第29話 四章 二月七日 月曜日

 教室の窓から、ぼんやりと外を眺める。雲一つない澄んだ青空が広がっていた。先週末まで雪を降らせた灰色の厚い雲は、今日の朝方には嘘のように消え去っている。雪雲の名残である白い落とし物も、じきに溶けて天に還るに違いない。俺の背後の席では、朝っぱらから不毛なジャンケン大会が繰り広げられていた。チャイムが鳴り終わった今、ホームルームを行うために、もうじき担任がやってくるはずだった。


「ぎゃはは! 空見、君の負け決定!」

「ちょ、待った! 待てよ朔耶(さくや)ちゃん! 今月は本当に厳しいんだ! お、おい充彦(みつひこ)、お前からもなんとか言ってくれよ、オレとお前は親友だよな!?」

「無駄だよ、空見(そらみ)。充彦くん全然聞いてないし? それに友情なんて金の切れ目が縁の切れ目らしいよ?」

「釈尊はそんな事言ってないって!!」

「だよね、あたしも知らないかな。でも充彦くんはそう言ってたよ?」

「殺生な!?」


 二人の視線を感じなくもないが、今の俺に奴らの相手をするような気力はなかった。


「えー? 仕方ないな~。だったらさ、デコピンでいいよ。ジュースは諦めてあげよう! いつもいつも優しいよね、あたし!」


 いつもの奴が、先週の際どい発言など無かったかのように今日もまた騒々しい。何も聞かされていないのであろう、俺の無二の親友は相変わらずのバカをやっていた。憂鬱なのは俺一人なのかもしれない。誰かに相談しても良かったのだろうが、誰に相談しても結果は同じに思えたのだ。最早何人もこの難問を解決することは不可能に思えた。今はただ、時の審判を待つのみ。俺の罪が一挙に裁かれようとしているのだ。


 そして俺は、その報いを受けるに違いない。俺はその確実に来る未来が恐ろしくてならなかった。これから直ぐにでも始まるであろう末期戦にも似た騒動が容易に予想できるのだ。そしてその開戦理由の大半が俺に絡んだものらしくて。はぁ、どうしよう。俺はどこで間違った? いや、俺はどう立ち回れば良かったのだろう。俺は目も覚めるような美人二人に興味を持ってしまった。そして幸運にも、その二人から深い想いを寄られている。舞い上がらない人間なんていないだろう。どんな人間がこの状況から目を背けずに冷徹に対処できたと? そんな惨いことできるものか。そんな聖人なんていやしない。無理に決まっている。俺は悪くない。悪いわけがないのだ。


 そう。俺が現実逃避をしている間が一番の幸せだったのかも知れない。俺は決断なんてしたくないのに、ついに目を背けていた事実と正面から向かい合わねばならないその時がついに来てしまった。みんなが幸せになる方法……そんなものがあるのなら、誰か教えてくれ。


 廊下が騒がしい。隣の教室の歓声が聞こえ、一瞬で静まりかえる。ああ、ついに来たんだ、その時が。審判の刻が始まる。俺はきつく目を閉じた。無慈悲にも教室の扉が開く音が聞こえる。喉が一気に干上がっていくようだ。唇が乾いてゆく。


 蜂の巣を突いたような騒ぎだった。感嘆の呻きがあちこちから聞こえてくる。


「……美人……嘘みたい」

「な!? 凄ぇ!」


 俺はその騒ぎに、覚悟を決めて目を開けた。教室中が沸騰していた。事前情報と何も変わらない、担任教師ともう一人の人物が教室に入って来ていた。当然の事ながら俺のよく知る人物である。二人はゆっくりと教壇に向かう。担任の後ろを歩く彼女は何を思うのか、静かにその視線を教室内に流していた。


「な、なん……だと?」


 教室の前方に身体を向けていた悠人(ゆうと)が、正面を向いたままの姿勢で固まっている。


「ぎゃはは! なにその顔! 空見(そらみ)ってば変なか、…お……。おおお!?」


 悠人の視線の先を追い、前を振り向いた天河だった。天河から笑みが消える。瞬く間に厳しい顔になって硬直した。


「なに……よ、あれ。冗談……でしょ?」

「早く席に着け! こら、天河! 何度言ったら判るんだお前は。机に座るんじゃない!」


 天河が座っていた机。それは俺が朝一番に担任から言われて急遽自席の後ろに準備した席だった。担任の怒りの声など慣れっ子であるはずの天河であったが、無視するような奴でもなかった。でも、今の出来事はそれなりに衝撃だったのかも知れない。天河は担任の嫌味な指導にもかかわらず、固まったままその場を暫く動かなかったのだ。


 担任は一人の転入生を連れていた。その転入生は――。


「ね、ね! 充彦くんってば。あたし驚いたよ。あのコ、びっくりするぐらいの美人なんだもん。あのコって、実は充彦くんの好みなんじゃないの? 充彦くんって、かなりの面食いだからさ?」


 天河が俺の気も知らず笑えない冗談を言ってくる。それが聞こえたのか、悠人の顔から血の気が引いている。悠人の顔は白どころか青くなっているではないか。今にも泡を吹き出すかも知れない。担任が伴ってきた女生徒は、モデルのように背筋を伸ばし、それでいて肩を怒らせて歩く、どこか斜に構えたコだった。長い睫毛と怜悧な切れ長の瞳を備える、その整いすぎた白い顔が俺の視線を釘付けにしている。何より目を引くものはスラリと後ろに流され、太腿まで届こうかという豊かで艶やかな黒髪だ。


 そうとも。担任の隣に佇む彼女の態度は俺の脳裏に焼き付いたあの時の記憶と寸分違わず、高等部指定のブレザーに身を包んだ姿と落ち着いた漆黒の髪の色だけが記憶と違っていた。充分予想できていたはずなのに、俺の頭の中は今、真っ白になっている……いや。俺は嘘をついた。真っ白になどなるものか。今まさに走馬燈のように巡り行く、俺の記憶の中のアイツはこんな超絶美人じゃなかったよ。その姿はとても俺達と同じ人類とは思えなかった。


「あー、諸星叶望(もろぼし・かなみ)君だ。……自己紹介を頼む」

「……よろしく」


 愛想の欠片もなく、アイツは両手を胸の下で組みつつ、憮然とした表情のままに俺の記憶通りの深みのあるアルトで呟いた。そして胸を反らし、気怠げな視線で教室内を一瞥する。アイツの見せた傲岸不遜な態度に教室がどよめいた。


「……嘘だ、帰ってきた……」

「……あの人、以前ここを退学に……」

「……あ、あれ、まさか血まみれ番長なんじゃ……?」


 その囁き声は、その可能性を必死で否定してきたであろう、アイツの恐るべき過去を知る連中から漏れ出た言葉だった。おもにクラスメイトの三分の一を占める学園で純粋培養されたエスカレーター組の連中だろうか。天河に視線をやると、あのコは目に見えて顔から血の気がなくなっていた。両目を大きく見開き、口をわなわなと震わせている。そして、いつになく真剣な顔をして俺の方を見た。俺は素早く目を逸らす。洒落にもならなかった。とても視線を合わせられない。その後も天河は俺とアイツに交互に視線を送っていたようだ。


 あまりにも簡潔すぎる自己紹介に、担任がもう終わりなのかとアイツを見る。


「……」


 アイツはそれに視線で応じていた。傲慢極まる態度で担任を鋭く睨むアイツは、早く解放しろと言わんばかりに構えている。悠人がわななく両手を天井に挙げるのが見え、次の瞬間には、まるでこの世の終わりでも来たかのように両手の平を顔に当てていた。


「そうだな、君の席は……」

「あの空席だろ?」


 アイツの細くしなやかな指が俺を差す。心臓が止まるかと思った。指差したのは、正確には窓際にある俺の後ろの席らしい。アイツは担任の返事も待たずに俺の方へ滑らかに歩み寄って来る。俺を見て微かに微笑んだアイツ。だが、アイツはその直後に天河を睨み付ける。俺は息を呑んだ。


「おい渡月(わたつき)。お前、学級委員だろう。諸星に後で色々説明してやってくれ」

「は、はい!」


 担任の声に飛び上がるほど驚いた。あろうことか俺の声は裏返っている。俺が跳ねて暴れる心臓を宥めていると、既に俺の目の前までやって来ていたアイツが立ち止まり、身を屈めて俺に耳打ちしてきたではないか。アイツの黒髪がサラサラと流れ落ち、俺を覆った。


「最悪だ。またお前の世話にならなきゃならないなんて。考えただけでゾッとする」


 甘い芳香が俺を包む。記憶を呼び覚ますアイツの香り。頭の芯が痺れ、意識が飛びそうになる。それにアイツの顔が近すぎる。とてもまともに見ることは出来なかった。俺はどこかに旅立とうとする意識をなんとか繋ぎ止め、声を絞り出すことに成功していた。


「仕方ないだろ?」

「ああ、仕方ない。仕方ないよな。特別にお前だけに許可してやる。嬉しいだろ? ま、改めてよろしくな。委員長」


 努めて低くしたとしか思えないアイツのアルトが耳を打つ。こ、怖いだろ、お前。アイツの暖かい息が俺の耳に触れたのだ。アイツの高ぶる温度と裏腹に、俺は激しい寒気に襲われた。何が怖いって、この遣り取りの間中、アイツは俺になんか目もくれずに天河のことを射殺さんばかりの氷点下の視線でずっと睨み付けていたのだ。


 あ、アイツなにも変わってねぇ……。俺の第一印象である。だが、やっと一日の半分が終わっただけだ。まだ午後の授業が待っている。全く油断できない。教室中の視線を感じる。特に右隣と背後からの視線を強烈に感じるよ。果てしなく長く思える今日という日だが、まだ折り返し地点なのだ。だが、この麗しき転入生がクラスの連中から厚遇を受けたのは一瞬の幻に過ぎなかったと断言できる。


 この奇跡の造形を持った新たなクラスメイトの正体を知らずに接触を試みた者の多くが、その剣呑な氷の視線に阻まれて戦意を喪失した。その情け容赦の欠片すら見当たらない攻撃をかいくぐった者も、「うざい」「消えろ」との、訪問者の想像を絶っしたと思われる、アイツの毒舌の数々に自身の言葉を飲み込むことを強いられ、退散を余儀なくされていたのだった。あるものは絶句し、あるものはさめざめと泣いていた。


 そんな事もあり、俺は後ろの席からアイツが俺に囁きかけてきたとき、飛び上がるほどに驚いた。どうしてって、俺は後ろの席を舞台に繰り広げられた、その恐怖体験の片鱗を一つ残らず見ていたわけだから。


「なぁ、委員長」


 アイツのその声は俺の頭を一撃で麻痺させた。匂うほどに甘い声が俺を呼ぶ。恐る恐る、でも期待に胸を弾ませつつ振り向いてその呼びかけに答えると、以前なら夢にまで見た緩みきったアイツの顔があった。今日始めて俺が直視するアイツは、顔をほころばせて俺を迎えてくれた。……まったく、教室のみんなにもその笑顔を見せておけば今のこの空気はないのに。今日が初日なんだ。以前の不良のイメージを払拭する良い機会だったじゃないか、バカな奴。みんなに怖がられてどうするんだよ。


 だが、それももう遅いだろう。アイツの元クラスメイトの口は止められない。かつて中等部で畏怖された美貌の番長が学園に舞い戻って来たのだと、新たな恐怖の片鱗と共に学園中に広まるのも時間の問題だった。


「なんだよ」


 俺の口にした言葉には自分でも意外なほどに不機嫌さが込もっていた。自分でも驚いたほどだ。俺はどうしてこんな言葉しか言えなかったのだろう。俺の態度を不快に思ったのか、アイツの目が細く光った。


「随分と冷たいじゃないか」

「……っ!」


 約一年ぶりに相対するその鋭い目付きに俺は背筋が寒くなる。アイツ、怒ったのか? それとも、ちょっと拗ねただけなのか? それでも、そんな表情を一瞬で消して再び微笑んで見せてくれている。俺の胸が痛みだす。何が邪魔をしているのだろう。俺もアイツに笑みを返せば良いじゃないか。きっとアイツは喜ぶに違いないのに。


「なぁ委員長。私の世話、してくれるんだよな。色々と教えてくれるんじゃなかったのかよ? 担任の奴も言ってただろ? 私、待ってるんだけどな」

「あ……」


 アイツの囁きは信じられないぐらい蕩けた響きを伴って俺の脳髄に直接染みこんできた。とんでもない破壊力だ。俺が大切にしまっておいた、つい最近まで鍵が掛かっていた扉が大きく開け放たれ、あの冬の日の大切な記憶の数々が際限なく溢れ出してゆく。


「良いよ。いつまでも待つ。既に丸一年待ったんだ。お前のお預けには流石に慣れた。お前がその気になるまで待ってやるよ」

「諸星……」


 堪らず名前を呼んでいた。でも、事もあろうに俺は目だけを動かし、俺の右隣の席に腰掛ける天河の様子を窺う。あのコは青い顔で黒板を意味なく凝視しながら、シャープペンの芯を何度も出し入れしている。明らかに落ち着きがなかった。ちらちらとこちらを窺っているようでもある。無関心を装っているのだろうか。だがそれは明らかに失敗しているとしか思えない。とても見ていられなくなり、俺は諸星に視線を戻す。

 アイツは笑っていた。優しい笑顔に見えた。優しすぎる笑顔だった。でもなにかが違っていた。再会してから始めて見る表情。どこか疲れたような、目に力が感じられない形だけの笑顔。その目尻にはうっすらと光るものが見えている。 光るもの……? それって……。


「だからさ、委員長。……いや、お前はお前でいろよ。そのままで良い。……好きにしろ。私は待つからさ……」


 俺がバカだった。諸星は強がっていただけじゃないか。早く気づいてやれよ!


「諸星……お前。お前、今……そんな、……ご、ごめん。俺、そんなつもりじゃ――」


 悪い。俺勘違いしていた。勘違いも良いところだ。一番のバカは俺だ。諸星。お前、それ程傷ついて……。胸が痛いのは俺じゃない。本当に痛いのは、本当に辛い気持ちを抑えているのはなのは、お前なんじゃ――?


「良いんだよ。好きにしろよ」

「諸星。俺、……っ!?」

「待ちなさいよ」


 隣で大きな音がした。天河が立ち上がり、俺達に向き直って来たのだ。


「そこまでよ、諸星叶望さん。人の彼氏に対して随分と好き勝手を言ってくれるじゃない」


 天河は鼻息も荒く、それこそ見た事もないような決意を秘めた厳しい面構えで俺達二人の世界を切り裂き、強引に割り込んできた。天河はしきりに頭を掻いていた。酷くイライラした様子で不快感を隠そうともせず、棘だらけの言葉をアイツに投げる。


 瞬時に消えたアイツの表情に動きがあった。アイツの目尻が釣り上がり、俺の嫌な記憶が蘇る。想い出の奥底にしまっておいた、思い出すのも恐ろしい番長モードのそれだった。


「お、おい、待てよ諸星……朔耶も止めてくれ……」

「黙れ、委員長」

「止めないで。充彦くん」


 とっさの俺の言葉も、両者からの一睨みで封殺される。こうなるってわかってた。でもさ諸星。お前、いつもいつも沸点低すぎるだろ? 天河、俺が何の説明もしなかったのは悪かったよ。悪かったとは思うけど……。嫌な予感しかしない。そしてそれは恐らく的中するはずなのだ。俺の知るままのアイツなら、この天河の敵意に満ちた態度を無視できるわけがない。拙いと思ったけれど、こうなっては俺にはどうしようもない。こんな時だけ予感が当らなくても良いというのに。


「お前もだ。黙れよ、この泥棒猫」


 アイツは天河に向き直り、真っ直ぐにその目を見据えて言い放つ。幼い頃に刻まれた本能的な何かを思い起こさせるほどの低い声に、教室に不自然な静寂が訪れる。


「へぇ? その台詞、そっくりそのままお返しするわ?」


 なんということだろう。さらに恐ろしいことに、天河はアイツの恫喝に全く怯まなかった。各々、昼食の準備を進めていたクラスの皆がこちらをに視線を注ぎ、息を殺して様子を窺っているようだった。誰かが何かを落とした。空気の張り詰めた教室に、その乾いた音がやけに響いた。


「ウザイ奴」

「どっちがよ」


 今、火花が。火花が散ったよな? 俺の気のせいじゃ、無いよな!?


「……気分が悪い。帰る」


 先に視線を反らせたのは、意外にもアイツの方だった。アイツは大きく息を吐きつつ、ぺらぺらに潰れた鞄を手にして教室を出て行こうとする。


「おい、どこに行くんだよ、諸星!」

「帰るんだよ、委員長。気が向いたら明日も来てやるから安心しろ」


 アイツは俺に振り向くと、ひらひらと軽く手を振った。


「待てよ諸星!」

「良いじゃない? 止めなさいよ充彦くん。本人が帰るっ、て言ってるんだから、わざわざ逃げ帰る人を止める必要も無いじゃない」


 アイツの歩みが止まった。振り返ったその顔の恐ろしさに俺は震え上がる。怒りが頂点に来たらしい。もちろん、今までに見たこともない表情だ。その三白眼と修羅の形相はきっと夢に出てくるに違いないと信じられる。


「……んだと!? 誰が逃げるって? ……いい気になるなよ、このガキ!」

「どっちがガキよ! 初対面で幼稚な喧嘩売ってきたのはあんたの方じゃない!」


 今にも取っ組み合いが始まってもおかしくなかった。双方が睨み合ったまま動かない。

 均衡を破ったのは、突如教室に飛び込んできた織姫だった。空気も読まずに派手な音を立て、廊下から一気に俺の足下までまで転がり込んで来たのだ。


「大変! お兄ちゃん、大変なんだってば! 知ってた? お兄ちゃんの大切な愛しのカナミちゃんが日本に戻って来ちゃってるらしいのよ! しかも今朝、この校舎の中で見た人が居るの! 朔耶っちにばれないうちに早く見つけて話をつけないと……大変な……こと、に……。……って、はわわわ、カナミちゃん!? よ、よりによってこのクラスなの!? ええ!? うわ、朔耶っち、そこにいるじゃない!」


 織姫が目を白黒させている。お前、ワザとだろう。ワザとやってるよな。俺は天を仰いだ。ただでさえ白い教室の天井が一段と白く見えた。


「い、いや、これはあのねそのね、そのなんだ。そうだ! ね、ね、あのねカナミちゃん、日本にお帰り! ニューヨークって面白かった? アメリカって美味しいんだよね? ね、ね! 教えて教えてよ! でさ、朔耶っちも色々聞きたいよね! あ、朔耶っちって言うのは、このコ! ど? 可愛いでしょ? これでもドラム叩かせると超巧いいんだよ! すっごく上手なんだ!」


 嫌がる天河の腕を掴み、頬を引きつらせて喋る喋る。織姫の額の汗が光って見えた。力説する織姫にアイツは何を思ったのか、根負けしたように頭を振った。そしてアイツの白々しい舌打ちが教室中に響いた。


「……あのさ」


 重々しく開いたアイツの口から、冷え切った声が漏れた。俺は時間が止まったかと思った。織姫が息を飲む。目を宙に泳がせながら、止めどなく冷や汗を流し続ける織姫にアイツが尖った目を向けたのだ。アイツの目は据わっていた。どう見てもヤバいって! 織姫、やり過ぎだろう。相手は転入初日に、しかも僅か数時間の内に校内の不良を締め上げ、忠誠を誓わせたほどの武勇伝を持つ伝説のヤンキーなんだ。俺は惨劇を予想し、せめて自分が代わりに殴られる覚悟を決め席を蹴る。


「はぁ。まあ落ち着けよ、渡月妹。……それに、お前もだ。委員長」


 俺は耳を疑った。


「え?」

「悪かったよ。熱くなりすぎた。お前……テンカワ……だっけ? お前の言うとおりだ。確かに委員長のダチに取る態度じゃなかった。渡月妹、気を遣わせたな。悪ぃ」


 斜に構えた物言いであったけれど、俺を含めたかつてのアイツを知る者にとっては、奇跡とも言える柔和な態度だった。が……。


「待ちなさいよ! そんな態度で許せるとでも!?」


 初対面の天河に通じるはずもなかった。安心しかけた俺は何かが崩れる音を聞く。


「ちょ、落ち着いて朔耶っち!」

「朔耶ちゃん、お願いだ。ここは引いてやってくれ!」


 今まで知らぬ存ぜぬを決め込んでいた悠人まで、いつしか天河を止めに入っていた。


「もう、なんなのよ、この女!」

「なぁ、渡月妹。ニューヨークじゃなくて、ロサンゼルスな。ま、いいや。腹が減った。何か食わせろよ委員長。担任に言われたよな? 私の世話をしろ、って」

「え、う? ……あ! そ、そうだね! ご飯にしようよ! そうだ、学食、みんなで学食に行こうよ! うん、それが良いよね? ね? ね?」


 織姫の口調はいつもの二倍、いや、三倍は早口だったと思う。


「許すもんですか! もう、充彦くん! 君も何か言ってよ! どっちの味方なのよ!」

「俺!?」

「朔耶ちゃん、朔耶ちゃん!」


 俺の胸倉を掴み上げ、半泣きで詰め寄る天河を悠人が必死になって宥めてくれた。本当に悠人は良い奴だ。


「だからさ。落ち着けよ、お前ら。あ~あ、腹が減った」


 アイツの間の抜けた言葉が耳を打つ。天河はさらに酷い言葉をぶつけていたが、最早アイツは誰の言葉も聞いていないようだった。


 久しぶりの学食。今日は二週に一度のスペシャルメニューが用意されていた。皆の顔も綻んでいる。そう。……このテーブルについた俺達以外の連中の話だ。


「ね、ね、ねね! あの、あのさ、聖鳳の高等部ってスペシャルメニューがあって良いよね! わたし、実は毎月楽しみにしてたんだ! いっつも美味しいし、感激だよ~! ね! お兄ちゃん? お兄ちゃんも、そうで思うでしょ?」

「ああ、確かに美味いよな」


 嘘だ。味なんか感じない。それは織姫だって同じはず。現に俺の正面の席に陣取った織姫の顔はいつになく引きつっている。それに織姫の口調は先ほどよりもさらに加速し、普段の三倍から四倍ほどになっていた。動揺していることは誰の目からも明らかだと思われる。


「どうしてこの女の顔を見ながら食事をしなきゃならないわけ? せっかくのご飯が美味しくも何ともないんだけど! ねぇ、充彦くん?」


 右隣に座る天河の態度は刺々しく、ことあるたびに俺に同意を求めてくる。こんな不機嫌な天河、記憶にあるはずがなかった。……うう、なんと言おう……。なにかフォローを入れるべきだと思うのだが、下手に言葉に出すわけにはいかない。一方のアイツは左隣。アイツはアイツで、挑発ともとれる言葉を何度も繰り返していたのだから。


「ああ、確かに不味い。中等部のメシも散々だったが、高等部も食えたものじゃないな」


 俺は思わず箸を取り落とす。アイツの口から迸ったのが凄まじい毒だったからだ。


「あんたに言ってるんじゃないわよ!」


 天河が箸でアイツを指しながら喚いた。


「ま、まぁ……朔耶ちゃん? 落ち着けよ、な、な? 頼むよ」


 悠人が必死だった。天河の向かいに座り、あの手この手で宥めにかかってくれている。


「ああ、もう! 食べたくない! 要らないから、責任取って充彦くんが代わりに食べてよね!?」


 天河が箸をテーブルに叩き付けて席を立つ。 その天河に投げかけられた、静かで底冷えするアイツの言葉が空気を切り裂いた。


「なんだ。人には好き勝手言っておきながら、結局自分も逃げるのかよ。そっか。私ってその程度の相手に怯えてたのか。がっかりだ。バカバカしい」

「……っ! なんですって!?」

「聞こえなかったのかよ、泥棒猫」

「別に逃げやしないわよ!」


 睨み合う二人に、俺達はもう、アイツらを眺めることしか出来ない。俺は立ち上がるアイツをただ呆然と見ていた。


「な、何よ。何だってのよ……!」

「だったら座れ。お前、まだメシ残ってるだろ?」


 だけど、次の瞬間に俺が耳にしたのは、アイツが口にした意外にも柔らかな言葉だった。


「い、言われなくったって……! あぁもう! ムカツクわね! イライラするったらありゃしない!」


 天河がなんとか席に戻ってくれた。アイツが上手くやってくれたからだ。助かったよ。でも不思議だ。どうしてアイツは毎回自分から折れるんだ?


「あー、諸星。次やってみろ。帰国子女の実力を見せてくれ」


 教室は静かだった。


「諸星。諸星叶望! ……居ないのか?」

「先生、アレ。あの女。窓際の一番後ろの奴。生意気にも転入初日からいびき掻いて寝ている図々しい女が居るじゃん。あの女がそう」


 天河が平たい目でアイツを指さし、数学教諭に指し示す。普段の天河からは想像も出来ない酷い言葉だった。天河の言葉に教室の空気が凍る。それでも類い希なる容姿とあざとい言動で一定の人気を勝ち得ていた天河だ。昼間の口喧嘩を目にしていたとしても、教師に対して放った今の天河の台詞には皆驚いているに違いない。天河は元々バカ枠での人気者の座であったとはいえ、このような言動が続くなら自称学園のアイドルの座も危ういと言えるだろう。


「諸星……起きろ! っ……おい委員長、諸星を起こせ」

「……はい」


 気が進まない。仕方なく起こすことにする。俺が起こさなければこの年若い数学教諭が起しに来るに違いなく、そんな事をアイツが我慢できるはずがないと確信できるからだ。そしてそれは、まず間違いなく大騒動になるはずだ。俺は、アイツの肩に手を当てて、僅かに肩を揺り動かす。う。意外なほど柔らかい……。


「おい、諸星……」

「……ん……あ? あぁ。お前かよ。なんだ、もう放課後か?」


 俺はアイツの漏らした上擦った声に本気で驚いた。アイツは寝惚け眼をごしごしと擦っている。このバカは本気で熟睡していたようだった。


「違う。あの先生に言われて起こした。すまん」

「んぁ?」


 俺が計算式の板書された黒板を指し示すと、アイツは面倒そうに顔を上げ、そして思いっ切り顰めた。


「……アレを私にやれって? お前が答えろよ。めんどくさい」


 アイツはそう言うなり再び机に沈む。おいバカ、声がデカイよ!?


「諸星! お前は!?」


 教師がズカズカとこちらに歩いてくる。教師の気持ちは痛いほどわかる。でも、理解したくない。


「おい、諸星、起きろって!」

「あぁもぅ、うるせぇよ! 左から五、零、一、無限大! これで良いだろ!?」


 アイツは上体を起こしてくれた。だが、その機嫌は酷く悪そうだった。肩にかけた俺の手を乱暴に払いのけると、アイツは本当に面倒そうに叫ぶ。そして答えらしき数字を口にするなり机に三度突っ伏したのだ。アイツは直ぐに静かに寝息を立て始める。教師は目を白黒させて立ち止まっていた。アイツと黒板を交互に見比べている。信じられないことだが、恐らく正解なのだろう。計算していなかった俺にはわからないが、怒りを向ける矛先を無くしたらしい教師の呆けた顔がアイツの解答に間違いが無いことを無言で肯定していると思えた。


 正解、……なのか? まぐれに決まっている。この女は底抜けのバカなのだ。今の解答が気紛れでないはずがない。だけど、四問ともまぐれ当りなど起こせる訳が無いのだ。本当に不思議だった。少なくとも、俺が計算もせずに一目見ただけで答える事が出来る問題では無かったのだから。


 やっと今日の授業が終わった。俺は背後の席を振り返る。アイツは寝息を立てて熟睡しているようだった。腹が膨れて安心したのか、午後からはほぼ睡眠学習を決め込んでいたようだ。当然ながら教師としてもこの時季外れに転入してきた不埒な美貌の女生徒に興味津々だったと言える。興味を示した教師のことごとくとアイツは衝突し、その多くがお互いに不幸な結果となっていた。アイツは速攻で高等部のブラックリストのトップ五位以内にランクインを決めたに違いない。


「充彦くん、この女が例の『メル友ちゃん』なワケ?」


 気づけば俺の隣に天河がやってきていた。机に沈むアイツを見下ろしつつ、静かに言葉を漏らす。


「あ、ええと……うん。ごめん。黙っていて悪かった」

「ねぇ、充彦くん。充彦くんはこの女が転入してくる、って知っていたの?」

「朝一番に担任から聞いてた。ほら、アイツの机、俺が運び込まされたから」


 俺は天河に大嘘をついた。天河ごめん。言えなかった。俺、少し前から知っていたんだ。


「教えて欲しかったな。そんな大事なこと。あたしにも前もって教えていて欲しかった。それに、充彦くんからこの女のこと紹介されてもないし、逆にあたしの事を彼女だって紹介してくれてもいない……」


 天河の顔から次第に表情が消え、気づけば目の輝きが失われつつあった。


「朔耶。彼女、って……。ごめん。俺も気が動転してて……急なことだったし……」


 彼女にした覚えはない、と口に出しそうになって止める。天河の態度が普通ではない。とても言い出せる雰囲気ではなかった。


「……。違うよね、それ。充彦くん、それ違うよ。あたし今日、凄いショックだった。充彦くん、この女のことばかり……。ねぇ、あたしって、充彦くんにとって何なの? 今日、全然あたしの事を見てくれてないよね。あたし、この女の代用品だった? それとも、ただのあたしの勘違いだったとでも言うのかな?」


 平たい声だった。静かな、だけどしっかりとした声で天河は俺を見据えている。俺は息を呑む。天河が怖い。怖かった。天河の目は俺から視線を逸らすことなく、何とも言えない無表情で俺を追い詰めてくる。


「違う、そんな事ないって!」

「違わないよ。充彦くんはあたしで遊んでいたんだよ。そうだよ。あたしの気持ち、気づいていたよね? 知っていたよね……? それを撥ね除けなかったのは、充彦くんなのに……」

「違うだろ? そうじゃないだろ? 朔耶、勝手なこと言うなよ!」


 言ってしまった。俺は何かが壊れそうな気がしてならない。そして口にしたその言葉は自分に驚くほどの大きな声だった。口に出してしまった時にはもう遅い。手遅れも良いところだ。天河の美麗な顔が歪む。天河は間違いなくある種の感情に支配されていっているに違いない。天河は俺を睨みつけたのだ。


「何が違うのよ……。今だってそんな、青い顔をして。充彦くんは、いつその女が起き出さないか心配なくせに。あたしとの話を聞かせないように必死なくせに!!」


 そして、俺は天河の押し殺していた感情を正面から浴びた。天河の言葉の全てが胸に、心に突き刺さってゆく。天河の言い分はもっともだ。だけど、そんなの、あのコが勝手に勘違いしていただけじゃないか。


「朔耶、俺は……!」


 本当にそうだろうか。俺はあのコに本気になりかけていたではないか。本気で遠ざけることをしなかった。天河は何度も俺の気持ちを聞いてきた。しつこいくらいに確認していた。天河だけじゃない。悠人も俺の気持ちを確かめていた。そうだというのに、いつもいつも言葉をはぐらかして来たのは誰なんだ。


 天河は微動だにせず、厳しい目つきで俺を見据えている。口元を引き絞ったまま、ただ真っ直ぐに俺を見ていた。俺が思いつくのは無様な言葉だけだ。思いついては言葉にしない、そんなどうしようもなく意味のない反芻作業を頭の中で繰り返す。そして思いつくまでもない簡単な結論が浮かんだ。認めるしかない。俺は天河が……いや、朔耶のことが。好きに、なっていた、と。まず間違いなくそうなのだろう。朔耶がいない日常など、最早考えることも出来ないし、想像したくもない。


 でもこんなバカな事があって良いのか。俺は何をしているんだろう。朔耶が怒るはずだ。俺は朔耶の顔を改めて見る。言葉を間違えれば直ぐにでも激高しそうな怒りを秘めた鋭い目つきをしていた。朔耶の頭に完全に血が上っていることは明らかで、今のあのコに何を言っても逆効果に違いなかった。俺が遅れに遅れて辿り着いたその結論すらも、口にすることは許されそうにない。


「最低……。いい加減にしてよ。バカにしないで。認めない。絶対にあたしは認めないんだから!」

「朔耶!」


 朔耶の手が上がった。思わず目を瞑る。あれ……? 風が通り過ぎた。いつまで待っても予想された衝撃は来ない。俺が恐る恐る瞼を開けると、俺の頬を目がけて振り抜かれた朔耶の右手が頬に当る直前で寸止めされていた。


「今日はもう帰る。……充彦くんは好きなだけその女といちゃついていれば? 勝手にししてよね。あたし、充彦くんがこの女と何をしようとしまいと、何とも思わないし、想ってないから。あたしはこんなくだらないことで彼氏を縛るような心の狭い女じゃないの」


 俺の頬に振り下ろされるはずだった、細かに震える朔耶の手の平はゆっくりと握られ、朔耶の元に還ってゆく。


「だから、……あたしは絶対に君を許さない。この女を――なにがあっても認めない。でも、君を、信じているから」


 俺は立ち去る朔耶に声も掛けてやれなかった。俺はこの場に固まったまま、自分自身の手の平を左の頬に当て、あのコが教室を出て行く後ろ姿を目で追っていたんだ。


「朔、耶……」



 俺は朔耶が出て行った扉を見つめたまま、時間を忘れて立ち尽くしていた。


「何だよ、人が気持ちよく寝てる前で大きな声だして」


 背後で聞こえたその声に、飛び上がるほど驚いた。でも、声を聞いて俺は何故か安心してしまった。


「悪い。起こしたか?」


 振り向けば、アイツが上体を起こしていた。感情の読みにくい白面がそこにある。やっと起きたらしい。


「良いよ。それよりお前こそ良いのか? お前の彼女、あのコを追いかけなくて。えらく怒っていたじゃないか」


 俺は二度驚いた。まさか、聞かれた? 起きていたのかよ。背筋が凍る。どこまで聞かれていたんだ?


「彼女じゃないんだって!」

「……お前、私に嘘をつくなんて良い度胸だな」


 鋭い眼光が俺を射る。でも、アイツらしくなく、その視線はどこか弱々しい。だから、俺もなんとか言い訳が出来た。


「だから違うんだよ……」

「くどい。見苦しいんだよ。お前が嘘つきだとは知らなかった。お前、最低だな。ほら、行ってこいよ。早く行って追いかけろ」


 でも、そんな言葉遊びをアイツは許さなかった。あいつの口から漏れたのは、あり得ないほど優しい言葉で、耳を疑わずには居られない。


「だから諸星、それは……深くて説明も面倒な理由が……」

「追えよ。あのコはお前の彼女なんだろ? 私なんかと違って、きっとあのコは甘くない。おそらく待ってくれはしないぞ?」


 アイツは何か大きな勘違いをしているに違いないのだ。だから、こんな嫌な優しい笑みを浮かべて俺を追い立てているのだ。


「……っ! 諸星……。お前がそんな顔をしてるのに、お前を置いて行けるわけ無いだろ!?」

「ふざけるな! 勝手に人の顔を見るなよ! 良いからお前は行けよ。グズグズしていると殴り飛ばすぞ!?」


 俺が愛しく想っているのはお前だけのはずなのに。でも、アイツの言うとおり、あのコも俺が大切に想っている一人なのは間違いなくて。でも、今この場を去ることなんて出来るわけがない。そんな事をしてしまったなら、怒って立ち去ったあのコのように、今度は目の前にいるアイツを傷つけてしまうに違いないなかった。なのに、俺は酷い言葉を口にする。


「……いいの、か?」

「早く行きやがれ! ダメだったら慰めてやるよ。判ったら早く私の前から消えろ! 消えてしまえ、この最低男!!」


 俺は躊躇いつつも、アイツの剣幕に押し出されるように急いで朔耶の後を追う。だから、アイツの漏らしたつぶやきなんて、俺に聞こえるはずもない。


「……良いわけ、ないだろ? 気づけよ。渡月のバカぁ……」



 空き教室の並ぶ廊下の端まで追い詰められた織姫が、両手をじたばたと振り回しつつ、毎度意味不明な言葉を喚いていた。


「はわわ、朔耶っち、ストップ! すとっぷ、じゃすと、あ、もーめんと!」

「オリオリ、君もあの女とグルなんだ?」


 織姫を追い詰めた張本人である朔耶は、見えない言葉のナイフで織姫をジワジワと壁に貼り付けていく。

「およよよ!? そんな事ないよ?」

「でも、あたしの味方、ってワケでもないわよね?」

「そ、そんな事ないない! はわわわ、朔耶っちの勘違いだよ!」


 朔耶は織姫に捕まっていた。いや、逆か? 昆虫採集の標本のように、朔耶が織姫を捕まえているのだから。


「君たち兄妹、揃って嘘つきなんだ?」


 冷や汗をダラダラと流していた織姫が、俺を視界の端に捕らえたのか、歓喜の声をあげる。それなりに信頼されているようで嬉しくはあったが、期待に添えるとは到底思えない。それでも俺は、あのコの名前を呼んでいた。


「お兄ちゃん!」

「朔耶!」


 よし、朔耶が帰る前に捕まえることが出来た。偶然とは言え、織姫が良い仕事をしてくれたようだ。後でご褒美を上げるとしよう。


「え……? 充彦くん? ……今さら何しに来たの? 充彦くん。君はあの女と仲良くしていれば良いじゃない。あたしなんか放っておいて」


 朔耶の容赦ない言葉が俺を抉る。


「朔耶。あんな態度取られて、はいそうですか、といくかよ」

「意味わからない。充彦くんはあの女が好きなんでしょ? 知ってたわよ。でも、恋の勝負なら勝てる、って思ってた。で、あたしの勘違いの結果がコレ? ……やってられないわよ」


 全て俺の勘違いということにしたかった。でも、本当にそうなのか? 俺の中にそんな都合の良い迷いがあるから、俺は朔耶を説得する言葉を探し当ててしまう。それは約束という名の緩く甘い罠としか思えないものだった。


「朔耶。俺とお前は約束しただろ? お前のバンドを手伝う。そう約束したよな?」

「約束……? え……? そんな、そんな約束、今更……」


 朔耶の鳶色の瞳が微かに揺れる。その堅い表情から、見る間に険が落ちてゆく。


「俺はお前の夢を叶える手伝いをしたい。この気持ちは本物で、今でもそう思ってるよ」

「充彦くん……」


 ほら。朔耶は揺れた。俺は卑怯だ。だからやっぱり、俺はアイツが言うように最低なんだろうな。


「朔耶。俺は約束は守るよ」

「……。悠人くん、あたしは悠人くんを信じて良いの? あたしが諦めなければ……大丈夫なの?」


 朔耶はきっとわかっている。でも、可能性を信じている、いや、可能性を信じたいだけに違いない。だから俺は、朔耶のそんな気持ちを押してやる。酷いと思った。でも、今言えることなんて、これしかない。


「ああ。大丈夫だ。だから心配するなよ。今日は悪かった」

「……」


 朔耶はその澄んだ目で俺を見詰めてくる。胸が痛い。俺は何をやっているのだろう。俺だって先のことはわからない。だから、嘘はついていない。……酷い詭弁だ。


「朔耶?」

「充彦くん、アレ見て? 窓の外」


 突然、朔耶が窓の外を指差した。


「え?」

「ほら、あの白いの」

「どれだよ」


 それらしき物は何も見当たらない。なんなんだ?


「あの校舎の下辺りだよ」


 言われた通りに視線を落として探すも、なにも見つからない。


「どれだよ――え?」


 振り返ろうとしたときだ。ほろ苦いく甘い香りが俺を包むこむ。 朔耶の両手が俺に伸びていた。手の平が両の頬に触れ、影が俺に覆い被さる。ちょ、ちょっと待て朔耶! とっさに朔耶を引きはがそうとしたが、間に合わなかった。柔らかい感触が唇に触れる。――なんということだろう。やってしまった。ほろ苦くも甘い味……朔耶、何を考えているんだよ……。


「さ、朔耶っち……」

「朔、耶?」


 織姫が固まっていた。その顔は引きつり、明らかに引いている。すっと身を離した朔耶はいつものイタズラ好きな顔に戻っていた。


「あたしの気持ちだよ。ううん? これは罰ゲーム。充彦くんがあたしを泣かせる度に、罰ゲームなんだからね! ゲームだから、ノーカウントで良いよ! とにかくコレで仲直り! 良いよね!?」

「……?」


 元気な朔耶がそこにいた。妙なことを口走り暴走する、いつもの朔耶が。


「気の迷い、無かったことにしろって言ってるの! たまには乙女の頼みも聞いてよね! ね、もう良いじゃない。帰ろう、充彦君? オリオリも駅前にいこうよ、駅前! あたしの機嫌直るまで付き合って? 三人で遊ぼう!」

「なんだよそれ」

「良いから良いから」


 朔耶は笑顔で俺の上着の袖を引く。


「ちょ、朔耶、やめ……ああもう! わかったよ、行くよ! だから引っ張るな」


 織姫の姿が小さくなってゆく。背後で織姫が何か言っていたような気がするが、朔耶のせいでほとんど何も聞こえなかった。


「お兄ちゃん、最っ低。クズ過ぎ。……ホント、何してるのよ。バッカじゃないの? どうして面倒な方を選ぶかな。後で地獄見るよ? ――って、待って待って! 朔耶っち! わたしを置いていくなんて酷い!」


 うるさい。俺は枕元のガラケーに手を伸ばす。着信音が鳴り続けていた。


『委員長、起きてたか?』

『あ、ああ。大丈夫』


 静かなアイツの声が耳に染みた。なんだか落ち着く声だった。


『そっか。寝てたら悪いって思ってた』


 いえ、寝ていました。


『なぁ、――彼女と上手く仲直りできたか?』

『だから、そんなのじゃないって。朔耶が勝手に言ってるだかだから』


 そうに決まっている。そうでなければ、こうしてアイツと平気で会話なんて出来るわけが無いんだ。


『そんな事言うなよ。可哀想だろ? あのコが』

『だから違うって』

『……委員長。この期に及んで私に嘘をつくのはどうしてなんだよ』

『嘘なんかついていないよ。朔耶とは付き合ってない。本当だよ』


 どうして嘘だと思うのか。何故こんなに何度も同じ事を聞かれるんだよ。


『あんなに仲が良いのに? あんな痴話喧嘩するくらいお互いのことを思ってるのに?』

『……』

『なんとか言えよ。どうして黙るんだよ委員長』

『……』

『おい。お前……』


 わかってくれるまで繰り返そう。何度も説明するしかないよ。


『だから、誤解だって。付き合っていないのは本当だよ。俺の気持ちはあの時からずっとお前を向いてるんだ。今日だって、この前だって。お前の姿を見て、声を聞いて、本当に泣きそうだったんだぞ? お前に嘘なんか言えるかよ』

『渡月……。わかった。お前の言うこと、信じるよ。疑ってごめん』

 アイツの声は不満そうな響きを残していたけれど、一応、矛を収めてくれたみたいだ。



 穏やかな時間が過ぎてゆく。胸の傷が少しづつ埋まっていく、そんな暖かさが染み渡る。


『あのコの夢を叶える手伝い?』

『そうだよ。……出来れば、お前にも手伝って欲しいかも』

『――さらっと最低なことを言うんだな、お前は』

『誰かさんによると、俺は最低男らしいからな』


 俺の不用意な言葉にも、こうして淀みなく帰ってくる返事。お互いの毒を包み込む言葉の遣り取りは、どこまで優しかった。


『でも良いよ。お前が最低でも。やろうか。皆でバンドを、さ。私、母さんには才能無いし、今後の見込みもないから、って追い出されたけど、音楽自体は好きなんだ。止めるつもりなんて無い。だから、隣にお前が居てくれると、その……』


 アイツの声を長く聴いていたい。


『約束だったろ?』

『ああ。そうだったな。ごめん。私は約束守れなかった』


 この優しさに満ちた声をずっとずっと聴いていたかった。


『守ったじゃないか。今がその、『迎えに来た』って奴なんだろ? 俺の方こそまだ下手クソで、お前の隣に立てる自信が無いよ。ゴメンな』

『良いよ。お前が傍に居てくれる、って口にしてくれただけで私は嬉しいんだ。例えそれが、ただの出任せで、真っ赤な嘘だったとしてもな――じゃあな。あばよ、委員長』

『え……?』


 だから、唐突なこの幕切れに、俺は凍る。電話は切れていた。かけ直しても、繋がらない。アイツは電源を落としたらしい。この優しい時間は幻だったのだろうか。

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