第37話  四章 四月八日 金曜日

 雲一つ無い晴天だった。桜の花びらが舞い散る下で、朔耶と織姫が手を取り合って飛び跳ねている。その笑顔に幾度となく目を奪われた。かくして。補習を頑張った連中を含め、俺達は全員めでたく進級が叶っていた。そして今日から新学期――。


「美しい。これぞ青春だ。――そうは思わないか? 充彦」


 悠人の戯言が聞こえる。


「新学期早々脳味噌が湧いているのか? 悠人」

「舞い散る桜の木の下に満面の笑みを浮かべて踊る美少女二人。お前には美を鑑賞する余裕すらないのかよ」

「坊主は色即是空なんじゃないのか? それに、あの二人の見てくれは美少女かも知れないが、中身はバカそのものじゃないか」


 とりあえず悠人に突っ込みを入れておいた。


「おま、それ。本人達の前で言ってみろよ」

「お前が告げ口してみたら良いだろ?」

「オレにはまだ現世にやり残したことがあるんだよ。今世で涅槃の境地に向かう予定だから、間違っても今生でやり残す事が出来て、もう一度輪廻の世話になるわけにはいかない。そういうわけだから済まんな。充彦。その件は諦めてくれ」


 全く意味がわからない。悠人はまだ何か言っている。寝言を続けているようだった。きっと白昼夢でも見ているに違いない。


「やった! やったってば、お兄ちゃん! みんな同じクラスだよ! なにこの奇跡! 朔耶っち! やったね!」

「うんうん、すごいよオリオリ!」


 悠人と二人して酷いことを言い合っていた俺達だったが、確かに悠人の言うように、この二人は嬉しそうだった。さすがに、追試三回戦まで戦い抜いた連中の言葉には重みがあると言えよう。はぁ。学校の先生というのも大変な職業だ。俺は心底尊敬できる。こんなバカどもの虚しい勝利のために、三度も追試に付き合わなければならなかったなんて。


 いずれにせよ、今日から新学期。それにしても、俺達五人とも同じクラスなのか? 俺は隣に無言で佇んでいたアイツの顔を窺う。あの騒ぎの中、一人で実に涼しい顔をしている。いや、笑いを噛み殺している? ある疑念が頭をよぎった。それは充分にあり得る話だった。


「なぁ、諸星。何か言うことは?」

「良かったな。皆が一緒のクラスになれて。お前は二年でも頑張るよな? 学級委員長」


 心地よいアルトが耳を打つ。


「諸星。他に言うことがあるよな? 忘れてないか?」

「偶然にもバンドのメンバー全員がが同じクラスになる事もあるんだな。驚きだ」


 偶然を強調する奴がいる。不自然すぎるんだよ、お前。


「そうかよ」

「嬉しいだろ?」

「まぁ、な」


 確信犯に違いない。理事長は今回、いくら掴まされたのだろうか。口元に笑みを浮かべて同意を求めるアイツは、欠片も罪悪を感じていないらしかった。


 ◇ ◇ ◇


 始業式が済んだ、午後のことだ。今年も去年と同様、午後から一年生の歓迎行事があるらしい。俺達は今日から二年生。当然ながら、去年とは逆で俺達が歓迎する立場となる。だからなんだ、俺には関係ない、と今の今まで思っていた。だが、そんなものは俺の願望に過ぎなかったようだ。何を思ったのか、他ならぬアイツが気紛れを起こしたためである。


「おい、吹奏楽部。悪いけどドラムセット片付けるのちょっと待ってくれ! 先生!! 動議があるんだ! 愛好会を立ち上げるからさ、私たちに五分くれよ」


 アイツが立ち上がって何かを叫んだ。ステージにいた連中が凍り付く。体育館中の皆が一斉にアイツを見た。息を飲む声が幾つも聞こえる。主に新入生からだった。アイツの類い希なる秀でた外見に一瞬で魅了されたに違いなかった。一方で在校生は瞬時に押し黙る。この間の流血騒ぎが今だ尾を引いているらしかった。嫌な沈黙が支配している。アイツの放つ体育館中に響く良く通るアルトは実によく聞こえた。だが俺は、その意味を理解したくなかったと言えよう。


「コラ、諸星! お前は何を勝手なこと言ってるんだ……え? 教頭先生……そんな、良ろしいんですか? 知りませんよ? よりによってあの諸星ですよ!? え? 理事長が? ……本当に余計なこと……はぁ、わかりました。良いぞ、お前。急いで準備しろ」

「ありがとう先生。高等部の教師は話が早くて助かる」


 先生は苦虫を噛みつぶしたような顔をしている。何か言いたそうだったが、俺の予想と期待に反し、その先生は愚痴らしきものをぶつぶつと呟くだけで、アイツを止めてはくれなかった。


 あからさまに嫌そうな顔をしていたその先生からマイクを奪うと、アイツは宣言する。


「じゃあ、ええと……そうだな、私たちは『バンドしようぜ愛好会』だ。よろしく。準備するからちょっとだけ待ってくれ」


 ……軽く目眩がした。でも、すごく味のある名前だと思ってあげた。きっとアイツの精一杯なんだと信じる。で、何を始めようって?


「渡月妹! 空見が放送室にいる。二人でセッティング急げ! それと委員長! なに寝呆けてるんだ。お前は今すぐステージに出て気やきやがれ」

「はいはい、カナミちゃん! 言われたとおりアレ取ってきてるよ?」

「お、俺!? それよりお前、一体何するつもりなんだよ!?」


 おいおい、お前らいつの間に……。溜息しか出ない。俺に隠れて何か仕込んでいたのか。アイツからご指名が来た。仕方ない。仕方ないよな。手伝うか。だが聞くべき事は聞いておかないと。で、朔耶はこの話を知っているのか?


「それとビビリの天河。その気があるならお前も付き合え。本気でヤル気があるならな。それとも、突然のステージの話はダメなのかよ。もう漏らしたんじゃないだろうな?」

「ななななな、なんてこと言ってるのよ! 適当な事言わないで!」

「お前、本当にその程度なんだな。どこまでビビリなんだか」

「ぐぐぐ……判ったわよ! 後で絶対泣かせてやるんだから!! 覚悟してなさいよ!?」

「悪い、吹奏楽部、ちょっとだけドラム貸りる」


 朔耶の慌てぶりは酷かった。そうだよな、こんな無茶苦茶な話を、アイツが前もって朔耶に話すわけが無いよな。そうだと思ったよ。今だアイツの暴走は続いていた。でも、朔耶のあがり症を治すにはステージを重ねるしかなく、アイツにしては良くこの場を作ってくれたと思う。方法は無茶苦茶だけど。だけど、その口で朔耶に喧嘩を売るのを止めてくれ。後で面倒になるに違いない。頼むからお願いだ。ところで諸星。お前、俺の質問の答えはどうなっているんだ?


「おい諸星! 人の話を聞けよ! 無視するなって!」


 アイツは当然のように俺の質問を黙殺してくれた。


 アイツは壇上で矢継ぎ早に指示を飛ばしている。


「天河、テンポ百六十でエイトビートだ。好きにアレンジして入れてみろ。出来るよな!? マイクは気が向いたら使えよ。渡月兄妹は天河のフィルイン聞いて適当に入れ! 妹はリードギター、上のコーラスだ。今日は私がボーカルを張る。空見はとりあえず今日はもう寝てろ。ああ、起きたら吹奏楽部に菓子折持って行ってくれると助かる」

「何始める気よ」


 朔耶は当然の疑問をアイツにぶるける。


「練習していた曲だよ。心配するな。――それとも、もうビビったのか?」

「んなわけないでしょ!?」


 アイツは朔耶を挑発し続けている。そんな態度をアイツに取られた朔耶は……当然、顔を真っ赤にして怒りを顕わにしていた。


「ぎゅーんとやるよ! だから朔耶ちゃん、ドカドカをちょうだい?」


 朔耶の怒りの矛先を逸らすかのように、織姫が朔耶に音を要求する。激しく目眩がした。織姫の言うことは全く意味がわからなかった。でも、織姫から渡されたベースを握る俺の手は、その時になれば勝手に動くのだろう。コイツらが放つであろう、どのような音が来ても大丈夫だ。アイツがくれたこのベースギターは間違いなく信じられる。


「始めるぞ!? 渡月妹、ぶちかませ!」


 アイツの合図と共に、織姫のエレキギターから悪魔の叫び声を思わせる金属音が駆け上がる。ギターの咆吼が伸びきったその時、朔耶は怒濤の連打を打ち込み始めた。その朔耶のフィルインに笑顔を乗せて、織姫がアドリブでソロを組上げて行く。織姫がサビの旋律めいたものを響かせ始めたたとき、やっとアイツの意図した曲に気づいた。


 ああ。この曲か。俺は八分の刻みをそっと忍び込ませ、朔耶のバスドラムを引き出した。腹に響く重低音がリズムを刻み始める。これで下地が揃った。朔耶の奴、やれば出来るじゃないか。俺がそんな事を思っていると、待ってましたとばかりに織姫のコード引きが聞こえてくる。俺がアルペジオに変えてたっぷりと十六小節。やがてアイツのシャウトが聞こえ始めた。


『おめでとう。おめでとう。お前ら入学おめでとう』


 俺は耳を疑った。もちろん替え歌である。アイツのオリジナル曲の一つだが、俺が用意した歌詞とは全く違う。アイツはこの歌詞? をこれでもかという程、ただひたすらに繰り返す。悪ノリした織姫や、途中からなにかが吹っ切れたらしい朔耶も加わったコーラスと相まって妙な盛り上がりを見せていた。何も聞かされていなかった俺は、曲調のカッコ良さとは正反対の、どうしようもないほど酷さ極まる歌詞にただただ脱力する。周りを見れば、バカ三人は笑顔で叫んでいた。歌っていた、とはとても口に出来ない。でも、ステージの上で叫び続けるアイツらは、本当に楽しそうに見えた。


「おめでとう。おめでとう。お前ら入学おめでとう!」


 いつしか俺はバカどもに洗脳されていたらしく、ステージの袖で叫んでしまっていた。その瞬間、まるでお互いがそろい合わせていたかのように一切の音を止めた三バカは、一斉に俺を振り向いたのだ。この時のアイツら三人が見せた、凍り付いた表情と冷たい視線を俺は一生忘れることはないだろう。


 正式な愛好会設立が後の教職会で認められなかったことを付け加えておく。そのことに俺はこの学校の良識を一瞬たりとも疑った自分を恥じた。この学校にも正義はあったのだ。


 始業式と、新入生歓迎会の行われたその日の放課後。新学期早々、俺の周囲で穏やかな時間が流れていた。嬉しさと楽しさのあまり、つい頬が綻んでしまう。朔耶がステージで緊張した様子はなかった。アイツの奇襲作戦は上手くいったと言える。これでこのバンドの懸案の一つが解決に近づいたはずだ。それに、今回の成功でこの二人は今まで以上に仲良くなってくれるはずだ。少し安心した。俺は大きく息を吐くと、仲良く談笑しているらしい二人に目を向け……た。


「少しは度胸ついたか? 天河」

「諸星さん!? あんな抜き打ちをよくも! あんな乱入をするなんて、事前に教えておいてくれても良いじゃない!」


 いがみ合っている二人がいた。……どういうことだ?


「抜き打ちしてこそ意味がある。あの程度、今時は幼稚舎の年少組でも常識だ」

「ないない! そんなの無いから!」


 いや。俺もそんな幼稚園は嫌だから。でもなんだよこの空気。


「サルでも出来ると言ったんだよ、この泥棒猫。ビビるのもいい加減にしろ」

「……っ! 言わせておけば! 君はその話を蒸し返すワケね……。よーくわかったわ。諸星さん、君なんて充彦くんから長いこと無視されてたじゃない! まだ未練があるわけ? いい加減に諦めなさいよ、このストーカー!」

「……お前はコイツの彼女なんだろ? だったらもっと堂々としてろよ。それとも、自信が無いのか? ああ、そう言えばアレ、お前が言っていただけの狂言だったか。悪い悪い」


 止めないと、なんとかして止めないと! そうは思うが、身体が動かない。なにより言葉が思いつかなかった。


「違うもん! あたしには約束してくれたもの!」

「それだって、いつの約束なんだか。約束だったら、私もしたぞ? 昔の話だろ?」

「そんな、そんなのじゃないもん! 君なんかとは違うもの!」

「ウザイ奴。久しぶりにお前、やんのかよ。天河」

「やってやろうじゃないの。相手にとって不足はないから!」


 息を飲み込む。睨み合う二人がいた。下手に触れると今にも暴発……って、織姫!?


「はわわわわ……。二人とも二人とも。ジュース買ってきたから飲も? 飲も?」


 織姫が二人にジュースを差し出す。


「要らない。渡月妹」

「あたしもいらない。こんな人と飲みたくない」

「それはこっちの台詞だ!」

「よく言うわよ!」

「ね、美味しいよ? オレンジにグレープ。メロンソーダもあるんだよ? ね? ね?」


 織姫が二人の間で飛び跳ねる。それに目を落としたアイツの顔から険が消えてゆく。アイツは先に降りたようだった。


「……白けた。やっぱ貰うわ、渡月妹。炭酸無しをくれよ」

「あたしも。ちょうだい、オリオリ。どれでも良いわ」


 朔耶も矛を収めてくれた。俺はひとまず胸をなで下ろす。でも、焦った。この二人が仲良く? さっきまでの和んだ雰囲気は既に昔。今ではどんな幻かと思えるのだ。

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