第31話 四章 二月九日 水曜日
放課後の教室で、俺はアイツの意外な姿を見てしまった。アイツが帰宅しようとする朔耶を呼び止め、気さくに話しかけている。
「なぁ、天河。お前、メジャーになりたいんだって? お前のバンドにさ、話題性抜群で、ルックスも技術も最高なギタリストを一人加える気はないのか? 私さ、そいつから頼まれたんだよ。もしお前にその気があったら、私に一言かけてくれ。そいつに伝えておいてやるから。じゃ、頼んだからな」
言うだけ言うと、アイツは教室から出て行こうとする。
「諸星さん、あ……」
「どうした? 返事は明日以降で構わない。ソイツ、急がないらしいから」
呼び止められたアイツが微笑んでいる。皆、意外だったのだろう。それを目撃した幸運な数人が固まっていた。
「う、うん」
「じゃ、また明日な。天河」
「うん、またね。諸星さん」
あの場所に向かう途中、下駄箱で見かけた朔耶に声を掛けてみる。
「朔耶、アイツをいつ誘うんだ? どう見ても、アイツお前から言い出すのを待ってるぞ?」
「うん、ありがと。でも、もうちょっと、もうちょっとだけ待って? もう少しで心の整理がつくと思うの」
迷っているらしい。そう簡単にはいかないか。まぁ、変に焦らせることもないかと思う。
「わかったよ。適当にアイツの興味を引いておくから、心配するなって。それとなく言っておくからさ」
「うん。ありがとう」
去って行く朔耶の後ろ姿を見送る。クラスメイトに声を掛けるそれは自然に見えた。
管楽器の音が幾つも聞こえる。その奥に未だ家路についていないアイツが居た。
ここは音楽準備室。吹奏楽部の部室のはずなのだが……。
この前から半ば居候、もとい無言の圧力をかけているらしい。部外者でありながら、どうにも居座っているようだ。既成事実とはこうして作られてゆくのかも知れない。
まぁ、俺もこうして顔を出してしまうわけではあるが。
「なぁ、諸星。ありがとう。朔耶のために動いてくれて」
「礼なんか言うな。バカ」
コイツはギターの弦を弾きつつ続ける。
「でさ。……朔耶、どうだった?」
「あのコの意思は決まってるよ。そんな目をしてた」
「そっか」
分かり切ったことを聞くな、とでも言いたそうな断定口調だ。
「後は一握りの勇気だけだ。……もっとも、私だったら誰かの後押しが無ければ、その薄っぺらなプライドに賭けて口が裂けても言えない」
「……そっか」
コイツが演奏を止めて黙り込む。唇を真一文字に噛んでいた。どのくらいそうしていただろう。予鈴が合図だったかも知れない。アイツはその切れ長の瞳で俺を真っ直ぐに見据え、はっきりと言った。
「なぁ委員長。私はお前を信じている。だから、今さらお前が何をしたって、私はお前を離したりしない」
「うん」
「だからさ、お前。お前はあのコに勇気をくれてやれよ。お前にしか出来ないことだと思うから、さ」
俺が……朔耶に? 俺にしか、出来ない?
「え?」
「良いから。私が構わない、と言ってるんだ。何度も言わせるなよ。こんなムカツク事」
「お前、それで良いのかよ?」
さすがに聞いた。これがコイツの本心であるわけがない。いくらコイツが適当な奴だからって、そこまで妥協できるはずがないんだ。少なくとも俺がコイツの立場だったら、耐えることなんて出来やしない。でも、それでも――コイツはこう言ったんだ。
「良い訳ないだろ? お前にちょっかい出してくる女だぞ? はっきり言って敵以外の何者でもないんだよ! でもさ、それとこれとは別なんだ。私はあのコを巻き込みたい。これがベストなんだって、私の血が、諸星由美子から受け継いだ血がそう言うんだ。自分の直感を信じないで、何を信じるんだ? お前のヘタクソなギターを聞いた時もそうだった。あのコの音源を聞いた時に感じた感覚も一緒だったんだよ。母さんの評価なんて関係ない。この私が私のためにあのコを必要としているんだ」
コイツは真っ直ぐ俺を見詰めてくる。ああ、これは……。
父さんが母さんと酷い喧嘩をした後に見せる、譲れない何かを守る姿が重なって見える。そう。そんな目つきに似ていた。
「頼む渡月、動いてくれよ。私のために」
音楽準備室を後にする。アイツはもう少し弾いてから帰ると言っていた。俺が廊下に出て暫くして、階段に差し掛かろうとしたとき、音楽室の方から大きな物が落ちる音が聞こえたような。気のせいだろうか? 誰も居ないし、アイツはもう、妙なことはしないはずだ。きっと気のせいに違いない。俺は振り返らなかった。だから、アイツが押さえに押さえておいた激情の凄まじさを知る機会はなかったはずだった。……トイレにさえ寄らなければ、耳にすることもなかったはずだ。
「あのバカ! どうして躊躇いもなくあのコの所に走るんだよ……! せめて私を抱きしめでもして落ち着かせやがれ! ……畜生、なんなんだよアイツは! どうしてこうも私を! ……バカは私だ……!」
漏れ聞こえたその叫びに、俺は逃げ出していた。今のアイツと逢ってはいけない。ここで引き返したらみんなの想いの全てが無駄になる。そんな気がした。だから俺は逃げ出す。アイツの想いの激しさに、俺が正面から向き合うのはまだ無理だと思うから。
着信音で目が覚めた。
『朔耶、どうしたんだよこんな時間に。この時間にお前から電話してくるなんて珍しいな』
『あのね、ちょっと出てこられるかな。逢って少しだけお話がしたいの……』
『ちょっとだけ会うだけだぞ?』
ただ事ではない気がした。寝惚け眼を擦りつつ、俺は適当に着替えを済ませるとこっそり家を後にする。朔耶の奴がこんな夜中に呼び出すなんて。どうしたのだろう。
コンビニでお菓子を見繕っていたプチ不良娘を捕まえる。朔耶は目の下を赤くして、なんだか落ち着かないように見えた。
「ねぇ、充彦くんはどうしてあたしの夢を応援してくれるのかな」
お腹が減ったとうるさいので、客も疎らな夜間営業中のアークグリルに連れ込んだ。朔耶は黙ってついてきた。そして、黙々とパスタを平らげた朔耶は少し機嫌を直して俺にそう聞いてきたんだ。
「友達だからだろ?」
「友達……なんだ」
顔を伏せる朔耶。こうもあからさまだと、さすがに胸が痛む。でも、他にどう言えと。
「前々から言ってるじゃないか」
「あたし、そんなの……嫌、だ」
「え?」
とても朔耶の口から出たとは思えない、低く重い響きの声だった。
「君にはあのコがいるじゃない! あんな美人が!」
「なに言ってるんだよ、お前」
「嫌! もう嫌!」
朔耶が狂ったように叫び出す。
「どうしたんだよ、急に。落ち着けよ!」
俺達以外の唯一の客であった作業服姿のおじさんが、やれやれ、と言った風情でこちらを一瞥し、会計に向かっていった。
「平気なわけ無いじゃない! 君はあのコのことしか見てないじゃない! どうしてあたしなんかに構うのよ! あたし、バカみたい……。酷いよ……これじゃ忘れられないじゃないかぁ……」
こ、こいつは……。バカ、いや。アホだこいつは。初めから言ってるだろ? それにお前にとってもチャンスなんだ。どうしてこれがわからない! お前は入学式の日、いやそれ以前から将来の目標を決めていたじゃないか。なのにどうして血迷った事を言っているんだよ!? 今さら色ボケしてるんじゃねぇよ!
「そうだよ、お前はバカだよ。お前の父さんはチャンスを掴めなくて夢を諦めたんだろ? その夢を託されて好き勝手やらせて貰ってるのがお前だろ!?」
「だからそれがどうしたのよ! あたしには関係ない!」
だから切れるなよ。頭冷やして考えろ、バカ。
「お前はお前の父親の果たせなかった夢を代わりに叶えてやるんだよな? そう決めたんだよな? 俺は何度もそれを聞いたぞ!?」
「そ、そうだけど……」
「だったら! チャンスじゃないか」
「何がよ?」
本当はわかっているんだろ? 朔耶、夢に近づくために、どう動くべきなのかを。だから俺は、敢てそれを口にする。
「父親の掴めなかった、いや、父親の前には恐らく現れもしなかった反則級のチャンスが、事もあろうに向こうから、それもお前の直ぐ目の前に転がり込んできてるんだぞ!? それを掴まないバカがどこに居るんだよ!」
「……でも……」
何を迷う。迷うってどうする。迷う所かよ。
「チャンスを掴んで見せろよ。諦めるなよ。いや、諦める前に、確実なチャンスさえ目に入らないなんてどうかしているぞ、お前」
「充彦くんが、それを言うの……? 酷いよ……」
朔耶がどのような弱音を吐こうと、俺は止めない。他ならぬ朔耶自身と約束したからだ。せめてこの約束だけは守ってみせる。その結果として朔耶は深く傷つくに違いない。でも傷つくことを恐れていては、一歩も前に進めないだろ!?
「お前はメジャーになるんだろ? 俺と一緒に。そうだよな!?」
「うん……なる。なるよ?」
朔耶の夢は大きすぎる。一緒に背負う仲間が必要なんだ。俺達がその仲間になってやる。仲間が無理なら、踏み台にもなってやる。アイツに根回しはした。織姫と悠人も当然巻き込む。朔耶が迷いを断ち切れるように、朔耶の答えを誘導した。今、朔耶の口から不退転の言葉を言わせてみせる。
「そのために頑張るよな? 何があっても」
「うん。頑張るよ。頑張れる。……充彦くんが一緒なら。だから――約束、だよ?」
言った。朔耶が逃げられぬ言葉をついに口にした。俺は今、朔耶からこの返事を引き出したのだ。
「以前、約束しただろ? 忘れるものか」
なによりも大切な、朔耶との約束だから。
無理矢理言わせた約束だ。なにがあっても守る。破ることなどできるものか。
「うん……。あたし諦めない。なにがあっても、諦めないから」
くどいほど念を押すと、ついに朔耶が笑みを漏らした。
よかった。笑ってくれて。
朔耶のその笑顔を見ると、俺は酷いことをしてしまっているような気がしてならない。見れば朔耶の目尻には滴が溜まっている。今にもこぼれ落ちそうなそれに、何故だか胸が疼いた。
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