第3話 漫画家にはわからない
小さなひよこの鳴き声。
目覚ましの音は13歳でこの時計を買ってもらってから一度も変えていない。
小さな音でも、通常生活で鳴るべきじゃない音が聞こえれば深月は自然と目を覚ます。
緊張しきって固まりそうな体をベッドから起こして、大きな伸びをした。
水色のカーテン越しに朝日が差し込んで、部屋全体を優しい明かりが包み込んでいた。
朝は好きだ。
思い悩んでいても、必ずやってくる。
たとえ一睡もできなくて、長い夜が続いても太陽が登れば耐える必要がなくなる。
他の人と変わらない、普通の生活が始まっていく。
だから深月は大きな伸びを終えると軽やかに寝室を出た。
朝食は取らない。
時々、気がむけばフルーツを摘むことはあるけれど別に食べなくてもやっていけるので、面倒なことはしない。
お茶かコーヒーかどちらかを用意して、乾ききった体を潤わせた。
つい習慣でつけてしまったテレビからここからほど近い場所で起きた事件についてのニュースが流れた。
穏やかな場所だからここを選んだのに、と内心思いつつニュースに耳を傾けると、夜道で少女が襲われ殺されたのだという。
周りには街灯もなく近くの民家までは……。
と聞いたところで納得した。
都会では起こりえない事件。
バイトからの帰り道は気をつけなきゃな、と思いつつ、こんななんの魅力もないおばさんのことは誰も襲わないか、と自己解決しテレビを消した。
昨夜のうちに準備しておいた黒いジーンズに七分袖の黒Tシャツを着て、赤と白の薄手のジャンバーに腕を通した。
バイト先まではここから歩いて1時間ほどかかる。
思いのほかゆっくりとテレビを見て過ごしていたことに気づいた深月は慌てて化粧をした。
「いってきます」
返事のない挨拶。
声が返ってこないことに虚しくなるくらいなら、いっそのこと言わなければいいのに、今更やめることはできない。
リュックを背負って、黒い何の変哲もない靴を履いて家を出た。
出勤時間の1時間15分前。
時間に余裕がないのはあまり好きじゃない。
早く行き過ぎるのは困ってしまうが、余裕を持つことは大切なことだ。
焦らないように、失敗しないように心を整える。
音楽を聴こうとリュックからヘッドホンを取り出した。
このヘッドホンがリュックの3分の1を占めている。
イヤホンが苦手な深月に去年の大晦日、遅れたクリスマスプレゼントと言って、古美門がくれたワイヤレスのヘッドホン。
もちろん深月はなにも用意していなくて、お返しを渡したのは今年になってしまってからだが、深月のあげた腕時計を嬉しそうに毎日身につける彼女を見て、深月も笑顔になった。
それもなんだか遠い昔のことのようだ。
場所が変わると思い出も遠いものに感じてしまうんだな、と感慨深く思っても、気にせずにそのヘッドホンを耳に当てた。
後悔などしてない。
どうせ一年後にはこれまでと変わらない生活を送っているはずだ。
踏み外さないように慎重に階段を降りて、歩道に出た。
昨日通った道とは逆方向の田んぼ道の中、足を進める。
一昨日初出勤にして、たまたま自分の所属する書籍部門の全スタッフに会うことができた。
社員の男性スタッフ1人に、契約社員の女性が1人。それに加えて3人のパート女性で構成されている書籍スタッフは全員明るくてハキハキとしたメンバーだった。
大きな店内でメインを占めている書籍は他部門(ゲームやCD、文具などの部門)に比べて多くの人員が割り振られていて、そのせいでトラブルもあるらしく、店長からは何かあったらすぐに相談しほしいと事前に言われた。
入れ替わりが激しくてさ、と店長は薄くなってしまった頭をポリポリとかいていたが、話はまったく頭に入らず、その残念な仕草に心は奪われてしまっていた。
もともと古美門だけが例外で仲良く、人と関わり合うことが苦手で嫌いな深月にとって、トラブルなんかは無縁だという考えが余計に邪魔をして、店長の話はほぼ耳から抜けていってしまっていた。
不安もなく、期待もなく。
この通勤退勤だけがひたすら面倒だと感じていた深月だったが、音楽を聴いているとあっという間にお店に着いて、会ったことのなかったスタッフに挨拶をした。
このお店に社員は三人。
この中に店長も含まれていて、本部から配属されている彼らはこのお店の中でリーダーだった。
店長、我が書籍部門の男性スタッフ。そしてゲーム担当の女性スタッフ。
この三人が早番遅番を代わる代わる担当しているため、全員に一気に会える日はほとんどない。
一昨日いなかったゲーム担当の女性スタッフが今日は早番の担当らしく、自己紹介をし彼女のあとに続いた。
恐ろしいくらい美人な人だった。
大きな目に小さな鼻、白玉のようにハリツヤがある肌。
そこに加え高身長。
まるで芸能人のようだった。
職業柄(今は職業と呼べるのか怪しいが)、人間観察するのが好きだし、人間をパーツごとに見てしまう癖がある。
それでも彼女はこれまでに出会った人の中で一番か二番かを争うほど整っていて、こんな所にいるのがもったいないと思った。
お店の事務所に案内され、初日に教えてもらったように荷物をロッカーにいれ、ユニフォームを羽織る。
半袖のポロシャツがこのお店の制服で、まだ半袖になるには少し早いので着ていた七分袖にそれを重ね着する。
「どう?仕事は楽しいですか?」
「あ、いや……まだなんとも……」
壬生みぶ、と名乗ったその美人社員は気さくに深月に話しかけてきた。
話しかけられるだなんて思ってもいなかった深月は大した返しもできずに、苦笑いしていたが、そうだよね、まだ二日目だもんね、とあの顔で笑いかけられると自然と笑顔になった。
「今日も1日、頑張りましょうね」
「はい」
そうして仕事の準備を終えると、書籍担当のパート女性3人が出勤してきた。
「おはようございます」
と静かに挨拶すると、こちらに目を向けることもなく小さな挨拶を返された。
なるほど。
他の書籍担当がいない時はこんな感じなのか、と理解して店長の話を少しだけ思い出した。
愛想がないな、とあまり人に興味のない深月ですら感じる。
それでもどうすることもできず、9時になるのを壁際で待った。
「ねえ、そこ。ちょっとどいてくれない?」
低い、感情のない声が右側から聞こえた。
それが自分に言われていることだと体が反応するまで数秒かかったが、すみませんと頭を下げながらそこからズレると、チッと微かな舌打ちが聞こえた。
「新人教育なんてめんどくさいことまたしなくちゃならなーい」
あからさまな悪態に思わず心の中で笑ってしまったが、初っ端からこんな態度で今後やって行けるか少し不安になる。
「ご迷惑をお掛けしますが、よろしくお願いします」
「ホント、迷惑な話よ」
テンプレを返しても、またしても文句が出る。
驚きを通り越し呆れるが、そこにちょうど壬生がやってきたのでそのやり取りはそこで途切れた。
「では、朝礼やります。皆さん集合してください」
勤務時間は朝の9時から夕方の6時まで。
これまで椅子に座り続ける仕事しかして来なかった深月にとって、この時間帯で働くのはかなりしんどかったが、体が疲れればもしかしたら不眠症も改善されるかも、と思って店長からの提案を飲んだ。
人手不足らしいこのお店だが、朝礼は大きな丸ができるくらいのスタッフがいた。
さっきの発言が嘘かと疑ってしまいそうになるほど、壬生の前でパート3人は、はい、はい、と素直に返事をしていた。
不安もなく。期待もなく。
なんて朝は歩きながら思っていたけれど、もはや仕事が始まる前から不安しかない。
深月はうつむき加減によく分からない朝礼内容を聞いて、パート3人のうちの一人、八重垣とレジ研修に入った。
✕✕✕✕✕
その日は一言で言うのならば最悪だった。
パート3人が退勤する午後3時まであの悪態がひたすら続いていた。
本の並べ方や分野の分け方、シュリンクのかけ方などをまずは一通り教えて貰ったが、何かにつけて面倒だ、早く覚えて無能などと、余計な文句がついてまわった。
いちいち気になどしていられなかったが、おかげで気分はダダ下がりだ。
もはや明日のことを考えたくない。
ため息をつきながらそそくさと店をでる。
3時以降は平和だった。
一緒にレジ研修に入ってくれた人も優しかったし(名前は覚えられなかったけれど)、他の部門には漫画が好きな人が多くいて、楽しく話すことができた。
それでも深月にとって最悪な一日だった。
普通仕事を楽にしたいならば、一生懸命新人教育をするものじゃないのか?
社会とはこういうものなのか?
と思わずにはいられない。
自分がこれまで社会を知らずに生きてきたからそう思うのだろうか。
世間一般がわからなくなる。
これが日本の当たり前ならば、日本が崩壊するのも時間の問題のような気がする。
せめてもの救いはそこにいる誰もが、深月についてよく知らないことだ。
悪口を言われるのは初めてのことじゃない。
昔から無愛想だったから友人達に文句を言われるのは慣れていた。けれど東京にいた頃はその内容にいつも父の話が入っていた。
明らかな悪意と深月を蔑むのような視線。
それに比べれば、万人向けの悪態はまだましな方だった。
最悪なことに変わりはないけれど、辞めたいとまでは思わなかった。
そそくさと退店し、向かいにあるコンビニに足を向ける。
正面のコンビニはおそらく人がほとんど来ないせいで恐ろしいほど品揃えが悪いが、さすがに今から逆方面のコンビニに向かうわけにもいかない。
そもそも足腰が限界だ。
自分はいつの間にか歳を重ねていたことを実感せざるを得なくて、悲しくなる。
東京にはないコンビニ。
酒の種類だけは異様にあるけれど、冷凍食品や野菜はびっくりするほど置いていない。
同じ田舎なのに昨日訪れたコンビニとは雲泥の差があって、大抵店内で店員以外の人と鉢合わせすることはない。
カゴすら持たず、とりあえず今日明日食べれるものをざっと見ていく。
といっても揚げ鶏や焼き鳥などといった惣菜はないので、とりあえずツナ缶と袋に入って売っている100円のオニオンサラダを手に取る。
ここにご飯を入れて炒めたらいいや。
もはや疲労のせいで夕食メニューに悩むことすら億劫に感じてしまっている。
おかげで今日はよく眠れるかもしれない。
そしてレジ寸前でお菓子コーナーに入る。
こういう日は甘いものが欲しくなるのは良くあること。
売り場には見た事のあるシルエットが、両手にお菓子の箱を持って、真剣にどちらにするか悩んでいた。
「壬生さん?」
声をかけると彼女はビクッと肩を弾ませ、まさか、と頬に書いてありそうなほど驚いた顔をした。
多分、深月と同じ考えでこの店で誰かに会うだなんて考えていなかったんだろう。
無防備の彼女の姿がそこにあった。
その驚いた顔があまりにも可笑しくて、思わず深月は笑ってしまったが、壬生の目が泳いで両手のお菓子を後ろに隠すと、彼女が普段こういった自分を隠しているんだろうな、となんとなく察する。
「隠さないでくださいよ。誰にも言ったりしませんから」
「……別に、隠してるわけじゃないですよ」
明らかに背中の後ろに手を回しているのに、そう言い訳する。
今日一日、彼女の働きぶりを見ていて、深月は少し感動した。遠くにいる客にまで挨拶をし、レジは一つ一つわかりやすく丁寧だった。
みんなの見本となる社員なんだから、当たり前だよ、と言われたが、今その当たり前をできる人はほとんどいない、と心の中で反抗した。
長く続けることはない仕事だけど、せめて1年間でも彼女を目標にしてここで働いていきたいと思えるくらい、かっこよかった。
それに反して、目の前の彼女はギャップが激しかった。
壬生は迷っていたお菓子を片方棚に戻して、ひとつをカゴに入れた。
チョコレート菓子の中でもノーマルにするか、いちごにするか悩んでいたらしく、ノーマルをとっていちごを戻した。
いちご味のパッケージには“期間限定”と書いてあったけれど、どうやら彼女は普通の女性と違って限定に惹かれないみたいだ。
「夕飯の買い出しですか?」
と気になってカゴを覗いて見たけれど、その中には先程選んだチョコレート菓子以外にスナック菓子、カップ麺、酒しか入っていなかった。
「笑わないでください。料理、苦手なんです」
自分でも気が付かない間に顔が綻んでいたらしい。
なんでもこなしてしまいそうだと思っていたのは、深月の勘違いらしい。
深月は思わず自分のマンガに出てくる1人の人物を思い出した。
剣技は最強なのに、その他はてんでダメな主人公。
もちろんそれは男性だったけど、深月は勝手に彼女からそんな魅力を感じていたのだ。
「では、お疲れさまです」
けれどそこから特に会話を広げることなく深月はレジに向かった。
出会いは大切にしなくてもいい。
通過点に過ぎないこの場所で出会った人たち、起こった物事は社会経験のひとつだ。
この生活を終えれば深月のマンガの材料になるだけ。
彼女のことが気にならないと言えば嘘になるが、親交を深めたところであとから無責任な自分に嫌気がさすのは目に見えている。
レジを終えてコンビニを出ると当たりはもう既に薄暗かった。
出勤時と同じようにリュックからヘッドホンを取り出して、耳に当てた。
帰りはラジオでも聞いて帰ろうかな。
番組欄を見るとちょうど流行りの音楽を紹介する番組がやっていたのでそのチャンネルを選択する。
今日の朝、ニュースを見てしまったから不気味だなとは思いつつ、帰るしかないので足を進める。
ラジオを聞きながら、Amazonのページを開いた。
自転車、買わなきゃな。
さすがにこれが毎日続くのに歩いていては体が悲鳴を上げてしまう。
元々運動をしていた訳でもないし、ここ数年で体力はどん底に落ちてしまっている。
夜は眠れるか眠れないかもわからない。
体調を崩せば、母に、古美門に、東京に戻ってこいと言われるのは間違いない。
もしかしたら妹が告げ口をして、連れ戻されるかもしれない。
どう頑張ってもそれは避けなければ。
ページを下にスクロールする。
安いものは怖い。事故はしたくない。
ただ、高いものは普通に1ヶ月分くらいの食費と同じくらいかかる。
できればこの1年のバイトで稼いだお金は全て貯金に回したい……。
車も通らない静かな道を進んでいく。
頭の中は全く静かではなくて、色んな方面から自転車に対する賛否両論が浮かんでくる。
見た目はなんでもいい。
なんならママチャリでもいい。
機能性と乗り心地のレビューを比較して、候補を3つにまで絞っていく。
色々なサイトを更に開いていくと、結論が出ないうちにあっという間に家に着いた。
自分は歩くことが嫌いなわけじゃないんだとつくづく思う。
「ただいま」
ドアを開くと無意識に零れていた。
声が闇に吸い込まれていく。
夜の部屋に帰るのはあまり好きではない。
暗闇は苦手だ。
狭いところよりはマシだけど、息が苦しくなる。
明かりのない部屋は先が見えなくて、自分が今生きているのかすら分からなくなる。ここに立っているのは本当に自分で、息を吸えているのか境界が曖昧になる。
慌てて靴を脱いで壁を伝って電気をつける。
東京にいた時は、作業用に借りているアパートの一室にはいつも誰かがいて、実家はいつも電気がついたままだった。
電気代が馬鹿にならないのは間違いないが、深月が暗闇が苦手なのを知っている母はいつも電気をつけっぱなしにしていた。
母はいつまでも過去の私に囚われているらしい。
妹にはない母の私への心遣いが時々嫌になる。
あれは母のせいではなかったと、何度も繰り返しているけれど……。
母の償いは生涯終わることがないのかもしれない。
部屋が光で包まれるとどっと一日の疲れがのしかかってきた。
次の休みまであと三日。
この調子でやっていけるのだろうか。
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