第34話  四章 二月十五日 火曜日

「はろはろ、リョウ兄。わたしが来たよ?」


 織姫の朗らかな声が響き渡った店内。早速、一人増えたバンドのメンバー全員で音合わせをしようと訪れたレンタルスタジオだった。ところが、俺達がいつもの店に入るなり、目つきの悪い店員がこちらを睨んでくる。やって来たのはいつも利用している老舗の楽器店だ。建屋が一棟増えるらしい。裏手で工事をやっていた。なんでもレンタルスタジオを増築するそうだ。


「いらっしゃいませ……って。お前達か。帰れよオリヒメ。頼むからお前は来るな。この疫病神」

「嫌だよーだ」


 織姫がお約束通りに舌を出している。


「リョウさん、なんてこというの。あたしも一緒だから大丈夫だって。オリオリに変なこと言わないでよ」

「サクヤ、お前も一緒だからだ。お前達がここでしでかした悪行の数々……忘れたとは言わせねぇ。帰れジャリ共!」


 リョウ兄は本気で嫌そうだ。始め見せていた歓迎の欠片も、一瞬で消え失せていた。


「冷たいなぁ。まるでカナンハウスのアイスクリームみたいだよ」

「そうね。オリオリ。でもリョウさんってば、カナンハウスみたいに、その実、激甘なんだよね」


 母さんが大好きなカナンハウスのアイスクリーム。ただし、その愛好者が全て甘いわけではないと思う。事実、母さんは自分にだけ甘く、俺達には冷たい……あれ? 合ってるな。


「うんうん。だからわたし、リョウ兄が大好きなんだぁ」

「あたしもあたしもっ! 大好きかな! 面白いし」


 バカ二人の横暴は止まらなかった。


「……。わかったよ! 俺が悪かったよ! だからお前ら黙れよ! もう勘弁してくれよ!」


 黙って店内を眺めていたアイツが口を開いた。


「小さな店だな。お前ら、いつもこんなボロイところで練習しているのかよ」


 容赦の欠片もない、バカ正直な感想が聞こえた。カウンターに視線を向けると、リョウ兄が額を押さえている。俺はアイツらが敵ではなくて良かったと、ご先祖様に感謝した。


「そだよ。それに結構ね、汚いんだぁ」

「そっそ。全然掃除してないっぽいんだよね」

「他にレンタルできそうな所は?」

「あるけど、そこにはリョウ兄がいないから遊べないし、面白くないよ?」

「そっか。よくわからないけど、場所はここが一番マシなんだな? だったら仕方ない。仕方ないか。うんうん、仕方がないよな」

「ま、他の店には普通の店員さんしかいないし、ここよりもっとサービス悪いし?」


 アイツの毒舌は止まらない。それに朔耶も相当酷い。さすが、リョウ兄に織姫と並んで忌避されていることはあった。


「おいオリヒメ! お前が連れてくるのはどうしてそんな残念な美人しかいないんだ! もっとまともな客を連れてこい!」


 リョウ兄が本気で切れかけている。だけど、アイツらは全く聞く耳を持たなくて……。


「カナミちゃん、カナミちゃん。美人だってよ?」

「それが?」

「諸星さん、君の事をリョウさんが褒めているんだけど?」

「当然のことだろ? 私の外見が褒められるのはいつものことじゃないか。珍しくもない。正直もう飽きた。私が努力したからこの外見があるわけでもない。褒められても小指の先ほども嬉しくないな」


 俺は絶句した。物凄い台詞を聞いたような気がする。今、アイツはとんでもない事を口走らなかっただろうか?


「う……。そうなんだ。でもリョウ兄は誰にでも『綺麗だね』とは言わないんだよ? 顔が可哀想な人にはハッキリと酷い事を言っちゃう女の敵なんだよ」

「そっそ。ズバズバ言うよね、リョウさんは。それでいて油断していると、たまに誘ってくるから諸星さんも気をつけたが良いよ?」

「いい加減黙れ、オリヒメにサクヤ! つまみ出すぞ!?」


 あ、切れた。リョウ兄の顔が真っ赤だよ。


「酷いなぁ。常連さんに言う台詞じゃないなぁ、リョウ兄。……あ、そっか。リョウ兄は外見で差別しない偉い人だったんだ! 物凄く尊敬するかも。わたし、またリョウ兄の良いところ見つけちゃったよ! ね、ね、褒めて褒めて?」


 酷い漫才だった。それにもいい加減に飽きがきた頃、アイツが俺に呟いた。


「委員長、練習場所は?」

「こっちだよ、諸星。……織姫、行くぞ?」

「うんうん。リョウ兄が黙っちゃったから丁度飽きちゃったところ。行こ行こ、お兄ちゃん」

「そのうち復活すると思うけど? でもそろそろ、あたしも飽きてきた」


 スタジオへと皆を誘導する。後ろで白く燃え尽きていていたリョウ兄を見たような気がしたが、気のせいだと思っておくことにした。


 ◇ ◇ ◇


 扉の先にあったのは、壁面を木材で覆われた広めの空間だった。音響機材が充分な余裕を持って並んでいる、薄汚れた部屋だった。とはいえ我慢できないほど不潔ではない。レンタルスタジオの中はいつものように清掃は行き届いていないが、今日はリョウ兄に文句を言うほどではなかった。いや、先ほどの惨劇を思えば、とても『掃除してよ』などと言えた雰囲気ではないはずだ。


「早速、聴かせろよ。お前達の生の音」


 言うが早いか、アイツは壁に立てかけてあったパイプ椅子を引き出してスタジオの入り口付近に深く腰を降ろし、陣取ってしまった。スラリと伸びた腕と足を組んだアイツは堂々としていて、思わず見とれてしまう。それが実に絵になっていた。どうしようもなくカッコ良いと言えよう。学校指定の制服である緑のブレザーも、着ている中身が違うだけで全く別のものに見えてしまうのが驚きだ。つい視線をやらずにはいられない。


「はぁ~ぁ、おーい、早くしろよ委員長。ぼーっとしない急げ! アクビが出てきた」


 両手を挙げて伸びを繰り返す姿は本当に退屈しているっぽい。観客に徹すると決めたのだろう。アイツはニヤニヤと緩みきった微笑を向けてくる。俺がアイツの姿を盗み見ていたのがばれていたのかも知れない。


「準備が出来たら勝手に初めてくれて構わないからな。私はいつでもオーケーだ」


 アイツは言うだけ言うと、両腕を胸の下に組み動かなくなってしまった。マズイ。このままではアイツ、本当に眠ってしまう。


「充彦くん……」

「大丈夫だよ。アイツの度肝をぬ手やれ、朔耶……って、なに緊張してるんだよ」


 朔耶の奴、手が震えているじゃないか。オイオイ、こんなところでビビってどうする。


「朔耶っちなら絶対大丈夫! わたしもついてるからさ! うん、わたしも頑張るよ!?」

「オリオリ……ありがとう」

「朔耶ちゃん、今はまだ堅いかも知れない。でも、緊張はそれを克服出来るように、今から色々ゆっくりと試せば良いじゃないか。今は演奏を楽しめるかどうか。そこが大切なんじゃないか?」

「空見、ありがとう。そうだね、楽しまなきゃ!」

「今頃気づいたのか? そりゃ、去年の学祭でコケるワケだ」

「うっさいなー! 空見。都合の悪い過去は全て忘れるのが良い女の条件なんだって!」


 悠人が良いこと言った! ありがとう、悠人。


「大丈夫だよ朔耶なら。むしろ、緊張なんて今だけの特権だから、それすら楽しめば良いんじゃないか?」

「え……? うんうん、そうだよ、そうだよね、充彦くん!」


 そう。楽しまなきゃ意味が無いんだ。


「はいーはい。朔耶ちゃんもノッて来たようだし、始めようか。アイツが寝ちまう前に」

「うんうん、悠人くんの言う通り! 始めちゃおう、朔耶っち!」

「充彦くん、いいかな?」


 悠人と織姫に促され、朔耶が声を掛けてくる。


「ダメだといってもお前はそうするんだろ? 朔耶。俺に断る理由なんか無いよ」

「おっけおっけ。よーし、じゃ、頭を四分打ちで入れるから、勝手に入って!」


 朔耶がリズムを刻み始め、とりあえず俺は八分の刻みをそっと乗せてゆく。正面に設えられた特設席のアイツに目をやると、アイツは無言で頷きつつ、瞑っていた目を僅かに開く。いつになく集中しているのか、その表情は消えていた。


 終わった。完璧な演奏だったよな? 朔耶のしくじりも、織姫のやり過ぎたパフォーマンスも、まして悠人の即興アドリブもなかった。実に教科書通りのスタンダード。変に弄ることがないために、余計に難しいとも言えた。――俺はアイツに目をやる。無表情。どう思われているのだろう……。


「もう一度だ。出来るよな?」


 アイツは顎を軽く上げ、短く、そして重々しく口にした。


 ◇ ◇ ◇


 再度弾き終わる。アイツは目を瞑り、眉間に皺を寄せていた。なにかを真剣に考えているようだった。おもむろにアイツは立ち上がってみせた。そして足下に置いていた黒いケースから自分のギターを取り出したかと思うと、こちらに歩み寄りコードをつなぎ始める。


「諸星?」


 アイツは声を掛ける俺に目もくれない。そして次の瞬間、弾けるように俺達の目の前に飛び出すと、矢継ぎ早に指示を出してゆく。


「渡月妹! ソプラノとコーラスを任せて良いか? ギターは先ほどのアレンジで構わないから」

「おっけー! カナミちゃん!」

「空見。お前はもう少し遊んでみろよ」

「え? 良いの?」


 悠人が少し驚いたような顔をする。


「男ならそのくらい黙ってやってみせろ。お前、図々しいのは顔だけじゃないんだろ?」

「はいーはい。良きかな良きかな。吉祥天様はご機嫌斜めそうだけど、ありがたいこって」

「黙れ空見。お前のそういう所が三枚目なんだ。気づけ。色男が泣いてるぞ」

「……やっぱり酷ぇよ、この女」


 憎まれ口を吐いている悠人はどこか嬉しそうだった。


「諸星、俺は?」


 アイツからすっごい目で睨まれた。こ、怖いかも……。


「お前はさっきからバスドラの邪魔をするな。誰のお披露目だと思ってるんだ。今日、私が聴きたかったのは主にドラムの音なんだ。知ってたよな!? それをさっ引いても、お前のベースはうるさいんだよ。気づけバカ。耳が腐ってるのか」

「わ、悪ぃ」


 怖い。その証拠に震えた声しか出なかった。


「私じゃないだろ? あのコに謝れよな。……ったく! 今まで何を練習して来たんだよ、ヘタクソ」

「……すまん」


 でも……ああ、そうだ。アイツはいつも本気で俺を見てくれていた。こんな奴だったよ。いつもいつも俺に本気で向かってくれていた奴だったじゃないか。不甲斐ない俺を怒鳴りつけながら、アイツは手早くギターのチューニングを合わせると、今度は天河を睨み付けた。


「天河、もう一度だ。私をその気にさせてみろ。それが出来たら褒めてやるよ」


 迫力に押されたのか、朔耶は無言で頷いていた。



 アイツはやっぱり凄まじかった。さっきまでの織姫のギターとボーカルが春の微風なら、久しぶりに耳にしたアイツのそれは秋の暴風。それでいて、アイツの奏でる音色はもの悲しさをも感じさせ始めたかと思うと、織姫のそれをなぞり、包み込むような優しい音色に変化する。天河の力強く走っていたドラムもアイツのペースに合わせて次第にゆっくりと、そして優しく変わっていた。いや、違う。曲の頭のテンポが速かったのはアイツがわざと走っていたからだろうか。それに朔耶が引っ張られていたに違いない。きっと、ドラムを力強く打つように仕向けていたのだろう。アイツが後ろを振り返る。天河に向けた顔は実に珍しい晴れ晴れしい笑顔をしていた。


「ま、初めはこんなものだろ。天河、私についてこれるよな?」

「……っ!」


 朔耶は息を飲む。


「どうなんだよ、天河」

「と、当然でしょ!? あたしを誰だと思ってるのよ、諸星さん! それにあたしのバンドなんだから!」


 でも、まぁ……こうなるよな。ビビリは一瞬だけだった。直ぐに朔耶はいつもの強がりを見せてくる。


「……いい顔も出来るじゃないか、天河。――それと、曲のテンポを決めるのはギターじゃない。お前が決めるんだ。さっきのように私に引きずられるようじゃダメだ。お前が私をリードするんだよ。リズムのテンポはお前が決めろ。いくら緊張していたからといっても、今みたいなのはダメだからな? お前が始めにテンポを決め、そしてしっかりと最後まで守るんだ。私はお前を信じることにするから。次から直せよな? じゃ、よろしくな」


 アイツは気配りを忘れない。以前のような自己中はあまり感じられない。アイツ曰く、俺がそうさせたらしい。


 ◇ ◇ ◇


 その次の日の晩のことだ。俺はアイツに電話をかけていた。俺はアイツにアイツの母親――諸星由美子へ、アイツ自身がバンドを始めた事を連絡するように、強く勧めておいたのだ。


『で、どうなんだ? お前の母さんはなんと言ってきた?』

『たいしたことは何もない。返事を返してきても、バンドのことになんて一言も触れてこなかった。もう私の存在なんて、あの人にとってもどうでも良いんじゃないか?』


 学校で聞いた時には『まだ連絡してない』と、かなり嫌がる素振りを見せていたアイツだったが、結局は俺の勧め通りに母親へ一報を入れてくれたらしい。


『違うだろ? きっと考えすぎだ』

『どうだか。捨てられたんだよ。私は本当に今度こそな』

『そうじゃないと思うぞ、俺は。だって、バンドをするな、とも言ってこないんだろ? それって、お前にバンドをとりあえず続けてろ、って事なんじゃないのかな』


 暫く沈黙があった。


『お前、幸せな脳味噌をしてるな』

『お前ほどじゃないぞ? 諸星』

『言ってろよ、バカ』


 あ。電話を切られた。

 照れ隠しだろうか。でもきっと、アイツも俺の意見に同意してくれたに違いない。

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