第32話 四章 二月十日 木曜日

 放課後のことだ。俺はアイツを探していた。ここ数日、アイツが占領していた音楽準備室にその姿が無かったからである。だが、そう歩き回ることもなくアイツは直ぐに見つかった。風に乗って流れてきたギターの音色が、その居場所を教えていたからだ。


 北風の吹く屋上で、赤いコートに長い黒髪をなびかせたアイツが、寒さなどまるで感じていないかのごとく弦を掻き鳴らし、一心に歌い上げていた。音の束が流れては消えてゆく。曲が止み、音が途切れるまで、俺は歌い続けるアイツから目が離せなかった。


 この曲、聴いたことがある。『夜明けをみつめて』だ。歌手、SAKIの新曲だったはず。彼女も諸星由美子と並ぶ大御所の一人だ。デビュー当時、諸星由美子と新人賞を争ったこともあると聞いている。


「なんだ諸星、こんな所にいたのかよ」

「音楽室、追い出されたからな。ギターだけ借りて来た。お前の分もあるぞ?」


 足下にはもう一本、アコースティックがおいてあった。俺が来ることは織り込み済みだったらしい。


「あー、はいはい。俺に弾けって言うんだろ?」

「当然だ。お前はいつも来るのが遅いんだよ、全く。人を待たせるのもいい加減にしろ。それにハイは一回で良いんだよ。忘れたのかよ、このバカ」


 場所も時間も聞いていない。そもそもこうして逢う約束すらしていなかった。それなのに酷い言われようだ。それならそうと、前もってはっきりと教えてくれてくれたら良いのに。そうは思いつつ、口から出るのは謝罪の言葉だった。


「ごめん」

「罰だ。何か弾いて見ろ」


 何か、と言われても……手が動いた。俺が自然に奏でたマイナー7。アイツの目が大きく見開いたかと思うと、呆れたように優しく微笑んで瞼を伏せる。


「お前。ほんっとに、あの曲が好きなんだな」

「うるせえよ」

「まぁそう怒るなよ、渡月。知ってるか? この前、母さんとタメを張ってた元アイドルが、自分のデビュー曲をリファインして『夜明けをみつめて』なんて名を打って新曲として売り出してた。もうバカじゃないのかと思ったよ。そんな事だから母さんに負けるんだよ、あの女。人気もCDの売り上げも、商売も。――そして思い人の愛すら母さんに奪われたのに――まだわかってないのかと言いたいよ。バカだよな、あの女」


 それにしては、随分と熱のこもった話だった。バカにしているようでいて、これほど相手のことについて力説するアイツの姿は珍しい。滅多に……いや、皆無だと思う。おそらくアイツは、SAKIの熱狂的なファンなのだろう。


「良い曲は良いんだ。無理に時代に合わせて作り替える必要は無い。歌い手が変わっても、なおもその曲が皆に届くのなら、それで良いと思わないか?」

「諸星……?」


 アイツが弦を一掻き。俺のマイナー7に続くコードが乗った。


「私もこの曲が好きだ。この曲は既に母さんの曲じゃない。この曲は私の、そしてこの曲が好きなお前のものだ。弾けよ。さぁ、弾いて見せろ。――そして、名実共にお前自身の曲にしてしまえ」


 アイツがサビのコードを入れてきた。続いて力強いサビの旋律が重なり、屋上の空に流れ出す。俺はアイツの奏でる旋律を支えるべく、慎重に低音を選んで重ねてゆく。目を瞑り、神経を研ぎ澄まし、音の震えを全身で感じながら――。いつもと違う、歌い手の愛が染みこむ深く力強い歌声が耳傍で聞こえる。しっかりと、歌い上げるかのような歌声。それは俺の左隣から……え? 諸星は俺の右だったような? それに、まさかこの声は――。俺は瞼を開いた。


「朔、耶……?」


 それは朔耶だった。いつの間にここに来たのかはわからない。でも、今確かに俺の隣で朔耶が歌っているのだ。俺とアイツの伴奏に乗せて歌っている。何よりもこの場に居合わせたことが幸運だと言わんばかりに微笑んでいた。朔耶が俺を見ている。俺はアイツに視線を送る。アイツと目が合った。アイツも微笑んでいた。だけど俺と目が合うなり、鼻を鳴らしてそっぽを向いた。朔耶に目を戻す。朔耶の鳶色の瞳に光が宿っている。夕陽に照らされつつ歌い上げる朔耶はとても生き生きとして、今までで一番輝いて見えた。


 俺達三人の曲が終わると、屋上を支配していた冷たい風は止んでいた。朔耶がアイツに向き直り、アイツは朔耶の揺れる視線を穏やかに受け流している。


「天河。この前の返事、今日は聞けそうだな」

「ええ。もちろん」

「じゃあ、聞かせてくれよ」

「じゃあ、一回しか言わないから、良く聞いてね。……ねぇ、諸星さん。あたしには君のような凡人には思いもつかないような野望があるの。でもね、その成就のためには、悔しいけど君の力が絶対に必要なんだ。今、諸星さん達の伴奏で歌ってみて、それが確信に変わったの。だから、あたしのバンドに入れてあげる。特別に入れてあげるんだから、感謝してよね?」


 朔耶はアイツに告げる。恐る恐る、精一杯の勇気を出して強がっているのがわかる。両の拳を握りしめ、それが小刻みに揺れていたのだ。


「何を言い出すかと思ったら。――天河、後で後悔するなよ? 私もしないって約束するから、お前もするな。構わないよな? ――もちろん委員長、お前もだからな、このお節介男。これで三人が三人とも運命共同体ってワケだ。これから色々あるだろうけど、よろしくな。全く仕方ない。仕方ないよな。お節介のせいでとんだ苦労をすることになりそうだ」

「冗談。後悔なんてしない。なにがあっても、あたしは後悔なんてしないの!」

 天河は言い切った。本当は自信なんて無いはずだ。でも、精一杯の虚勢を張ったのだろう。それを見せられたアイツは嫌そうな顔をしつつも苦笑している。あれはきっとアイツなりの照れ隠しに違いない。


 ◇ ◇ ◇


 次の日の朝、メールの着信があったことに気づいた。


『仕方ないよな。仕方ない。これで良いんだ。委員長、私はお前を信じてる』


 俺はこの信頼に応えることが出来るのか。そうだ、と胸を張って言えるとは自信は無い。だから急にアイツの笑顔が見たくなった。早く学校に行こう。

 

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