第36話 四章  三月十四日 月曜日

 学年末試験を翌日に控えた教室で、その出来事は起こった。目の前のバカが事もあろうに、俺を巻き込もうとしているのだ。俺は幾度めかの溜息をついた。何度言っても聞く耳を持たないようで、俺の目の前で朔耶が深々と頭を下げている。それは額を教室の床に擦りつけんばかりだった。こ、この女……どうしてくれようか。


「朔耶、学年末試験の前なんだけど?」

「アークグリルでご飯食べよ?」


 満面の笑みで俺を食事に誘うバカがいる。俺は冷たく突き放す。


「朔耶、明日はお前の苦手な数学があるんだけど」

「アークグリルでみんなで囲むご飯。きっと美味しいよ?」


 こいつは本当に反省しないというか、学習能力が皆無と言うべきか……。


「お前、留年したいのか? 一人寂しくダブりたいのか?」

「アークグリルのご飯が美味しいんだって!」


 俺は呆れてものも言えない。この女、まだ言うか。


「その心は?」

「あたしに皆さんの知恵を分けてください。哀れなあたしに手取り足取りご指導してはいただけませんでしょうか? せめてもの心づくしにお食事を奢らせていただきますので、なにとぞ、なにとぞ! このわたくしめに皆様の寛大なるお慈悲を……このままじゃあたし、お父様に叱られちゃう……この天河朔耶、伏して、伏してお頼み申し上げます! このとーおり! 神様仏様、未来のあたしの旦那様! どうかこの哀れで矮小なるわたくしめに希望の光を!」


 仕方ない、と朔耶の言い分を聞いてやろうと一瞬でも思った俺がバカだった。


 ◇ ◇ ◇


 アークグリルで腹ごしらえを終えた俺達は、俺の家の居間を占領していた。母さんが家に居ないのはいつものことだが、今日は父さんも出張で留守なのだ。適当に騒いでも、多少のことは問題ないだろうと思えた。


「へぇ。ここがお前の家か。大きいけど、随分なボロ屋だな」


 歯に衣着せぬ正直な感想をありがとう。アイツならそう来ると思ったよ。


「うるせ。お前、その辺りいつもいつも容赦ないよな まぁ上がれよ」

「趣がある、って言いたいだけだ」


 それ、言い換えただけだから。



 テーブルに数学の参考書と問題集、ついでにノートを広げた朔耶の目がこれでもかと見開かれる。


「む、ムカツク……ありえない、諸星さんがどうしてこのあたしより問題集解くの早いわけ……!? しかも……げ、答え合ってるじゃん……嘘、嘘よ。全問正解っぽい……。なんの冗談よ!?」

「ん? そうなのか? ああ、サクヤは私よりバカだったのか。まぁ、気にするなよ。人にはそれぞれ持って生まれた才能というモノがあるらしいぞ?」


 見れば、確かにアイツが手にしている問題集の回答欄には、答えだけが直接書き込まれていた。


「お前、答えをそっくりそのまま書き写してないか?」


 そう、そうとしか思えない。


「写す? 何の話だ? こんなもの、見ただけで答えが頭に浮かぶだろ?」


 絶句するしかない。何を言っているんだお前は。別冊子となっている回答集を取り上げ、数ページやらせてみる。その刹那の時間に行われた出来事に、俺は目を剥いた。問題集に書き込まれるのは答えのみ。そしてその答えは文字の書き損じを除けば全て正解……こんなこと、冗談でも許される芸当ではなかった。


「諸星……。お、お前。もしかして数学が得意……いや、天才なのか? そんな芸当、限られたごく僅かな、それもほんの一部の人間にしか出来ないんだ。一般人にはそもそも、そんなの無理だ」


 見ただけで判るかバカ。だけど、こうして実際見せつけられてしまっては、アイツが正直に話しているとしか思えない。


「お前は何が言いたいんだ? 意味がわからないぞ」

「ほら、今日もそうだけど、この前の授業のときも当てられた問題を眺めるだけで解答していたじゃないか」

「そんなことあったか? 昔の事なんて、私がお前と過ごした時間以外覚えているわけ無いじゃないか」

「……」


 朔耶が物凄い目で俺を睨み付けた。な、なんて事を言いやがるんだアイツは。


「それより、数学も出来なくて音楽やってる奴なんているのか?」

「諸星さん、君はあたしに喧嘩売ってるんだよね? そうなんでしょ!?」

「あ、いたな。悪ぃ。しかし、マズいことしたか……誤解されるな。きっと。私は劣等生のイメージでいたかったんだけどな。仕方ないか。まぁ、仕方ないな」

「こ、この女いつかコロス……。くっ! こうしてはいられないんだから! ね、オリオリ、この問題どうするの?」


 朔耶が鼻息も荒く身を乗り出してくる。だが本当に試験が危ういのか、アイツに構っている余裕はこれっぽっちもないらしい。


「え? やだな、朔耶っち。それ本気で言ってるんだ? 万年補習組のわたしが判るわけが無いじゃん。あはは」


 そこで威張るなよ、織姫。正直なのが良いことだとは限らないだろ? あと、開き直りも止めろ。お前も良い機会だから勉強しろよ。


「禿か髭か爺の写真ばっか。誰が誰なんて、このわたしに覚えられるわけ無いじゃん」


 織姫の手元にある本が目に入る。……え? 何故に日本史の参考書……。


「数学の勉強はどうした、織姫」

「ん? 明後日はわたしの苦手な日本史だから、頑張らないと」

「お前、明日の数学は!?」

「数学? わたし、二回戦から本気出す」


 ……。

 笑っても、怒ってもいない平たい顔。

 小首を傾げ、その視線を参考書に戻す。『どうしてそんなわかりきった事を聞くのかな?』と、その表情が雄弁に語っている。こ、コイツ、手強すぎる……我が妹ながら話にならないとはこの事だ。


「悠人! 織姫になんとか言ってやってくれよ。お前の言うことなら聞くかも」

「無理だ。諦めろ。現世に生を受けた衆生には届かぬ領域があることを真摯に受け止め、何事も阿弥陀如来(あみだにょらい)様の大慈悲に無心にお縋りする素直な心を持つことも、人の生き方として自然なことなんだ」


 坊主としての模範解答とはほど遠い。使いどころを間違っているとしか思えなかった。


「納得できるか! そんな無責任な。それにお前の寺はいつ宗旨替えしたんだよ!?」


 ◇ ◇ ◇


「充彦くん! 君は委員長なんだから、この問題、解けるよね!?」


 え? あ? 朔耶? 当たり前だ。


「わからないのか? この程度の問題が」

「……っ! もういいよ……もうちょっと自分で頑張るもん。頑張るもん!」

「ああ。そうしろ」


 朔耶が今にも泣きそうな顔をする。ちょっと本音をストレートに言いすぎたようだ。朔耶はかなりのショックを受けていたようで、少々凹んだ顔を見せていたが気にしない。


 それにしても、どうしてお前達はこの程度の問題が解けないんだ? まぁ、もう少し様子を見てダメそうなら……いや、恐らく根を上げるだろうから、その時に助け船を出そうと思う。それまで、俺はもう一人のバカに気になっていたことを聞いてみた。


「なぁ、諸星。今度の編入は試験受けたのか?」

「え? ああ。それっぽいのはあった。名前は書いた記憶があるな」

「試験問題、難しかったか?」

「ああ、試験問題? どうなんだろうな? 私は名前だけ書いて直ぐに提出したから、良くわからない」


 ……。

 そう来たか。


「また裏口かよ、お前!?」

「そうだけど、それがどうかしたか?」


 変なことを聞く奴だな、とアイツの澄ました顔が言っている。


「お前、さっきから問題集をすらすら解いてるじゃないか! 毎回まともに試験を受けろよ! 余裕で合格してるだろ!?」

「やだよ、めんどくさい。それに、文字を書くと手が痛くなるじゃないか。そうだろ?」


 意味がわからない。何を言っているんだ、この女は。


「今日は真面目に問題集を埋めているじゃないか」

「ああ、お前が見ているからやっても良いかな、って思っただけだ。それだけだな。それに、天河にも私の良いところをたまには見せておかないと」


 何ががボキッと折れ砕ける音がした。


「ムカツク! ムカツク! この女すごくムカツク! いったいなんなのよ!?」


 どす黒い呪詛が聞こえて来たような気もしたが、それこそ幻聴に違いない。


「私の未来は確定している。試験の点数なんて何の意味も無い。近い将来に私の音楽でこの世界を満たすことになるんだ。これは約束された未来で、既に決まっていることだ。それに私はこれまでずっと適当に試験受けてきたんだぞ? ここで急に私の点数が上がったら、伝説にならないだろ? みんなに夢を持たせることが出来ないじゃないか。皆が私に幻滅したらどうする。私はそっちの方が心配だ」

「……」


 皆が目を剥いていた。食い入るようにアイツに振り向き見入っている。本当に輝く資格のある真の天才と呼べる人物は、次元を超越した常人には考えも及ばない思考回路をもっているのだと、俺達はこのとき嫌と言うほど思い知らされたのかも知れない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る