第5話 落とされた結晶
太陽が顔を出したばかりのまだ涼しい時間。
ひよこが鳴く前に体を起こした。
外は雲一つなくて、今日は晴天が予想されそうだ。
また、暑くなるんだろうな。
それを憂鬱に思いつつ、久しぶりに重みのない体に深月は驚いた。
事態は何も解決はしていないのに、心はすっかり軽くなっていた。
壬生の凄さを知る。
仕事ができるところに古美門に近いものを感じていたが、どうやら彼女はそれ以外も古美門に似ているらしく、深月の心の負担を軽くしてくれた。
それにしても……。
新しい朝を迎えても深月の頭の中には、優しく笑った壬生の姿が離れなかった。
激しい動悸。
恋に落ちたわけではないのはわかっている。
いったいあれは何だったんだろうか。
深月はそうやってしばらくベッドに腰掛けてぼーっとしていたが、猛烈に喉が乾いて立ち上がりキッチンに向かった。
昨夜はいつの間にか汗をかいていたらしく、果汁100%のフルーツジュースが飲みたい気分だった。
引越しの時に、母が家で眠っていた余り物の缶ジュースを持たせてくれたはず。
それをどこにいれたのか、すぐに思い出せない深月はその場でくるくると回った。
キッチンにはまだ、ないかもしれない。
移動した記憶が無い。
いったいあれは何番目のダンボールだったろうか。
くるくる回った流れで、キッチンから廊下に出て、玄関を入ってすぐ右手にある部屋に入る。
寝室の正面に位置しているその部屋は、引越しした時の必要のない荷物がそのまま放置されている物置部屋だった。
物置に一つ使うくらいなら、置いてくれば良かったのにと傍から見れば思うかもしれないが、そこには深月が手放すことの出来ない大量の本が主にある。
1年間も離れることはできなかった。
そして、本の他にも冬には着ることになるであろう大量の服がある。
普通の人ならクローゼットに収納するのだろうが、深月はクローゼットの扉を開けることができなかった。
それは片付けができないから、とか、模様替えが面倒くさいから、とか一般的な理由ではなくただ単にその中にある暗闇と圧迫感が恐怖なのだ。
父と自分の幸せを奪った忌々しい空間。
幼い頃はそうしてクローゼットに罪をなすりつけていた。
もちろん深月も25歳になって、あの時味わった恐怖がクローゼットのせいだとは思っていないけれど……。
大人になった今でもその中を覗くだけで、思い出したくない記憶が頭を支配し、何も考えられなくなる。
乗り越えようと何度も考えたが、何も考えられなくなる恐怖を知ってしまったあとは、その取手に手を置くと腕に一切力が入らなかった。
だからクローゼットは使えない。
部屋の中で平積みにされた無数のダンボール。
本当はクローゼットで管理されるべき荷物たち。
深月はその中から「食品③」と書かれた箱を積まれたダンボールの一番下から引き抜いた。
確か保存できるものの中でも、飲み物は重いから一番下にしていたはず。
封をしていたガムテープを剥がして、口をひらく。
たった2ヶ月でもさすがに一切掃除をしていないとなると、どこからともなく現れるらしく、蓋にはうっすらとホコリの層ができていた。
箱の中にはミネラルウォーターが数本に180mlのジュース缶が10本弱入っていた。
グレープ、マスカット、リンゴ、オレンジ……。
それぞれを一種類ずつ取って深月はそうそうにその部屋から出た。
今日はせっかく気分が晴れている。
余計なことをして、無駄に色々なものを思い出したくなかった。
そのままキッチンに戻って、グラスに数個氷を入れたら、今日はそこにマスカットのジュースを注いだ。
この4種類の果物から一番好きなものを選ぶならマスカットかな。
グレープとマスカットが色以外明確に何が違うのか、そんなに大差ないと思っている深月だが、透き通る黄緑色の液体が、氷を鳴らして、心地の良い音にしばらく耳を傾けていた。
少ししていつものように何となくテレビをつけてみるともう時間はいつも通りだった。
「昨夜未明、警察官が何者かによって路上で刺されました」
アナウンサーは淡々と原稿に沿って、事件を読み上げる。
普通はもっと顔色くらい変えてもいいような事件だ。
この国が安全であるために必要な人たち。
街をゆうゆうと歩くために必要な秩序。
その一端を担う人が殺されたというのに、なんとまあ反応が薄い。
深月はそう思いつつ、自分もこうして分析していることで、事件に対してなんの恐怖も抱いていないことに気づく。
普通とは恐ろしい。
自分の身にその不幸が降りかかることを考えてもいない。
一度その不幸は我が身にやってきたというのに。
はぁ、とため息をついて、それ以上考えるのをやめた。
なんだか今日は余計なことを考えやすいみたいだ。
ニュースがショートアニメに変わったのと同時にテレビの電源を消して、飲み終えたグラスをさっと洗った。
今日はをもう、早めに家を出よう。
店につく頃には恐らく汗だくになっているはずだから替えのTシャツもリュックにつめて、駆け出す。
小さな駐輪場に停めてある自転車に股がってペダルに体重をのせた。
昨日は壬生に家に送り届けてもらったあと、折りたたんだ自転車をなかなか元通りに戻せなくて、1時間近く携帯を見ながら悪戦苦闘していた。
結局暗くて見えなかったレバーをひかないと、部品がはまらず、それに気づいた瞬間馬鹿な自分に笑ってしまった。
今こうして漕いでいると、馬鹿な自分だが、自分らしかったと思う。
冷静になればすぐ思いついたことも思いつかなかった。壬生に少し近づけたことで舞い上がっていたのかもしれない。
自転車を運転している時はヘッドホンを付けられないため、いつの間にか鼻歌がこぼれる。
高校生だった時に流行っていた曲。
あの時恋してた隣の席の女子が口ずさんでいたPOPな失恋ソング。
言えなかった恋。言わないことで、幸せでいられた恋。
あの時は、若かったんだな。
10年ほど前の甘酸っぱい気持ちを思い出す。
まさかあの時は自分の恋愛対象が女だとは思わなくて、その女の子への気持ちに気づくのに時間がかかったけど、今考えれば納得がいく。
父のおかげで、男性は苦手どころか、本当なら関わりたくもなかった。
彼らは強いから。乱暴だから。
幼い頃母が言っていた言葉を信じていなかった夏の日を経て、それからはそれがしっかりと体に染み付いている。
理由はそれだけじゃないけど、別に古美門が初恋だったわけじゃない。
あんなに好きになったのは彼女しかいないかもしれないけれど……。
そうして、己の恋愛について回想しているとあっという間にお店につく。
歩きでは1時間近くかかるのに、自転車だとものの数十分で到着する。
行きは下り坂が多いからだ。
その分帰り道は倍近く時間がかかるが……。
就業時間の20分前。
ドアを開けると既に店長と早番の別のスタッフがや来ていた。
今日の早番担当は店長らしく、必然的に壬生が今日休みだと知る。
少しだけ残念に思いつつ、リュックを自分のロッカーに入れてすぐに更衣室に向かった。
汗が止まらない。
朝起きた時から今日は暑くなるとは思っていたけれど、田んぼで開けたアスファルトの道は驚くほどの熱が深月を襲う。
あぁなんで、免許を取らなかったんだろうか、と着替えをする度思うのは少しずつ深月の生活が田舎に支配されてきたおかげなんだろう。
白い半袖からお店で指定されている無地の黒Tに着替え、更衣室から出ていく。
就業時間10分前。
気だるそうに書籍のパート3人が入店してくる。
3人全員が揃うことは1週間に二、三度くらいしかないのだが、残念ながら今日は揃う日らしく、朝家を出ていた時は晴れていた心が徐々に陰り出す。
今日は壬生もいない。
何とか、やり過ごせるだろうか……。
不安いっぱいのまま時間になり、店長の呼びかけで朝礼が始まる。
最初の2時間はレジだ。
研修を終えて、この1ヶ月はずっと1人でやっている。ミスがないわけではないけれど、最近減ってきている。
中古商品も扱うこの店では新品中古を分けるレジの打ち間違えが多い。
細心の注意を払いながらとめどなく訪れる客の対応をしているとあっという間に2時間が経過した。
次のレジ担当スタッフが後ろからそっと出てきて、深月とバトンタッチする。
バックヤードを通って事務所に戻ると、店長と書籍のパート3人が丸くなって話をしていた。
「だから!私たち見たんですって!」
「大西さんがこのマンガ破ってるところっ」
「3人も見てたんだから見間違えるわけないです!!あれは大西さんがやったんですっ」
またか……。
思わず口からため息が出るが、次の瞬間深月の心を弾丸で撃ち抜いたようなショックが襲った。
「そ……れ。なんですか……?」
「あ、戻ってきたわよ!!!」
柴田の手にはビリビリに切り裂かれた1冊の漫画があった。
ハサミを紙に刺して、そのまま無理やり引き裂いたような乱雑な破き方。それに表紙を飾っていた主人公の顔はズタズタに傷つけられていた。
「私たち、大西さんがこのマンガにハサミ入れてるところ見たんですよ!店長」
「すごい形相で恨めしそうにカッター入れてるの見たんですからっ」
それは1巻だった。
発売された日のことをよく覚えてる。
とうとう、やっと、努力が報われた。
古美門と恋人になったのも1巻の発売のお祝いに2人で飲みに行った日のことだった。
喜びを分かちあって、お互いの気持ちを確認しあって、その漫画が発売された日、深月は幸せだった。
失われた幸せが戻ってきた瞬間だった。
「なんで……」
「なんでって!私たちが聞きたいわよ!大切な商品をこんなにして」
漫画家山谷蘭やまやらんのデビュー作にして、大手連載決定作品。
それは連載が止まったままの深月の作品だった。
「……わかりました。わかりましたから。とりあえず大西さんからお話は伺います。柴田さんたちは早く仕事に戻って」
激しい動悸。
昨日壬生といる時に感じたものとは全く違う。
体が怒りで震えている。今にも襲いかかりたくて仕方がない。
でもそれはあっちの思うつぼだ。深月に罪をなすりつけようとしている3人の作戦にのることになる。
わなわなと震える右手の拳を左手で抑えて、目を固く瞑って大きく息を吸い込んだ。
「大西さん、少しいいかな」
返事はできなかった。
ただの紙切れ。
この世に何千冊とある深月の作品の1巻。
それでも、自分の努力の象徴であるそれを傷つけられたことは大きな大きなショックで、決して許せるものじゃなかった。
店長に促され、外に出る。
少し歩きませんか、と仕事中にそう提案してきたのは彼の方で少し意外だと思ったが、少しして理解する。
店の近くだと3人に聞かれている可能性がある。
深月は頷き、店長の背中を追いかけた。
店の脇を流れている下水なのか川なのか分からないほど、汚い水の流れに沿って5分ほど歩いた。
お店の制服を着たままの二人が、そうして歩いていることはおかしなことだったけれど、そうして自分たちを客観的に見ているうちに徐々に冷静になっていった。
お店の商品を破くなんて、許されない。
下手をしたらクビになるかもしれない。
誰が……?
「……あの!店長!……私じゃ、私じゃありません!!」
深月は柄にもなく大きな声で叫んでいた。
心は焦りでいっぱいだった。
壬生を追いかけたい。だからきちんと向き合わなければいけないと思った。
決心した矢先だった。
「わかってますよ。大西さんはあの作品を破かない。……いや、そもそも本を破いたりはしないですよね?」
前を歩いていた店長が、深月の声に反応してゆっくりと振り返った。
「本、大好きですもんね」
どちらからともなく進めていた足を止め、風が頬をなでる中向かい合った。
彼は笑っていた。
「入った頃にちゃんと、言いましたよね?あの3人に何かされたらすぐ報告してくださいって」
「すみません……。どのタイミングで報告をすべきなのか判断できなくて」
「まあ確かに、報告を受けたところで何も出来ないんですが、把握しておく必要はあります」
笑顔を崩さないまま会話を続けるいつもは気弱な店長が、少しだけ怖くなって、同時に父のことを思い出した。
感情が顔に出ないのは、とても恐ろしいことだ。
「壬生さんには……少しだけ相談しました」
「そう、ですか。私は何も聞いていませんでした。彼女も恐らくまだ報告すべきではないと判断したんでしょうね」
難しい事態ではあるんですけどね、と店長は深月から目を逸らしながらつぶやいた。
彼は何を見つめていたんだろうか。
田んぼの上を自由に羽ばたくカラスか、小高い山か、いずれにしても彼がその時に深月から目を逸らしたのはあまりにも不自然で、なぜそうしたのか、察しの悪い深月にもわかる。
「面倒なことにはならないようにします。自分で解決します。だから……」
「向上心があることはいいことです。何事においても大切なことです。でも、向上したいという思いに気を取られて、自分がすべきことを見失わないでくださいね」
それは事態を解決できていない深月に対する嫌味なのか、単純に上司としてのアドバイスなのか、彼の表情からは窺えなかったけれど、深月はその言葉を重要事項として受け止めた。
「はい。肝に銘じておきます」
彼は何かを見つめていた視線を再び深月に戻して、その肩に小さな虫がいることを教えてくれた。
冷静にそれを取る深月に関心しながら、話は徐々に本題から離れていった。
僕ね、蚊は人類の敵だと思っているんですよ。
さっきまであれほど真剣な話をしていたのに、今はそんなことを忘れてしまいそうになるくらい、くだらない話が広がっていった。
確かに、蚊は憎むべき敵かもしれない。
「では」
店を出た時は5分くらい歩いたような気がしたけど、帰りは1、2分で着いたような気がした。
逸れすぎてもはやなんの話しをしていたのか忘れた深月は、彼の頭にうっすらと汗が滲んでいることに気がついた。
こうして自然にかいた汗は光りにくいんだな、と本人には到底言えそうにないことを考える。
彼は店のドアに手をかけながら、そこに力を入れる前に後ろを歩いていた深月に声をかけた。
「今日はもう、上がってください。雰囲気も悪いですし」
「え、でも!」
「足りないところとか、終わらない仕事は僕がやっておきますから。今日はゆっくり休んでください」
「いえ、皆さんにも店長にも迷惑がかかるので」
そう、必死に説明しても店長は耳を貸さなかった。
「荷物、僕が持ってきても構いませんか?」
恐らくこれが今の彼にできる心遣いの限界なのだと、どうしようもないくらい雰囲気の悪い店のみんなへの配慮をするにはこれが最善なのだと、頭ではわかっているのに気持ちに整理がつけられなかった。
なぜ。悪いのは3人だとわかっているのに……。
深月がしばらく返事をしないでいると、彼はそれが肯定のサインだと受け止めたらしく、重いドアを引いて店内に消えていってしまった。
憤る気持ちを噛み潰して、裏口の壁に寄りかかりながら駐車場を眺めてみた。
平日のお昼時だと言うのにひっきりなしに車が出入りしていて、自分がどんな佳境にいても世間は表情を変えないことが見えていた。
彼らは裏口に人が立っていることに気づきもせず、自分の目的のためだけに進んでいく。
そこですれ違う人がたとえ何に苦しんでいようとも、自分に関わりのないことには気にしようともしない。
何もそれは深月も例外では無いはずだけれど、この人々の中にはもしかしたら深月の作品を買いに来た人もいるのかもしれないと考えると、なんだかおかしな気持ちになった。
深月には目もくれない。
その目に深月は映らない。
なのに、作品だけは愛されている。
深月の世界だけが、独り歩きしていく。
誰も、深月には、微塵の興味もないのに……。
「そっか。私、寂しかったんだ」
そこにはまだ見つけられていなかった小さな深月の本音が転がっていた。
漫画を一度休もうと思った理由はいくつもあった。だから、休むと決めた時止められはしても、不思議がられることなんてなかった。
深月の中にある物語だけが、たくさんの人から愛されて、評価されて、それが深月の身の丈に合わなくなったから、描きたくなかったんだ。
自分には相応しくなかった。
田舎街にくれば、それも少し変わるかな、と。
勇敢で立派な彼らと縁もゆかりも無い街にくれば、そのうち気にならなくなるかな、と思っていた。
間違えたな……。
深月はその時、初めて、一瞬だけ、このバイト先を選んだことを後悔した。そして辞めたいという考えが、チラリと顔を見せた。
「大西さん」
いつの間にか心ばかりドアが開けられていて、そこから深月の荷物が差し出されていた。
顔が全く見えないくらいの狭すぎる隙間から、それじゃあ今日はお疲れ様、と心にもない店長の言葉が飛んできて、壬生が何一つ間違っていなかったことを知った。
店長は、優しくない。
若干奪い取るようにリュックを受け取り、早足で自転車に跨った。
彼の声を聞いて苛立ちを思い出すと、さっき自分が気づいた劣等感も忘れてしまっていた。
田んぼ道を抜けて、ペダルを漕ぐ足に力をこめる。
通り過ぎた草むらから少し時期の早いイナゴが飛び上がっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます