第33話 四章 二月十四日 月曜日

 朝、珍しい光景が広がっていた。一年に数度あるかないか。でも、ここまでのものには今まで経験したことがない。俺達の周囲は一面の霧に覆われ、視界が全く無かったのだ。これを目にした途端、悠人の呆れた声が響いた。


「なんだよ、こんなのアリなのか? 充彦、見たことあるか?」

「いや、記憶にない」

「うんうん、すっごい霧だね。これ面白いかも。お兄ちゃん達の声は聞こえるけど、姿が全然見えないし?」


 俺と悠人、それに我が愛すべき妹である織姫。今日もこのいつもの三人で学校へと向かっていた。おそらくこの大川の河川敷に深い霧が立ちこめているのだろう。遠くで見える車のヘッドライトらしき光が人魂のように行列を成し揺れている。


「おー、すっごい眺め」

「嘘つくな織姫。一歩先も見えないだろうが。自分の足下すらよく見えないじゃないか!」

「良くわかってるじゃない、お兄ちゃん」

「なんだよそれ?」

「お兄ちゃん、ついにカナミちゃんをバンドに引き摺り込んだんだって? 良かったね。朔耶っちが昨日、電話してきたんだ。でも、わかってる? これ、お兄ちゃんにとっては時間稼ぎだよ? バンドの話、上手くいったように思えても、全くそうじゃないんだからね!?」

「う……わかってるよ。なんとかしてみせるさ」

「はいはい。でも、良いなぁ。ある意味憬れるかも。あーあ、わたしもそんな素敵な恋がしたいなあ! わたしも信頼と友情の狭間で悶え狂うような一生ものの恋がしてみたいよ!」

「いや、あの、織姫ちゃん? 織姫ちゃん!?」

「なに? 悠人くん。どしたの」


 悠人が何故か焦っていた。それにしても織姫。お前が言うか? それ無理だから。自分のキャラを考えろよ、と言いたい。……いや、俺が傲慢だった。交代できるものなら替わって欲しい。お願いだよ。


 ◇ ◇ ◇


 バレンタインデー。毎年、あまり面白くない日だった。織姫の俺に対する愛が瞬間的に重くなる日。そして、それ以外の女のコが俺に冷たい日。それに何より、母さんが一年で一番俺に辛く当る日だ。バレンタインデー。それは本当に大嫌いな日だと言えた。例外は去年、俺に凄いものをくれたアイツだけ。だけど、今年はどうだろう……?


 机の上によじ登り、仁王立ちで宣言するバカがいた。


「喜べ男子! 皆のアイドル、朔耶ちゃんは皆に平等に愛を与えちゃうのだ! 天上の神様は君たちを見捨てても、あたしは君たちを見捨てない! ……と、いうわけで、チョコあげちゃう。はい。いつもありがとう。はい。君も。仲良くしてくれて嬉しいよ。はい君も。え? お前を構わないと何だかんだとうるさいから仕方なく毎回相手をしてやってるだけだ? まぁまぁ、そんな照れ隠しは良いから。うんうん。君にもあげるよ? うん。そんなに拗ねないの。ね?」


 朔耶は大袋からキャンディーサイズのチョコを掴みだし、おおざっぱに教室中に投げている。節分か? まるで豆まきのようだった。皆、喜んでいると言うよりも、半数は『まーた天河のバカが始まった』と、生暖かい目で見ていた。もちろん、感動しているコ達もいる。きっとストーカー予備軍になるに違いないと思えた。


「あー、天河。あのコ凄いな、尊敬する」


 アイツがボソリと呟く。


「まぁ、俺にも無理だ。あんな行動力無いよ」

「……嘘つき」


 アイツの目が冷たい。


「はい、充彦くん。充彦くんにはこれあげちゃう!」


 見ればキャンディーサイズのチョコがぎっしり入った大袋。俺は朔耶を見上げる。コロコロと笑っていた。アイツに視線を戻す。俺を凝視するその視線は、痛々しいまでに冷え切っていた。


 ◇ ◇ ◇


 アイツは帰り際、謎の横文字が踊る紙袋をくれた。開けてみろ、と言われ、言われるがまま開けてみる。


「え……って、なんだよこれ。ココア缶? こんなに大きいの……」


 俺がアイツから貰った紙袋の中には大きな缶が入っていた。謎の外国語は良くわからなかったが、挿絵から察するにココアの大缶のようだ。


「お前の彼女に悪いから、紛い物で良いよな? ホットチョコレート。それにこれだと毎日味わえるだろ? お前には少しでも長く想っておいて欲しいから」

「え?」


 耳を疑った。


「……って、こんな寒いこと言わせんな!」


 アイツは真顔でこんな事を言うんだ。……涙が出てきた。どうしてだろう。

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