姉ちゃんはお父さんのこと、少なくとも昔は、好きだったでしょ」
たまに。
ごくたまに。
すみれが一体全体何を考えているのかわからなくなる。
3コールで電話に出ない相手を見捨てずにしばらく待ち、どうでもいい人間の話をわざわざ深月にする。
「ありがとう、教えてくれて。何もする気は……うん。ないけどさ、頭のどっかに置いておくよ」
「うん。それだけだから、じゃあね」
「うん」
優しいのかもしれない。
世間一般で言うと。
彼女は幼い頃の優しさを心のどこかに残しているのかもしれない。
でも、それは家族だから。
それに惹かれることもなければ、驚くこともしない。
そのあとプツリと通話が切れて、無機質な音が深月の耳に届いた。
再び部屋に静寂が訪れる。
でも心の中はザワザワと騒ぎ続けていて、頭の中ですみれの言葉が繰り返されていた。
『近くに住んでるらしいよ?』
父がそばにいる。
それはとてつもなく恐ろしいことだ。
部屋の電気を消したら暗闇に父が潜んでいるかもしれない。クローゼットの中に身を隠し、深月が眠るのを息を潜めて待っているかもしれない。
だって父も深月が近くにいることを知っている。
どうにか手段を尽くして、深月の元に訪れるかもしれない。
殺し損ねた憎らしい深月をこの世から抹消しに来るかもしれない。
でも、それはそれで仕方のないことなのかもしれない。
今でも、優しくて温かかった父がなぜ深月を憎むようになったのか、理由は知らないけれど、十中八九深月が悪いなら仕方ないと、どこかで受け入れてる自分がいる。
きっと、まだ、深月の中には父が育てた父のことが大好きな深月がいるのだ。だから、こうして自分でも理解ができない曖昧な考えが生まれてしまう。
本当は、会って話してみたい。
父があの頃何に悩み、何に追いかけられ、どういう経緯で深月を恨むことになったのか、本人から聞いてみたい。
何せ今はもう、あの頃の自分とは違う。
年齢も、体の大きさも、考え方も、父の手の中にいた自分とは違う。
殴られたら殴り返すくらいの、ナイフを出されたらそれに対抗するくらいの、勇気が今の深月には備わっている。
「なんてね……」
自分で考えていて、自分で否定するなんて馬鹿らしいけど、そんな未来は存在しない。
父が深月を殺したいなら、もうとっくに深月はこの世にいない。
そんな機会はこれまでにいくらでも存在した。
だから父が深月を襲いに来る未来も、父と会って話す未来もやってくるはずがない。
そんなのはわかっていた。
ならばなぜ、自分は未だにクローゼットを開けることができないんだろうか。
辻褄が合わない自分を面倒に思う。
今はそんなことを考えている場合じゃないのに……。
目の前にある課題。
解決すべき問題がある。
このままじゃ、バイトを辞めざるを得ないだろう。
それはどうにかして避けたい。
こちらの生活での唯一の生きがいをなくしてしまうのは惜しかった。
スマホを充電器に繋ぐために、ベッドから体を起こして部屋の電気を付けた。
部屋着の灰色のTシャツはいつの間にか冷や汗で汗ジミができていて、自分の心が今どれだけ乱れているのかがめでみてわかった。
頭が渋滞してる。
考えるべきことと忘れられないことがもう、頭の中で処理できていなかった。
深月はそのまま服を脱いで再びお風呂に入った。
すっかり温もりを失ってしまった湯船も、その冷たさが頭を冷やしてくれて、長いこと浸かっていた。
朝がさっさとやってくればいいのにと願った。
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