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白うさぎ

第1話 プロローグ はじまりはじまり



 本当はずっとずっと楽しみにしていた日だった。


 母と妹が広島にいる祖父母に会いに行くために家をあける。


 自分も着いていく選択肢はあったが、わざわざ父と二人きりで過ごせる機会を台無しにはしたくなかった。


 夏休みに入ってお盆の少し前。


 その日のために今年の夏休みの宿題は事前に終わらせていたし、残された絵日記は父との話をいっぱい書こうと心に決めていた。


 待ちに待った日。


 母と妹を見送ると父が深月のことを書斎に呼んだ。


 何もそれは初めてのことではない。


 母と妹がいる時でも、いない時でも父はよく深月だけを書斎に呼び出し二人きりの時間を過ごした。


 父が創った小説を一緒に音読をする。


 父の小説があまり進まずに息抜きを望んでいる時は、書斎にあるたくさんの本を読み、父とその本について語らった。


 小学校の中学年に上がる頃には深月は既に自分は他の子供たちと違うのだと思い始めていた。


 体育という授業があるのに、なぜ自由時間まで外で遊び回る必要があるのか。

 なぜ大して面白くもない遊びに、笑顔になれるのか、全くと言っていいほど理解出来なかった。


 ランドセルの中には常に教科書やノートと共に1冊の小説が入れられており、自由時間や休み時間になるとただただ本を読んだ。


 道徳の授業なんて無意味だ。


 人の心を理解したいのなら、本を読めばいい。

 それは架空の物語だけど、人の心の移り変わりや葛藤が詳細に書かれていて何よりもわかりやすいじゃないか。


 そう思っていた。


 そうすることで、同年代の友人は徐々に減っていってしまったが、多くの本を読めば読むほど父と会話する機会が増えた。


 そんな生活を2年ほど送って、深月が小学五年生になった時、深月はもう父しか信じなかった。


 父の言葉は全て正しい。

 父はこの世界の全てを知っている。


 その時の深月はまるで、催眠にかかったかのように父だけが全てだった。


 私を理解してくれるのはお父さんだけね。


 友人に気持ち悪いと非難されたとしても、自分に言い聞かせて、自分は周りより先に進んでいるのだと優越感に浸っていた。


 そうして、迎えた父と二人きりの夏。


 父の書斎。


 父は深月が入るなり、部屋の鍵を閉めた。


 既に窓、そしてカーテンまでもが閉ざされており、いつもは明るい部屋がその日は薄暗かった。


「お父……さん?」


 父の様子がおかしいのに気づいたのはその時だった。


 彼の顔を見るためにのぞき込んだ瞳には、それまで見たことがないほど不敵な笑みを浮かべた男が映っていた。


 目が泳いでおり、焦点が定まっていない。

 手足が小刻みに揺れており、初めて大好きな父を怖いと思った。


「……るいんだ。お前が全て、わるわるいんだぁ」


 父は焦点の定まらない目で、ただ何もない一点を見つめていた。


 何度も繰り返し、お前が全て悪いんだ、とつぶやき、その声は次第に大きくなっていった。


 やがて動き出した父は、書斎にあったあらゆるものを壁や窓に投げつけた。


 二人で読んだ可愛らしい絵本も、主人公が死ぬシーンか特徴的な深月が初めて読んだ小説も、時々深月の頬を掠めるほどの勢いで部屋中を行き来した。


 深月は動けなかった。


 足が、手が、声が。

 自分のものではないもののような気がした。


 誰かに体を操られているようだった。


 全てのものを投げ終えると、父は多くの物を踏み潰して深月に近づいてきた。

 身動きの取れない深月はそのまま父の言いなりのようになるしかなかった。


 そして気づいた時には、暗闇の中。むせ返るような暑さだった。


 遠くから、全力で叫んでいるセミの鳴き声がして、しばらくして止まった。


 さっきまで震え上がるほど恐怖を感じていたのに、今では嗚咽が止まり、頬を濡らす涙も、いつの間にか枯れてしまっていた。


 投げ飛ばされ、その衝撃で首が痛かった。

 自分の体がこんなに軽かったとは思ってもみなかった。宙を舞う時の感覚が忘れられない。しかしそれに痛みがついてくるのだから良いものだったとは到底言えない。


 父に殴られた頬がヒリヒリ痛んで、口の中は血の味がした。

 ひょろりとした体型の父にそんなに力があったことに驚いたが、痛みと同時に母が以前男の人は強いから簡単に近寄ってはダメ、と言っていたことを思い出した。それにうちの父が含まれていたとは……。


 お腹を蹴り上げられたせいで猛烈な吐き気が、まとわりついて、深月を離してくれない。

 息を吸うと、全身に電気が走ったようだ。

 恐らくこれがロッコツコッセツなんだと、深月は頭の中で文字を並べてみた。それはこないだ読んだ少し大人向けの小説のラストシーンに出てきた言葉だった。その本を読んだ時はまさか自分がロッコツコッセツを体験することになるだなんて、考えたこともなかった。


 全部全部、深月には想定外だった。


 さっきまでの恐怖も、知る予定のなかった痛みも、自分には無縁だと思っていたもの。


 でも、泣いてはいけない。

 泣けば父が嫌な顔をする。

 泣いていたから父はどこかに行ってしまったのだ。

 だから泣かずにいれば、戻ってきてくれるかもしれない。


 楽しみにしていた二人きりの夏休みがこれで終わってしまうだなんて、許せなかった。


『どうしてお前はそんなに醜くて、汚らしいんだっ!』


 それが父の言葉だなんて信じたくなかった。


『私の娘はすみれだけだっ!!!おまえなんて消えてしまえ』


 何が悪いのか理解はできないが、恐らく、自分がすべて悪いのだ。


 父はいつも正しい。

 間違いを言う時は、冗談か締切明けの寝不足の日だけだ。


 絶対に深月が何かを間違えたのだ。


 だから父は自分を叱ったのだ。


 いつもニコニコしていて、優しい父は、突然鬼のようになってしまった。


 幼いながらに、深月は泣き叫びたい気持ちを抑えた。

 自分の胸を拳で叩きながらそう言い聞かせた。


 それ以外の可能性は自分に都合が悪かった。

 父が妹ではなく、自分のことが嫌いだなんて考えたくなかった。

 大好きな父に離れていって欲しくなかった。


 季節に合わない暖かなコートに押しつぶされ、少し前に怖くてクローゼットに突っ込んだぽぽちゃん人形がこちらを見つめている。


 本当は恐ろしくてたまらない薄暗いクローゼットの中、深月は必死に気持ちを押し殺した。


 クローゼットは取手が紐できつく結ばれており、どう頑張っても内側から開きそうにはなかった。


 喉がかわいた。


 でもそんなわがまま、お父さんはまた怒ってしまうかもしれない。


 助けて欲しい。


 でもお父さんを失いたくない。


 できれば、昨日に戻りたい。


 そんなこと、ありえるはずないけれど……。



 深月は呟くことすらできない気持ちを揉み消した。



 父がこの部屋を出ていってからもうしばらくの時間が経っている。


 泣き止んでから深月の頭の中では言葉が渦巻いて仕方がなかった。


 こんな時でも、父に教えこまれたことを反芻してしまう。


『感情は丁寧に言葉で著しなさい。大切だと思ったことは、絶対に忘れてはいけないよ』


 小説家だった父を尊敬していた。

 たくさんの本を読んできたけれど、深月は父が書いた小説が1番好きだった。


『さあ、深月。この女の人はこれからどうなるかな?』


 深月を抱きかかえて父はよく、物語の続きを考えた。

 言葉にすることはとても難しいことなのに、父は何よりも楽しそうな表情をしていた。


『物語を創り出すことはね、難しいけど素晴らしいことなんだよ。これまで存在しなかった人たちに僕たちが命を吹き込むんだ。深月もきっと、そのうちわかるようになるよ。だって、父さんの自慢の娘なんだから』


 そう言っていたのに……。


 そう言ってくれた父の言葉を信じて、これから明るい未来が広がっていくのだと思っていたのに。


 それは途方もない裏切りだった。


 世界が自分の思い通りには到底進んでくれないことを理解して、もういっそこのまま何も見ないで死ぬことができたら、なんて幸せなんだろうと思えた。


 死んでしまえば、もう二度と父から怒られることはないし、父の顔が悪魔に変わる瞬間を見ずに済む。


 だから、静かに静かに、自分の命の灯が小さくか細くなっていくのを待っていた。


 暑い。暑い。

 息が、苦しい。

 気持ちが悪い。


 寒い、寒い、寒い、寒い、寒い……。


 それは今まで感じたことのない寒気だったけれど、無視してそのまま目を閉じて眠りに落ちた。


 もう二度と、目覚めることがないように祈り続けた。





「深月!!!!深月っ!しっかりして!!」





 白い天井に蛍光灯。

 流れていくのが見えていた。


 母の声が、しっかりと、深月を呼んでいた。


 その後ろでは、ねぇたん、と泣き叫ぶすみれの声も聞こえた。


「……っ」


 お母さんと言いたかったのに、声がでなかった。


 呼びたかったのは母ではなく、父だったのに。


 願いは叶わなかった。


 我慢したのに、泣くのもやめたのに、名前を呼んでくれたのは父ではなかった。

 この世界から旅立つこともできなかった。


 10年ほどしか、生きていない。


 それなのに、多くの絶望を味わってしまった。

 生きている意味を考えようだなんて、道徳の授業でやったけど、そんなものはなくても生きていける。

 意味がなくても、この心臓は忙しなく動いてなかなか止まらない。



 その時、深月はようやく理解したのだ。


 願いは、叶わないものなのだと。


 父はもう二度と、愛情を向けてくれることはないのだと。

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