第40話  五章 四月二十日 水曜日

 俺と織姫の兄妹は、学校が終わると真っ直ぐにここに足を運んだ。約束があるのだ。馴染みの楽器店の近くにある、父さんから教えて貰った喫茶店。『準備中』の札が下がる扉を構わず押し開ける。珈琲の放つ得も言われぬ芳香が鼻をくすぐった。だが、そんな心地よい感覚も一瞬だった。趣味の良いその店内には時ならぬ大声が響いている。どうやらお互いのことを罵り合っているようだ。二人とも女性のようで、それも俺がごく最近聞いたことのある記憶に新しい響きの声だった。予定外と言えよう。織姫に厳命したはずなんだ。時間をずらして二人に来て貰うように頼み込め、と。


「これはどういうことなんだよ?」

「知らない。わたしは頑張ったもん」

「どうするんだよ……店の中、凄い事になってるじゃん……」

「わかんない。わたしは頑張ったよ?」

「あー、もう良いよ。俺に任せろ。取りあえずお前は黙って俺のやることを真似するんだ。いいな?」


 返事はない。だけど、これはこれで構わなかった。拗ねた織姫を相手にすることほど無意味なことはない。俺は覚悟を決めて、その大声の源である今日の――いや、俺の人生最大の決戦場へと歩みを進める。二人の罵り声が大きく耳に入ってくる。


「あたしは、早希(さき)に逢いたかったわ? 一言文句を言ってあげたかったから」

「冗談。わたしは由美子の顔なんて思い出すのも嫌だった」

「あら。奇遇ね。あたしもついこの間までそんな気分だったわ。もしかして、あたし達って相性が良いのかしら」

「ああ言えばこう言う……全く、あんたってば昔からそう! 由美子はいつも勝手なのよ」


 二人とも、仕事の合間に時間を見つけて駆けつけてくれたようで、見違えるほど綺麗だった。うん、綺麗の一言に尽きる。由美子さんと、母さん。化粧をしてドレスを着、人前に出ている母さんは息を呑むほど美しい。家に居るときの母さんとは別人とも思える雰囲気を醸しだしており、とても実の母親とは思えなかった。


「あら。彼氏君。遅かったわね」

「まだ待ち合わせの時間の十分前です、由美子さん」

「そうなの? だったら、君の記憶違いね、きっと」


 由美子さんは俺達の姿を認め、微笑んだ。一方の母さんは、俺を睨み付けてくる。


「充ちゃん、織ちゃん!? これは貴方たちの仕業? 母さん、怒るわよ!?」


 今にも説教を始めそうだった。今だ。今しかない。言うなら今だ。このタイミング、二人の思考に穴が開いた今を逃してこの作戦の成功はなかった。俺は織姫を肘で突いて促すと、我が愛しの妹君のため、先に手本を見せた。


「聞いてください!」


 俺は一声そう叫ぶと、二人の座るテーブルの足下に跪き、頭を床に擦りつけた。やや遅れて、織姫も俺に倣う。母さん達が息を呑む声が聞こえる。


「お二人に先日断られたのはわかっています。でも、それでも俺達のバンドを後押しして欲しいんです!」


 由美子さんの声が聞こえた。


「彼氏君、どうしてそこまで拘るの?」

「俺はあの二人に約束しました。必ずメジャーになり、彼女らのステージの隣にいる、って。でも、このままでは三人はバラバラになってしまいます。お二人の力があれば、俺は約束を破らずにすむ。そう確信したからこそ頼んでいます」

「わたしもお兄ちゃんやカナミちゃん、そして朔耶っちや悠人くんとずっとずっと遊びたい、って思います」


 意味不明ながら、織姫も精一杯言ってくれた。ありがとう、このときばかりは織姫に感謝したよ。


「自分の力で何とかしようとは思わないわけ? 貴方たちは」


 母さんの冷たい言葉が俺を殴りつける。


「世界に挑むんです。技を磨くのは当然で、良い仲間を選ぶのも当たり前。そして何より、全ての力を使って勝負しなきゃ皆に失礼です。血筋も育ちも因縁も、全部使ってこそ本気なんだと信じます。だって、俺達はあなた方の実の息子で、娘なんです。息子や娘であることを辞めることなんか出来ないんです!」

「母さんは嫌よ?」


 即答された。でも、だからといって、ここまで来て引けるものか。当って砕けるしかない。押すしか無いんだ!


「だから、だから。俺はもう、母さんの息子であることを逃げないから、俺達を見てくれよ! 一度で良いから、お願い……」


 あれ? 俺はただ一心に頼み込むだけのつもりだったのに、なんだよこれ。俺、なに格好悪いこと言ってるんだ? こんなつもりじゃなかっただろ……?


「充ちゃん……貴方……」

「お母さん、お願いだよ。お兄ちゃんもあたしも、本気なんだ」


 織姫の声が聞こえる。母さんは返事をしなかったようだった。長い沈黙の後、由美子さんの声が響いた。


「早希。あたしとの約束、あなたは破ってばかりだったわね。どう? この辺りで精算してみる気は無い? あたし、この子達と遊んでみたくなったの。どう思う?」


 機械仕掛けの時計の音だけが静かに響く。やけに間延びした音だった。


「冗談。わたしは由美子と意見が合うなんて、絶対に嫌」


 床に着いたままの腕が震える。母さん……やっぱりこの人には俺達の言葉や気持ちなんて、欠片も通じないんだ。そう思うと、なんだか悲しくなってきた。本当に、なんだよこの人……。酷い、酷いって。


「あら。じゃあ、決まりね。早希もあの子たちを全力で後押しするのね?」

「何を聞いていたのよ。わたしはこの子達の世話なんて嫌よ。まして由美子、あなたの娘の面倒も見るなんて真っ平よ」

「あら。それにしては嬉しそうじゃない? あたしと早希は昔から同じよ。同じ音楽を奏でて、同じ人を好きになって、同じものに突っ張って。ね? そうでしょう。……久しぶりに会ったというのに、今回も意見が合うわね。ね? 親友」


 由美子さんの声は恐ろしく優しかった。


「意味がわからない。勝手な事言わないで。わたしはわたしの好きなようにする。わたしの子供達のバンドを全力で押し上げて、絶対にメジャーに押し上げてみせるだけ。勘違いしないで。わたしがわたしのためだけにそうするの。話は終わりよね? ……次の仕事があるの。もう行くわ。ご機嫌よう。古い友達。ここのお代は後でわたしの事務所に回して頂戴」


 俺は耳を疑った。今、母さんはなんと言っていた? 到底、信じられない言葉を聞いていたような気もするが……。母さんの震える声に、俺は顔を上げる。母さんは背筋を伸ばした堂々たる姿で店を出て行くところだった。母さんは振り返えらない。俺は母さんが颯爽と出て行った扉をいつまでも見つめていた。わからない。あの人を理解できる日が、許せる日が俺に来るのだろうか。


「彼氏君達は床が好きなの? 椅子が空いたわよ?」


 ◇ ◇ ◇


 店のマスターが運んできてくれたチーズケーキはそれはそれは美味しかった。


「良かったわね。早希がやる気になってくれて」

「本当にそうなんでしょうか?」


 由美子さんが、キョトンとした顔を見せる。


「何を言っているの? 子供を愛さない親なんていないわよ。ただ、早希はそれが屈折してるだけじゃなくて?」

「そんなものかなぁ……お母さん、酷いしサイテーだよ」

「まあまあ、そう言わずに。ここのチーズケーキ、美味しいでしょ? あたしも早希も大好物なの。機会があったらウチのバカ娘にも食べさせてあげて。もちろん、あたしのお気に入りであるサクヤちゃんにもね。じゃあ、あたしもこれから予定が詰まっているから、もう行くわ。お代は気にしなくて良いわ。気にすることなんてないから。良い? 貴方たちは後悔しないように充分に今を楽しみなさい」

「今日はありがとうございました」


 腰を上げて、笑顔で立ち去ろうとする由美子さんに対し、俺達も立ち上がり深々と礼をした。


「ああ、そうそう。あたしも全力で貴方たちを押すわ。ただ、ウチのバカ娘とサクヤちゃんには、あたしが良いと言うまでナイショにしておいて? お願いね。あたしの楽しみを残しておいて頂戴。じゃあね、彼氏君。頑張って!」

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