第28話 四章 一月三十一日 月曜日

 靴が思うように履けない。約束の時間なんてとっくに過ぎている。急がないとダメなのに。これ以上の遅刻はマズい。色々な意味で危険だった。


「お兄ちゃん、こんな時間にどこに行くの?」


 出かけようとした俺は、織姫(おりひめ)に見つかった。青いぶかぶかのロングシャツを着て、実に眠そうな顔をしていた。


「ちょっと出てくる」

「コンビニ? そうなら眠気覚ましにプリン買ってきて?」

「眠気覚ましの意味がわからないけど、わかったよ。帰りに買ってくる。プリンは小さいので良いよな?」

「冗談でしょ! BIGだよ!」

「はいはい」


 寝惚けていたはずの織姫の声が以上にデカイ。どういうことなのだろう。それに、人様に頼んでおいてなんだよその言い草は。言葉にはしていないが、きっと代金は俺持ちなんだろ? うう、考えると頭痛がしてくる。おおっと。それはそうと、先ほどからガラケーが震えていたんだっけ。何度目の着信になるだろうか。


「じゃ、行ってくる」

「プリン、忘れちゃダメだよ!」


 喉のどこから出しているのか謎な織姫の、猫なで声を背中で受けながら、俺はガラケーをポケットから取り出す。画面を見るまでもなくアイツからだった。


『もしもし。ごめん。今、家を出たところ』

『遅い! 遅いぞお前! 今、何してるんだよ!』


 酷い声だった。疲れ、掠れた弱々しい声。ああ、アイツめ、今度は何をしでかしたのだろうか。またとてつもなくバカな事をやっているに違いないと思えた。


『悪い、今どこだ?』

『待ってるんだぞ!? 昨日の公園だよ。寒い。早く来いよ。お前、私をこんな目に遭わせて嬉しいのかよ』


 それは俺が悪いのか? 俺のせいなのかよ。そうではないと……思いたい。寒いならどこか建物に入るか、待ち合わせ場所を変えたら良いのに。どうしてその場所でないといけないんだか。意味がわからなかった。



 寒かった。折からの雪で一面の銀世界だ。夜空は分厚い雲に覆われているのだろう。星の明かりなど全く見えなかった。街灯に照らされた寒々とした白い公園に、他に人影など全くない。寒さに震えて立ち尽くしていた、一目で高級品だとわかる赤いコートを羽織ったアイツはその長い黒髪と、突き抜けそうな白い肌のせいで伝説に云う雪女に見えないこともない。さらに見るものに原始的な恐怖すら感じさせる、彫刻のような美貌も相まって、この世のものではないような幻想的な儚さすら見せていたのだ。


「あちっ! お前、私を火傷させる気か!?」

「慌てるなよ、バカ」


 近くのショッピングモールから微かに聞こえてくる、『夜明けをみつめて』と名打たれた往年の名曲が余計に寒さを募らせる。冷たいベンチに浅く腰掛け、席を温めていたアイツは俺が近くの自販機で買ってやった缶を差し出すなり、早々に奪い取ってくれた。缶から紅茶を一口含んだアイツの口から漏れ出たのは、労いでも感謝の言葉でもなく、俺が先ほどから感じていた俺の感動を今この瞬間もぶち壊し続ける言葉の暴力だった。


「まずい……。お前、まず過ぎんだろコレ! 人間の飲み物ってレベルじゃないぞ!?」

「文句があるなら返せよ!?」

「いや、ダメだ。こんな物でもお前から始めて貰った物なんだ。はいそうですか、って簡単に返せるわけがないだろ?」


 アイツがその整いすぎた白い顔で俺を真っ直ぐに見つめてきた。怒ろうとして気が抜ける。こんな奴にそんな事言われたら、怒りどころか命の炎が消し飛んでしまうというものだ。


「お前、こんな時間に出歩いて大丈夫なのか? 家の人、心配してるんじゃ?」

「こっちでも一人暮らしだよ。今の家には誰も居ないって」

「嘘だろ? お前が? 一人暮らし……だと!?」


 にわかには信じられない話だった。一人暮らしなど無理に思える。


「なんだよそれ。それにお前のその眼はどういう意味だよ」

「掃除に洗濯、それに食事はどうしてるんだよ。家政婦さんでも雇っているのか?」

「失礼な奴だな。全部私が一人でやっているに決まっているだろ!?」

「ああ、わかったぞ? 食事は全部外食で済ませて、服は一回きりしか着ずに捨てて新しい服を買うか、それが出来ないものはクリーニングなんだろ。違うか?」

「お、お前、委員長……。私を一体なんだと……」

「え……? ま、まさか……まさかとは思うがホテル暮らし……!? 食堂に食事を取りに行くのも、それどころかクリーニングに服を出すのすら面倒だとか言い出すんじゃ……」

「テメェ……。もう良い。急にお前の顔が見たくなくなった。今日はお前、もう帰れ! 帰れよ!?」


 自分から呼びつけておいてコレだ。全く何なのか。


「……意味わかんねぇ」


「私が自炊して悪いかよ! さっきから人が黙って聞いていれば、お前は私に喧嘩売ってるのか!?」

 いや、お前。黙ってないし。


 アイツが良くわからない理由で俺に泣きついてきたのは週の初めの三日だけだった。その度に、これまた意味不明な理由で追い返されている。何が何だかわからなかったが、週末最後のメールにはこうあった。今年一番の大雪で身動きの取れなかった日のことである。


『聖鳳の高等部への編入、やっと理事長がOK出してくれた。お前のクラスに入れてくれるように頼んでおいたから、来週からよろしくな』


 アイツが学園にやってくる。――きっと天河とも顔を合わせることになるだろう。運命の日と言える。その俺の断罪の日は明日に迫っていた。

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