第2話 幸せは程遠い
スピーカー越しでも分かる。
目に浮かんでくる。
相手がどんな表情をしているのか。
「1年って言ったのよ。引越しもろもろ含めたとしても我慢できるのは1年半よ。それだけ暮らせたら十分でしょ。そんな交通の便も悪くて生活しにくい場所なんかそのうち嫌になるわよ」
母のこういう性格が、別に嫌いとは言うわけではなかった。
いつだって口うるさくいう時は深月のことを思ってのことだ。
それが愛なのか義務感からくる何かなのかは自分で判断することは出来ないけど、大都会に生まれ育ち、何不自由なく生きてきた深月がこの田舎に引っ越したのは、間違いなく、絶対に、母のせいではない。
「わかってるよ。わかってるの。大丈夫。そんなに長く暮らすつもりはないよ。1年以上、たくさんの人を待たせることはできないって思うくらいの自覚はあるつもり」
無駄に明るく、なるべくハキハキと、母に悟られぬようになだめる。
なだめるも何も、嘘などはないのだ。
決意している。
この逃避行は1年限りにしようと。
現実逃避は期限付きにしておこうと。
「LINEニュースでみたわよ。結構大きく取り上げられているのね。少し驚いたわ」
高校を卒業し、美術系の専門学校に進学すると在学中に応募したマンガ大賞で最優秀賞を受賞した。
そのままトントン拍子で大手での連載が決まり、この4年で数えられないほどの読者を獲得出来た。
週刊発行でスケジュールキツキツで送ってきた生活が、決して楽だったわけではないけれど、描きたいものを思う存分描いて、満足していたはずだった。
はずだったのに……。
「まあ、そうだね。かなり有名なところで連載してたし……。うん。でも私も、少し驚いた」
言葉を吐き出すと同時に足元にあったコーラの空き缶を蹴飛ばす。
周りには永遠と、田んぼ畑がひろがっている。
そして深月が歩く道。
それ以外は何もない。何も。
どう考えてもゴミ箱などなさそうなのに、よくもまあこんなところに空き缶が転がっているものだ。
捨てた人の頭はそうとういかれてる。
果たしてそれはゴミ箱が周りにないからそこに捨てられたのか、もともとそこに捨てられる予定だった空き缶なのか。
わからない。
「『突然の執筆活動休止!ファン涙!』って大見出しだったわよ。ホント、他人泣かせよね」
「1年だけだから」
「古美門さん、きっと何も言ってこないんだろうけど、大変だったんじゃない?」
母は、だいぶ前に別れた恋人の名前を度々会話に出す。
確かに、あの頃は本当に彼女と生きるその先を信じて疑わないほど、好きあっていた。
でもそれも深月にはあまり長く持たなかった。
何より、恋人であった古美門怜は深月以上に仕事を優先した。
同性という壁を乗り越えてなお、一緒にいたいと思えた彼女でさえ、結局うまくいかなかった。
恐らく、自分に恋愛は向いていないのだと深月は思う。
古美門は恋人でなくなった今でも良くしてくれる大切な人だ。
でもそれは仕事だから。
担当編集として当たり前のことをしているだけだ。
そこに愛情はない。
「わかってるのお母さん。だから、言わないで……」
蹴飛ばした空き缶は土手から落ちて畑に入ってしまった。
でもきっと誰も何も言わない。
車から投げ捨てられた空き缶だとでも考えるのだろう。
「そう……。わかってるなら、あまりバカなことばかりしないでね」
「うん」
きっと、疲れていたのだと思う。
朝から晩まで予定の詰まった毎日。
いつでもどこでも、人の目を気にして生活していた。
一日の大半を過ごす作業部屋にはもちろん数人のアシスタントがいた。
自宅の前に走っていた道路は比較的交通量が多く、いつだって、家の中でさえ気が抜けなかった。
一歩家の外に出てしまえばひとにすれ違わないなんてことはありえない。
漫画家という職業上、オフの日はほぼない。
毎日毎日、同じことの繰り返し。
同じ人と顔を合わせる。
声が溢れていた。
みんな他人の話が好きだ。
他人を見て笑うのが大好きだ。
いつだって自分は二の次で、自分より劣る誰かを探し回ることに情熱を注いでいる。
過ごしやすいといえば良い言い方だ。
誰かが必ずそばにいる。
でもそれは言い換えれば、いつだって誰かに監視されながら生きているとも言える。
誰かが何かを口にすることに怯えながら生きている。
それがとても嫌だった。
一般企業と言える場所で働いていたわけでもなければ、モデルや俳優といった芸能とも違う仕事柄。特別人の目に留まるような仕事をしていたわけでもない。
それでも深月はそこから逃げ出したかった。
故郷なんてものはない。
そこには嫌な記憶と嫌な空気しかない。
一人になりたかった。
誰の言葉も気にしない世界に行ってみたかった。
「じゃあ、切るよ。そろそろバイト先に着くし」
「少し落ち着いたら自転車でも買いなさい。あなた免許ないんだから」
「わかった。それじゃあ、お母さんも体に気をつけて」
「あなたも。羽目を外しすぎないように」
今日は別にバイトの日でもない。
バイト先に着くなどというのは電話を切る口実。
仕事も家事も卒なくこなし、なんでもしてくれる母。
彼女とも一度、離れて暮らすべきだったのだ。
歩く足を早めながら深月は、今まで暮らしていた場所とは別世界のような感覚を噛み締めていた。
人にすれ違うこともなく、車にすらすれ違わない。
私の暮らすアパートから市街地まではかなりの距離があり、いつも買い出しは一苦労だ。
そこが良くてこの街を選んだ。
東京から北に2時間。
電車は上りも下りも1時間に1本しか走っておらず、街を巡るバスも100円でどこまでも行ける。バス停のない場所で止まるなんてことは日常茶飯事。
監視されているように近くに人がいる感じではない。暖かい温もりが適度に距離を保ちながら見守ってくれているような感じ。
まさに深月がずっと思い描いていた理想の田舎生活。
きっとここに長く暮らす人々には自分のような若者は物好きだと言われるのだろう。
確かに、長く暮らすべき場所ではない。
免許がなければどこにも行けないし、仮に車があったとしても30分圏内には娯楽施設などなにもない。
でも、心が休まる。
とても静かな場所だ。
××××××
そして突然そのコンビニは現れる。
場違いと言っても過言ではないほど開けた緑の中。
初めの頃は何度見ても、もう少しいい立地もあっただろうにと、思っていた。
少し早い気もするが、暑かった今日は入口に東京でもよく見ていたオレンジ色がいた。
扇風機から出る強風を受けながら入店すると店内には夕飯時のせいなのか珍しく人が3、4人いた。
「らっしゃっせーっ!」
この地方には独特の訛りがある。
基本は標準語と変わらないが、少しだけ重みのある音に深月はまだなれずにいる。
東京にいた時はこんなに静かなコンビニにはなかなか出会えなかった。
大抵10人前後の人が店内にはいたし、話している内容も深月の耳に届くことはなかった。
周りの音が大きすぎたし、他の人は別次元の人物だった。
「またあそこの家、猫増えてたのよ」
「仕方ないのよ。あそこはそれだけが生きがいなんだから」
世間話と噂話が大好きなおばちゃん。まるでドラマの中みたいだ。
深月はオレンジのカゴを持ち、迷うことなく商品を入れていく。
この街に来て2週間。
3日に1回の頻度でやってくるこのコンビニで買うものはほぼルーティーンと化していた。
冷凍うどん、冷凍の野菜各種、100円の袋に入ったサラダ、ベーコン、6個入りの卵パック……。
そして今日は缶チューハイを1本。
今日はサラッとサラダうどんで済ませてしまおう。
あと2kmほど歩けばコスパと品揃えに長けた少し大きめのスーパーがある。
そこまで行って買い物をするのが経済的なのは理解してるが……。
「往復14kmなんてありえないでしょ」
深月は口の中で独り言を消化し、レジへと足を向けた。
「お箸お付けしますかー?」
微妙に語尾が上がる少し強めの話し方。
イントネーションがどことなくおかしい。
「いえ、大丈夫です」
きっと東京に帰る頃にはこんなことを気にしなくなるんだろう。
もしかしたら自分もその流れに任せ、語尾が上がっているかもしれない。
つい1か月前には将来のことを考えることが嫌で嫌で仕方がなかったのに、ここに来てからはすぐに一年後のことを考えてしまう。
自分の本心は元の場所に戻りたがっているのか、それともその逆なのか。
それは深月自身にもよく分かっていなかった。
「ありざいましたーっ!」
再び強風を浴びながら、入口だったものをくぐり退店する。
日が暮れ始め、オレンジと黒の合間のような色をした夕空が深月の前に佇んでいた。
この2週間で新しいことがいくつも始まった。
まず人生初の一人暮らし。母に任せっきりだった家事もすべて自分でこなすようになった。
そして、バイト。
一人暮らしで、田舎で、その生活を1年やっていくくらいの貯金はさすがにあった。安定した収入を得られるようになったのはここ数年とはいえ、生きていくのに困るほど消費癖があるわけでもなかったから、やらない、という手もあったけど、田舎でのその生活はあまりにも退屈すぎた。
別に働きたくないから田舎に移り住んだわけではない。
引越しが完了し、3日ほど何もせず過ごした。その後面接にいき、数日経って無事採用となった。
漫画家であることは店長以外誰も知らない。
そんなこんなで昨日初出勤を終え、1日の休みを挟んだ明日から怒涛の五連勤が始まるのだ。
コンビニとは違う方向に同じく5キロ。
この周辺では唯一のエンターテインメントショップ。
メインの書籍を始め、ゲーム、CD、文具商品を取り扱うそのお店で深月は初めて接客業を経験した。
不幸にも担当は書籍部門で、初めての品出しは深月の連載が止まったままの週刊少年漫画雑誌だった。
ただの紙の塊。
けれど、今まではそれにすがりついて生きて、それ以外のことが一切見えなくなっていた。
人間らしい生活なんてどこにもない。
明確なライバルもいなければ、締切を過ぎたことも一度もない。
なのに、いったい何に追われていたんだろうと、思わずにはいられない。
追い抜かれてしまうのが眠れないほど不安で、食事が喉を通らないほど、体はストレスに反応していた。
一体何に?
と今では思える。
決して痩せているとはいえなかった体型の深月が、漫画家になってからは体重が激減した。
今やスキニーパンツがするする履ける。
それほど漫画家というのは過酷な仕事だった。
絵を描くことは大好きだし、自分の描いた人たちが頑張っている姿を見るのが好きだった。
もちろん生きている人間には一人一人、人生があるけれど、深月が描くことでそれまで存在しなかった人にも人生を創ってあげることができる。
でもそれは絵を描きはじめた中学生の頃からずっと続けていることだ。
自分で創り出した人々に人生を与え、夢や希望を持たせる。
たまには描かない期間があってもいい。
だから深月は休載を発表してから一度もペンを握っていない。
誰も何も創造していない。
それは思いのほか、簡単なことだった。
ここでの生活は深月にとって人生の休憩所にすぎない。
この期間で出会った全ての人が駅の休憩所のベンチで腰掛けるその他大勢の人々に過ぎず、乗り込むはずの電車がやってくればその人のことをほとんど記憶せずに新たな目的地に向けて出発していく。
だから、気が楽だった。
大切な人もいなければ、守らなければならない体裁もない。
自分のありのままを晒す必要もない。それに罪悪感を感じる必要もない。
深月は自由だった。
過ごしやすいけれど、すこし暖かさとは違うものになり始めた5月。
うっすらと汗ばみ始めた頃、深月はようやく自宅に着いた。
歩いて帰るから買いだめすることはできない。
買いだめすることができないから、頻繁にコンビニには行かなければならない。
この2週間で体重がまた減った。
でもこれは健康的な減量。
あの頃とは何もかもが違かった。
「ただいま……」
誰もいない薄暗い部屋に帰りを告げる。
もちろん返事などは返ってこないけれど、なぜかそれは一人暮らしになっても続いている習慣だった。
どちらかというと、自分が帰宅したのだということを自覚するための習慣。
荷物を置くなり、無意識にため息が零れてしまうが、無視して買ってきた冷凍うどんをレンジにかけた。
昨日、初めてのことに気を張りすぎたせいでよく眠れず、今日はお昼頃までゴロゴロしてしまった。
外はもう暗くなり始めている。
結局目覚めてから何も口にすることなく、録り溜めたドラマとアニメを見て過ごし、買い出しに出たら今日が終わった。
何も出来ない日は本当にとことんいつの間にか時間が過ぎる。
柔らかくなったうどんをレンジから取り出し、ザルでさっと冷やすとレタスを乗せてハムを盛り付けた。
冷蔵庫に入っていた、昨日茹でたゆで卵を割り、ひとつは口の中に入れて、ひとつにはナイフを入れた。
薄くスライスして、最後の具材。
いつものサラダうどんが完成した。
ダイニングテーブルにそれを運び、腰掛けた。
無意識に口からはため息が溢れていた。
この家は深月が1人で暮らすには大きすぎる。
だからなのか、これまで感じることのなかった空虚感が度々深月を襲う。
自分はものすごくわがままなのかもしれない。
理想の生活を手にしたはずなのに、楽しんでいるかと聞かれると素直にうなずくことは出来ない。
「いただきます」
そうつぶやいた声が行くあてもなく、小さく消えた。
箸でレタスとうどんの割合を考え持ち上げる。
美味しいとかは特に思わない。
普通。
ただ、バランスよく食べられてお腹にたまる簡単なものを選んだ結果だ。
もともとすごく料理が得意なわけではない。
これまで家事は全て母がやってくれていたが、料理だけは、という母の希望で、しょっちゅうしていた。
もちろん、大した工夫もなくレシピ通りに作る料理が上達するはずもなかった。
母は、大切な人ができて少しでも美味しくできたらって思うようになったら変わるわよ、と言っていたが、それは深月には適用されないみたいだった。
深月はこれまで1度だって、恋人に手料理を振舞ったことはなかった。
学生時代の付き合いではそんなこと普通にしなかったし、古美門と付き合っていた時だって、作ってあげたいと思っても彼女にそんな時間はなかった。
彼女とは一体何度一緒に食事を取れただろうか。
それはきっと片手でカウントできるくらい少ない回数だけだった。
一緒に出かけても、かなりの頻度で彼女は途中から仕事に向かった。
『ごめんね、深月。必ず埋め合わせするから』
その埋め合わせの度にまた仕事に呼び出され、最後の半年は埋め合わせ以外のデートはなかっただろう。
ヴァレンタインも夏祭りも、クリスマスも当日に一緒に過ごした夜は付き合いを始めてから一度もなかった。
深月はもともと、楽しそうに働く彼女が好きだったし、自分のせいで働くことに罪悪感をおぼえてほしくなかった。
『怜、いいよ。大丈夫。もう、埋め合わせはいらないから。だから、ね、行って』
最後は深月からだった。
セミの声が響き渡っていた夏の日だった。
その言葉を聞いた時の彼女の悲しそうな顔を今でも鮮明に覚えている。
涙なんて似合うはずもない天真爛漫な彼女たったけど、その目には間違いなく涙が浮かんでいた。
けれど彼女はその言葉に頷く以外の返事をせず、涙が落ちる前に早足で仕事に戻っていった。
『ありがとう。ごめんね、怜』
彼女の震える後ろ姿を見送って、深月はそのままカフェに入って次のネームを考えた。
普段はものすごく時間がかかるのに、この日はサクサクと言葉が浮かんできてあっという間に終わってしまった。
気は紛れなかった。
これでよかった。
お互い好きだった。
多分、愛していた。
でもだから、彼女への愛は手放さなけばいけないんだと思った。
二人で手を繋いで寄り添う未来は存在しない。
二人に恋は相応しくない。
このままでは自分も彼女も罪悪感しか感じない関係になってしまうと思った。
苦渋の選択といえばそうかもしれないけど、次の日思いのほか苦しまずに彼女に会えた自分は、心のどこかでこうなることをわかっていて、それを望んでいたのかもしれない。
古美門も、別れたあととは思えないほど明るくこれまで通りだった。
それから約1年。
他の作家と変わらず、彼女とは担当編集と仲のいい1人の漫画家だった。
こちらに引越し、休載したいと告げた時も色んなところに走り回ってくれた。
深月のために何度も頭を下げ、なれない敬語でお偉いさんを説得してくれた。
引越しの前日、彼女は我が家にやって来て、餞別、と言って深月の大好きなパン屋のパンを大量に買ってきた。
こんなに食べきれないよ、と苦笑いする深月を抱き寄せて笑った。
胸に顔を埋めて、深月の服を濡らした。
また戻ってくるから、と何度言っても彼女の涙が止まることは無かった。
結局そのパンは2週間経った今でも食べきれずに冷凍庫に眠っている。
感謝している。
きっと親友と言ってもいい。
でももう、手持ち無沙汰になって彼女の手を探したりはしない。
眠れない夜に彼女を思ったりはしない。
気がつくと器の中のうどんはなくなってしまっていた。
自分でも驚くほど、体は栄養を欲していたみたいだった。
器を流しに入れ、すぐに洗った。
家事は面倒だけど嫌いじゃない。
少しテレビを見て食休みをすると、深月は脱衣所に向かい今着ている服を脱いで2日分の洗濯物を洗った。
風呂に入り、熱を覚まして21時には寝室に向かう。
やることがない。
漫画を描かなくなった自分にはこんなにも何もないのかと驚くほど、深月には趣味も好奇心もなかった。
これまで、漫画の資料にとたくさんの本を読み漁っていたけど、今はその必要もない。
どう頑張っても見つけられない時はただひたすら寝ようとした。
その日、もともと不眠気味の深月が眠りについたのは3時を過ぎたあたりで、重りを乗せられたように苦しい眠りの中で幼い頃父と遊んだ夢をみていた。
あの頃はまだ無邪気に人生を楽しんでいた。
深月が笑えば父も笑い、家族みんなが楽しそうにしていた。
それももう、ここにはない。
深月はその幸せが失われた日からうまく眠れなくなった。
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