第4話 一歩目の夏

 それから同じような毎日を何度も繰り返して、引っ越してきて2ヶ月が経って7月になった。


 暑さが日に日にまして、半袖が活躍する大嫌いな夏が来た。


 この2ヶ月最悪な日を何日か重ねて、休日の半分は布団で転がって過ごして、夕方近くになると買い出しに向かった。


 けれど同じような毎日を送っていたからと言って何もなかったわけではなかった。


 まず、自転車が届いて生活が広がった。


 買い出しは少し遠くのスーパーに行けるようになったし、仕事先にもスムーズに行けるようになった。


 1度だけ、転んで膝を擦りむいて酷くえぐれてしまったけれど、それ以外は申し分ない、快適な生活だった。


 そして、何より自分が今まで知らなかった自分についてたくさんのことを知った。残念ながらそれは隠された自分の能力に気づけたわけではないけれど。


 仕事はあまり得意ではなくて、うまく接客もできないし、要領もいい方ではなかった。


 25年。

 普通ならば高校、もしくは大学を卒業して生活していれば自分のスキルなんて当たり前に知っている。


 例え正規に雇われていなかったとしても、仕事を通してだいたい自分にどんなことができて、どんなことができないかくらい把握している。


 それが深月の場合、ここまで知らずに生きてきた。


 なりたくて漫画家になって、将来にはなんの不安もなかった。


 このまま生きて、ある程度マナーがわかっていれば何も問題は起きないと思っていたのに……。


 こうして働き始めて、なんで今まで何もしようとしなかったのかこれまでの自分を責めたくなった。


 高校3年生の時、専門学校に進学することは夏休みには決まっていた。

 けれどバイトしよう、なんて考えは頭の片隅にもなかった。


 専門学校に入って、マンガが大賞を取るまで、絵を描く時間は欲しかったけれどバイトができないわけではなかった。


 あの時から深月には絵を描くこと、マンガを描くことが全てで、努力して耐え続ければきっと思い通りに生きていけると思っていた。


 そう考えていたことを、よく覚えている。


 学生時代から自分の性根は何も変わっていないんだなと思い知る。


 どうして、と思ってしまう。


 社会を知ろうとも思わなかった。


 そんな自分が許せなかった。


 仕事をする度に、深月の中で壬生への憧れが強くなっていった。


 本当に、惚れ惚れするほど効率よく仕事をこなして、お客さんに対してもいつだって丁寧だった。


 それに他のスタッフは無視してしまう、書籍のパート3人からの嫌がらせについて、いつも深月を気にかけてくれて、社員の鏡だと思う。


 初めて壬生と会った日の退勤後、コンビニで遭遇した時と同じようにそのあとも何度も壬生とコンビニで会った。


 最初は話しかけない日もあったけれど、日に日に嫌がらせがエスカレートしていく中、壬生は次第に自然と深月に声をかけるようになった。


 それは社員としての心遣いなのか、人として弱い立場にある深月への同情なのかは分からないけれど、その温かさが深月には救いになっていた。


 仕事ができる。

 人付き合いもうまい。


 深月とは正反対。


 だから目標から程遠い、遠すぎる自分に何度も嫌気がさしていた。


 ここでの生活は人生の中の通過点に過ぎないと初めに言ったのは自分なのに、仕事を覚えていくほどにどんどん楽しくなって行って、やりがいを感じていた。


 早く仕事を覚えたい、要領が悪いから早く人並になれるようにしたい。

 仕事を上手くやるために、まず書籍のパート3人の気持ちを理解しなければいけない。彼女たちの言い分を聞かなければならない。


 気持ちが前に出て、まるで今までの自分とは比較できないくらい深月は前のめりになっていった。


 メモが増えて、確認することが増えて。


 そのおかげでやれることも増えていったのに……。


 深月が前向きになればなるほどに、彼女たちとぶつかり合う機会が増えた。


 もちろん今では、3人が柴田、新井、八重垣の3名で構成されていること、柴田が主犯格でほか二人は柴田を真似ているだけであることは理解していて、なんとか上手くやろうと深月は考えてきた。


 でも、どうしても、ミスはしてしまう。


 そのミスを、まるで水を得た魚のように3人は求めているのだ。


 大して仕事も教えないくせに、深月がわからないからこそしてしまったミスを3人で責め立ててくる。


 はじめこそはどこにでもありそうな嫌味しか言わなかった3人であったが、その行為も徐々にエスカレートしていき、今では仕事場で安易に気を抜けない。


 学校内で起こるいじめのように、永遠と隙を狙ってつきまとってくる。


 出勤初日に交換していたLINEもブロックされ、グループからも退会させられた。

 なんとか個人で交換していた別スタッフから連絡事項は回ってくるものの、時々穴があって業務に影響をきたした。


 度々私物がなくなった。

 ハサミ、印鑑、1番嫌だと思ったのはペンがなくなったことだ。

 休載を発表した時、1年間楽しんできてくださいね、とアシスタントのみんながくれた多色ボールペン。


 置き忘れたことも考えたけど、何度も何度も繰り返されるうちにそれが抜き取られていることに気がついた。


 仕事は楽しい。

 でもそれだけじゃいられない。


 3人の行為がエスカレートしていくに連れて、不眠症が酷くなって全く眠れない日が何日も続いた。


 壬生が声をかけてくれても、完璧に頼りきって心を許すことの出来ない自分には、結局現状解決のために何もできていなかった。


 部屋の電気を消せなくなる。


 暗闇に入ったら、自分も溶けてなくなっていってしまいそうだと想像してしまうほど、心が不安定になった。


 大丈夫、まだ。

 大丈夫。


 不安定になる意味がわからない。さして、ダメージも受けていないはずなのに。


 そうして自分を誤魔化しながらやり過ごして、3人を責めないまま話し合う機会も設けないまま2ヶ月が過ぎた。


 五連勤を終えた夕方。


 いつものように仕事終わりにコンビニに立ち寄った。どうせ後で会うのだから、と最近ではお店を出る前から壬生と行動を共にしている。


 相変わらず彼女はインスタントで簡単に食べられるものしか購入しなかったけれど、今日はいつも足を止めない棚の前で商品を見ていた。


「大西さんってコーヒー飲めるのー?」


「はい、結構好きで毎日飲んでますね」


 彼女は何気なく、よく深月の好き嫌いについて聞いた。単純な興味か、会話を続けるための彼女の思いやりかは深月に判断できなかったけど、そのあと、壬生さんは?と続けるのがテンプレになり、会話は自然と弾むことが多い。


 これを自然にやっているのならば、彼女は恐らくすごく人がいいんだろう。


「私はね〜苦いのは苦手。甘いのは好き」


 はにかんでこちらに笑顔を見せる彼女は、年上で上司には見えないほど無邪気だったけど、今日はその質問はただの興味ではなかった。


「ねえ大西さん。今日ってこのあと時間あるかな?コーヒー奢るから少し私とお話しない?」


 彼女は商品を持っていない方の深月の手をそっと掴んで、深月の目をじっとのぞき込んだ。


 その頬には“絶対に逃がしません”と大きく書かれていた。


 深月は首を縦に振り、コーヒーを貰えるのなら、と購入しようとしていた飲み物をそっと棚に戻した。


 彼女が会計を終えるのを待ち、コンビニではなく、お店に停めたままの彼女の車へと向かった。


 お店の駐車場によく停まっている白い大きなワゴン車に彼女が乗り込んでいって、まさか可愛らしい彼女がこんな大きな車に乗っているだなんて考えてもいなかった深月は、驚きながらも彼女に促されるまま助手席に乗った。


「ごめんね!ゴミが、あ、今どける!」


 車に誘ったのは思いつきらしく、普段の彼女の少しだらしない一面を知った。


 そんなに気にしなくてもいいのに、と心の中で思ったが、恐らく自分も自宅に人を招くのなら少し取り繕ってしまうのだろうと考えに至った深月は、彼女が満足に片付けを終えるまで、入退店を繰り返す客人たちを眺めていた。


「仕事、楽しい?」


 彼女はまだ、足元に転がっているペットボトルに手を伸ばしていたけれど、顔を上げることなく、深月に初めて会った日と同じ質問をした。


 それは彼女にとって、まったく別の意味の質問だったけど、深月は確信を持って答えた。


「楽しいですよ。今までやってきた仕事とは全く違うので、やりがいは感じてます。本を眺めるのは好きなんです」


「……そっか」


 車から降りるなり、母親を待たずに駆け出した小さな少年がお店の入口で段差にひっかかって転んだ。


 自分で母親を置いていったくせに、未だに車から降りられずにいた母親を泣きながら呼んでいた。


 それを自分はまったく心動かされるずにただ眺めていた。


 あれくらい、自分勝手に素直になれたら、もう少し深月も生きやすかったのかもしれない。


「私はね、楽しくなんかないよ。お客さんはいつも横暴だし、店長は気が弱くて何もしてくれない。大切な新人を寄ってたかっていじめるパートが3人もいるし、私と同じ立場でその惨状を目の前で見てるはずなのに、何も知らないふりをする社員がいる。私はこの仕事、全然好きじゃない」


 ようやく気が済むまで片付けられたのか、彼女は自分の気持ちを吐き出しながらようやく深月の方へと目を向けた。


 転んだ少年は母親に抱きかかえられて、入店していった。


 思いもしなかった彼女の本音は、深月の視線を壬生に戻すには十分の影響力で、彼女が今日、深月を車に誘った理由がようやくわかった。


「……意外です。楽しそうに接客、してたし、スタッフのみんなと仲良くやってるから、仕事、大好きなんだと思ってました」


「人間ってそんなものだよね。他者から見た自分と本当の自分には大きな差があってさ。私はいつも、もう一人の自分に憧れちゃうの」


 壬生は手持ち無沙汰になった自分の両手を眺めて、その手で何も掴めなかった過去を思い出していた。


 違う。彼女は違う。


 違うのに……。


 そして自分が必要以上に深月を気にかけていたことを自覚したのだ。


 過去に捕われたままのかっこ悪い壬生素直みぶすなお。


 深月にはそう見えていないことが余計に心苦しかった。


「逆だったね。私、大西さんそろそろ仕事辞めちゃうんじゃないかと思ってた。だから、今日話してみようと思ったの。辞めようと思っているなら止めるつもりはなかったけど、そっか。好きなのか、仕事」


 深月は期待外れで申し訳ない、と思ったが、壬生は安堵の表情を浮かべていた。

 自分の心臓がまるで、誰かに撫でられたようにドキリとして胸が苦しくなった。これだけ美人な人に、優しい顔をされたら誰だってときめくのかもしれないが、古美門と出会った頃に感じていた動悸と同じものが、深月を襲っていた。


「このお店に入る時、店長にあの3人には気をつけるように言われてなかった?」


「言われてました。でも……迷惑をかえているのも、ミスをしてしまっているのも自分なので、彼女たちのせいにするのはなんだか違う気がしたんです」


 綺麗事と笑うかもしれない。


 迷惑かけてミスをするけれどそれが新人なのだから教える側はそこに文句を言ってはいけない、教えられる側も誠心誠意答えなきゃいけない、と世間では言うのかもしれない。


 でも、これが深月の本音だ。


 自分が無能であることは変わりがない。


 確かにパート3人の口が悪く、いじめまがいの行為をされているのは間違いないけれど。


「彼女たちの悪態や私を責める態度は何も彼女たちだけの問題ではありません。私にも解決すべき点がある」


 壬生は深月のハッキリとした物言いにクスリと笑を零した。


 仮にもこれが嫌がらせを受けている本人が言うセリフなんだろうか、と心の中で深月の強さに感銘を受けて、そのあと全てが杞憂であったのだと悟った。


「大西さんが、これまでに辞めていった方とは違くてよかった……。安心しました」


「可愛げないですよね。だから3人とも上手くやれないのかもしれませんが」


「いいえ。それくらい強い方が、きっと」


 壬生はそのあと何かを続けようとして、少し考えたあと、ごめん、言葉が見つからない、と言って笑った。


「でもきっと、うん。強い方がいいよ、逃げない方がいいと思う」


 彼女がその時いったい何を考えたせいで言葉が詰まってしまったのかは分からなかったけれど、尊敬してやまない壬生素直という人物が、深月が想像していたよりも人間らしい人で、なぜだか安心したのだ。


 さすがにこの二人きりの空間で、辞めない原因は壬生さんにもあるんですよ、なんてことは言えなかった。


 それはまるで愛の告白のようだ。


 深月はその思いをそっと胸の中に隠して、彼女の優しさを噛み締めた。


 ここでの生活で、味方など誰もいないと思っていた。


 自分みたいな人間の味方になってくれる人なんていやしないと思っていた。


 けれど彼女は静かに深月に近づき、寄り添ってくれる温かな人だった。



 彼女の思いを踏みにじりたくない。



 深月はその時、3人に負けてたまるかと反抗心を持った。

 この事態は自分のせい、それが大前提だけど、仕事を辞めずに壬生について行きたいと思った。


 大した会話をしてないと思っていたが、7月でも夜7時を過ぎるとだいぶ暗くなるようで、話が一段落して外に目を向けてみるとすっかり暗くなってしまっていた。


「ごめんね、こんな時間まで付き合わせて。大西さんって自転車だよね?」


「はい。急いで帰ります!」


 深月がそう答えると、壬生は後部座席を瞬時に確認して、運転席のドアを思い切り開けた。


「自転車後ろに積んで行っちゃってください。家まで送ります」


 え?と驚愕で固まる深月だが、彼女はその顔を気にすることもなく、座席を倒し前に寄せていく。


「そそそんな!!いいです!!飛ばせばすぐ着くので!!」


「物騒な事件あったばかりですよね?こういう時は素直に頼ってください!!」


 本当は夜が怖かった。


 家からこのお店まで、街頭がない場所は数箇所ある。


 数ヶ月前のニュースを思い出し、少しだけ足がすくんだ。


「では、すみません。よろしくお願いします」


 深月は急いで助手席から降りて、駐輪場に停めてある自転車を彼女の車の脇に持ってきた。


 機能性を重視して、折りたたみ自転車を選んでよかった。


 深月は心の中で喜びながら、手馴れない様子で自転車を折りたたんでいく。


 ボディを半分に折るには少しだけ力が必要で、困っていたら後ろからすっと壬生の手が伸びてきて力を添えてくれた。


 優しい柔軟剤の匂いがした。


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