第24話 三章 九月五日 日曜日

 今日の学園祭のステージも約束通り天河が取ってきた。いや、そういうことになっている。天河との間で学園祭の実行委員と裏取引があったらしい。俺はこの件について天河の後始末に色々と関係各所を駆け回り、頭を下げまくったのだけれど、関係者御一同の今後の幸せと俺自身の精神衛生上、俺は何も見ていないし聞いていない。そう、ご先祖様に胸を張って誓うことができる。




 肝心のその貴重なステージで俺達は頑張った。この上ないくらい充実していた時間だったと思う。ただ欲を言うならば、やっぱり何となく物足りなかった。アイツのギターを聞く前ならこれで満足してたのかも知れない。でも織姫の優しいギターと歌ではどこか力不足だった。悠人のキーボードにも、もっとギターが絡みあったはずだ。アイツのギターは天河のドラムをグイグイと引っ張って、何より俺のベースを余裕で踏み台にしてくれていたに違いないのだ。




 そう。今日のステージのような、ありきたりの出来じゃ物足りない。




 あんなものは俺が望んだ音楽ではない。アイツの望む音とも思えない。そうとも。この程度の出来ではアイツに会わせる顔がない……。って、天河? どこに行ったんだ? これから俺の家で軽い打ち上げを予定しているのに。あのバカ、ちょっとくらいステージで失敗したからって、今さら何を気にしているんだ? ドラムソロを外したくらいで、あんなに凹むことは無いのに。まさかと思うけど、一人いじけているんじゃないだろうな……。ステージが終わったのでテンションが下がりまくり? 冗談としか思えない。お前らしくないって。




 一日賑わっていた学園祭の空気も、夕暮れと共に落ち着いてきていた。俺も昂ぶっていた気持ちが冷め始めたのだろうか。急に腹が減った。いい加減、あのコを早く見つけ出して俺も悠人達と合流したい。天河の奴、何を考えているのか、メールも電話も出ないのだ。一体何をしてるのだろうか、あのバカは。




 学園祭の喧噪も去り、静かになった教室を覗いた時だ。いた。こんなとこに居たよ。もうずいぶんと探し歩いた。誰も居ない教室で、一人窓の外を眺めているようだった。なにも教室の隅で膝を抱えていなくても……。窓際のその席は俺のだろ? お前の席は右隣。本当に何をしているんだか。バカだよな。




「おいおい、何してるんだよ。探したんだぞ? スマホ、手元にないのか? 何度も連絡したのに」


「……ごめん。あたし、返事する勇気が無かった」




 振り向いた天河の顔は冗談のような無表情だった。何をやっているんだよ、天河。力なく椅子に膝を抱えて座り込むその姿を見た瞬間、俺は溜息しか出なかった。




「元気出せよ天河。お前、そんなに酷かったか? 誰だって緊張するよ。気にするなって」


「でも、でも、あたしのせいでみんなのステージが台無しに……」




 とは言うもの。正直俺は、今日のステージは失敗で、その原因の全てが天河にあったと断言できる。学園祭の出し物としては上出来だ。だけど本来の目的である『天河のバンド』のデビューとしては大失敗だろう。本人が上がりまくってソロを失敗したのだから。……とは、こんなに落ち込んでいる本人に向かって言えないよな。言えるわけがない。俺の迷いを知って知らずか、再び顔を伏せた天河は俺の顔を見ようともしなかった。俺は天井を仰ぐ。仕方ない。励ますか。俺は天河のバンドのリーダーなのだから。全く、世話の焼ける奴。




「お前、プロになりたいんだよな? だったら、アマチュア時代の一回や二回の失敗で凹んでいてどうするんだよ」


「でも、でも、あたし。ステージの上にたった途端、あたし怖くて、頭真っ白になって。何にも考えられなくて、何も聞こえなくて……」




 朝方のステージを思い出したのだろう。天河の小さな身体が震えていた。いつもの図々しさの欠片もない。リハーサルの時はそんな姿を見せもしなかったのに、今日の本番で見せた天河の演奏は確かに聞けたものではなかった。




「あぁ、もう! お前一人でステージに立ったわけじゃないんだ。皆が一緒なんだから、皆を信頼しなきゃ。俺じゃダメだったか? 悠人じゃ頼りないか? 織姫の歌、嫌でも聞こえていただろ? バンドとして曲目は全部消化できただろ? なんとかフォローできていたじゃないか。不満なのかよ」




 充分にフォローができていたと思いたい。だけどそう思いたくとも、アレは酷すぎた。結果は謙虚に受け止めるべきだろう。天河は確かに自分自身に負けた。そしてその後失敗を引きずって、結果的に皆に迷惑をかけたのだ。でも、今は本当のことを言って追い詰めるわけには……いかないよな……。天河は肝心なときに弱いから、泣き出すどころじゃ済まないに決まっている。また過呼吸でもおこされでもした日には、きっと大変なことになるだろう。




「そうだけど、そうだけど……」


「なぁ天河。俺はそんなにも信頼されていなかったのか? 自分を見失ったら俺の音を追う約束だったろ? 俺じゃ、俺達じゃダメだったのかよ。」


「そんな事ないよ。そんな事ないけど、でも、でも……あたしが委員長君を頼ったらダメじゃない? 委員長君はだって……」




 天河が身体を震わせている。おいおい、ステージの上ではリーダーの俺を頼るって約束だったじゃないか。なに言っているんだよ、天河。




「なに言ってるんだ、お前。俺をリーダーに推したのは、他ならぬお前だろ」


「そんなの関係ない! あたし知ってるよ? 委員長君は、メル友ちゃんのものなんだよね? メル友ちゃんと遠距離、ずっとしてるよね? だから、……だから、あたしが委員長君を頼ったりしたら……好きになったりしたらダメなんだよぅ……」


「え……?」




 天河の強い言葉が俺の胸を打つ。やっと顔を上げてくれたと思ったら、今度はいきなり何を言いだすんだ。もしかして天河の奴……ま、まさかな。気のせいか天河の目尻が光って見えた。俺はその先を敢て考えないでおくことにする。




「あたし、苦しいよ。きついんだよ。委員長君の優しさがとても痛いんだよ。飛び込んで行けないのが苦しいよ!」


「天河……」




 でも、天河は容赦なくその先を口にする。こんなのって、嘘だ。そんなはずはない。そんなはずが、ないんだ。




「だから、あたしにこんな優しくしないでよ! 勘違いしちゃうじゃないかぁ!!」




 何を言ってるんだよ天河は。それこそ勘違いも良いところだ。そんな態度、俺はお前に取っていない……。取った事なんて、ないはずだ。




「天河、お前……」


「もういい! 放っておいてよ! あたしなに言ってるんだろ。あたしとても変なこと言ってる。今の全部ウソ。ウソなんだから、忘れて? 忘れてよ! 明日になればいつものあたしだから。変なこと言わないいつものあたし。だから、今日は放っておいて!」




 天河が俺に見せた初めての強い拒絶だった。なのに俺は何をしているんだろう。どうしてこんなことしてしまうんだろう。気づけば、俺は天河の手を取っていた。毎日練習を繰り返しているに違いない、思った以上に堅い手だった。




「来いよ、天河。打ち上げするぞ。悠人と織姫が待ってる。行くぞ?」


「……っ! 嫌! 行かない! 絶対嫌! 合わせる顔なんてない!」




 あのコは首が千切れ飛ぶのではないかとばかりに横に振る。本当に強情な奴。子供っぽいと言うか、ワガママ放題とと言うか。だったら理由を作ってやるか。そうしよう。




「うるせえよ! だったら二人で反省会するぞ! 来いよ!」


「……え? 二人……?」




 天河がピタリと動きを止めた。息を呑む声が聞こえる。俺を上目使いに見上げてきた。実に酷い顔だった。目が腫れていた。もしかすると俺が探しに来るまで、教室でずっと泣いていたのかも知れない。ああ、このコ、やはり見た目なんかよりもずっとずっと弱いんだ。




「立てよ。二人で反省会だ。……それなら良いだろ?」


「で、でも、でも委員長君にはメル友ちゃんが……」


「お前のバンドの反省会なんだ。俺はそのメンバーで、その上リーダーまで務めているんだろ? メンバーが沈んでいてヤル気を無くしているのなら、励まさなきゃダメだろう。アイツだってうるさいことは言うものか。気にするなよ」




 俺は天河の手を取ったまま、教室から連れ出した。今日はとりあえずアイツのことは忘れよう。仕方ない、仕方ないよな。




 とは言うもの、アイツには軽くメールしておいた。待ち構えていたかのように直ぐに返事が来る。向こうは深夜のはずなのに。




『反省会、二人で反省会。お前なめてんのか、死ぬのか、ぶち殺すぞ。私にそんな事聞くな! でも、まぁ答えてやるよ。お前、その女を食事にでも適当に誘って街連れ歩けよ。歩き疲れるぐらい連れ回せ。そのうちどうでも良くなって、勝手に安心して機嫌直るだろ』


『ありがとう』




 身を裂く思いと共に、俺の心からの想いに違いない言葉を送信する。でも、これほどの嘘はないと思えた。




『死んでしまえ。この最低男。この貸しはデカイからな。私を不安にさせてそんなに嬉しいかよ。お前なんか嫌いだ! でも、信用してやるよ』


「ごめん、諸星……」




 気づけば俺はメールの文字に向けて心の中で何度も何度も謝っていた。何故だか、謝り続けなければいけない気がしたのだ。




 ◇ ◇ ◇




 裏門から学園を後にし、大川の堤防を登る。月明かりが遥か対岸に聳える城跡の二層櫓を照らし出し、足下に広がる河川敷の向こうに、ゆったりと流れ行く穏やかな川面が月の光に煌いていた。




「座ろうか」




 俺が堤防の縁に腰を下ろすと、天河も無言で膝を抱えてそれに倣う。先ほどまで散々ごねていた天河だったが、今はただの一言も言葉を発しない。その顔に表情と呼べるものは覗えず、今では嘘のように静かになっていた。さて、これからどうしようか、と満天に広がる星空を見上げたとき、俺の型遅れのガラケーが震えた。




『お前、今どこだよ! こっちは大変なんだよ! 何してんだよ!』




 耳に当てるなり、ガラケーから悠人の焦った声が聞こえてくる。




「悪い、さっき天河見つけてさ。ちょうど今、学校の裏門を今出たところだ」




 天河の肩が小さく震えた。




『なにぃ!? あのコ泣いてたよな!? 大丈夫なのか? オレじゃ手に終えないんで放置してたら、いつの間にかいなくなってて』


「ああ、大丈夫だよ。もうピーピー泣いてない」




 おいおい、悠人、お前は天河がどういうことになっているのか知っていて、それでもあのコを置いて逃げていたのか……なにげに酷い奴だ。




『どんな手品使ったんだよ! やっぱりオレじゃだめだったということか!?』


「知らねぇよ! そんなこと本人に聞け!」


『はいーはい。充彦、お前オレより坊主に向いてるよ。……で、お前ら早く帰って来いよ。待たせるなって。織姫ちゃん、角生えてるんだからな!?』




 ……ああ、織姫な、織姫。それはもちろん、散々悪態をついているに違いない。




「悪かったよ。織姫の相手させて。大変だったろ?」


『織姫ちゃんよりも、むしろお前の親父さんに絡まれて大変なんだけど!』


「え? 父さんの相手のほうが大変だ? ……そんなの知るかよ」




 悠人、ウチの父さんに気に入られて可愛がって貰ってるだけなんじゃないのか? ちょっと愛情表現が激しいかも知れない。でも、そんなのウチに来たならいつものことじゃないか。




『充彦、お前なぁ……まあいいや。で、お前らもこっちに来るんだよな!?』




 俺は隣に腰を下ろし、小さく身体を丸めている天河の姿を見る。月明かりに照らされたその姿はあまりにも儚く見えた。こんなの、皆が知っている元気いっぱいな天河とはほど遠い。




「いや、天河をもうちょっと落ち着かせないと……」


『お、お前……!?』


「ごめん」


『ああ、もう! 好きにしろよ! お前、責任もって朔耶ちゃんは家まで送っていけよ!? それとな、これは親友としての忠告だ。後で地獄見たくなければ、朔耶ちゃんとは一線引いておけよ?』


「どっちも心配いらないから! 大丈夫だって」




 悠人の一言に一瞬息が詰まる。アイツの不機嫌極まりない顔がよぎった。……ったく、悠人の奴、要らぬ心配をしやがって。




『ち、信用ならねぇな……。まあいいや。終わったら電話しろ! 必ずだぞ?』


「え? ああ、電話する。黙れよ、お前こそ起きてろよ!? 寝るんじゃねぇぞ!」


 全く。アイツにも釘を刺されたんだ。間違いなんて起こすかよ。余計なお世話だバカ。俺は通話を切った。




 見上げる夜空一杯に、星が瞬いていた。




「悪ぃ、悠人のやつ、つまらないこと次々言いやがって。なかなか切れなかった」


「うん、大丈夫」




 天河は力なく頷く。




「うん」


「そんなことより見てよ。……星が綺麗だね……」


「ああ」




 誰かさんのせいで、辺りはすっかり暗かった。確かあの日も、誰かさんのせいで星空を見上げる事になったっけ。




「ねぇ、覚えてる?」


「ああ」


「あの日も、綺麗だったよね……」


「ああ。そうだな」




 林間学校でのスタンプラリー。あの時も天河が元凶だった。まさかコイツ、今日もわざと逃げて……いや、考えすぎだ。そんな事があるものか。




「委員長君、あたしを泣かせちゃったね」


「え?」


「あたしは天の川だからさ。だから、あたしを泣かせちゃダメだって言ったのに。 彦星は好きな人と逢えなくなるんだぞ? あたしが足止めしちゃうんだから」


「な、なに言ってるんだよ」




 そういえば、あの日の天河がそんな話をしていたような。七夕の話。一年に一度の出会いの日の話。いや、確か天河はその時もアイツの話を持ち出して。でも、どうしてそんな話をするんだお前。勝手に泣いていお前で、俺のせいじゃない。お前が今日の本番のステージで自爆したんだ。そこを間違えるなよ。




 俺が星空から視線を外し、天河に目を向けると、天河も真っ直ぐ俺を見ていた。今にも目尻から涙がこぼれ落ちそうな、何かを必死に我慢しているに違いない顔。止めてくれ、天河。そんな目で見るなよ。頼むから止めろ。




 俺は溜息をつき、首を横に振る。でも。――わかってる。気づきたくないだけ。天河の想いなんて、俺はずっと前から気づいてる。わかりたくない、目を閉じて気づかないふりをしているだけ――。




「ねぇ、川を渡れなかった彦星の気持ちは……ううん? 渡らなかった彼の気持ちは、どこにあるのかな……」


「そ、そんなこと……」




 だめだ。考えるな俺。でも俺がそう思えば思うほど、頭の後ろに痛みを感じ始めていた。




「ねえ、委員長君――充彦くんの気持ちは、今どこを向いているの?」




 天河は俺から視線を外さない。それどころか、今日の天河はいつも以上に容赦がなかった。




「俺の、気持ち……」




 俺の気持ちはアイツを向いているはずだ。アイツの方を向いていなきゃいけないんだ。そうであるべきなんだ。




「俺は……」




 言いかけた、その時だった。




「ねぇ、あたしは充彦くんを頼って良いの?」




 天河の言葉が胸を抉る。濡れた瞳が俺を映している。天河の鳶色である瞳は今、星の色を映して俺を真っ直ぐに見据えていた。天河は俺を信じている。恐らくそうだ。この瞳を裏切れない。でも、俺はアイツを裏切るわけにはいかないんだ。天河の気持ちは――受け入れられない。言う、べきだ。告げてやらなきゃダメだと思う。




「俺はアイツを――裏切れない。ごめん。ダメ、なんだ」




 言った。言ってしまった。天河が目を見開いている。震える瞳が瞬く間に大きく揺らぐ。




「……っ! そんな、そんな! だって、だって充彦くん、あたしと同じバンドでベースが弾きたいって言ったよ! あたしのバンドでリーダーやってくれるって言ったよ! あたしの夢、叶えてくれるって、言った! 言ったよ!? あたし信じてた、の、に……」




 鳶色の瞳からついに涙があふれて零れる。それは留まるところを知らず、次から次に流れ落ちていた。俺は目を逸らす。とても見ていられない。それに、とっても胸が痛いんだ。でも、どうにもならないよ。ここまでだ。天河の期待には応えられない。――天河の期待? どうしてやることもできない? いや、そうだ。今の俺に天河の気持ちは受け入れられない。どうあってもそうだ。でも、今の天河の望みなら? メジャーになりたいという、天河の願望だったら。俺が天河の夢を手助けすることが出来るはずだ。もし、もしもだけど、それならば天河は――?




「なぁ、天河。俺はお前の夢を叶えたい。この気持ちに嘘はないよ」




 それは、虫が良すぎる提案だった。でも、天河は俺に顔を向けてくれた。




「あたしの、……夢? 充彦、……くん?」


「お前と一緒にメジャーになる。お前がステージでしくじらないように、リーダーとして支えてみせる。約束するよ。だからお前も途中で諦めるな」




 天河はゆっくりと。そして何度も頷く。




「うん。うんうん。今はそれで良い、それで良いよ! あたしも約束する。絶対に諦めないから。諦めない。何もかも、なんでも頑張る。あたし諦めないからね!」




 涙を流したままの堅い笑顔が俺に向けられている。でもそれは、俺がよく知る天河の笑みだった。これで良い。これで良いんだと言い聞かせる。今の俺にはそう思えた。




 ◇ ◇ ◇




 身を包む暖かい光の感触に俺は飛び起きた。気づけばここは自分の部屋だった。天河をタクシーに押し込んで家路についた。家では父さんから悠人を救出した。織姫の罵詈雑言から解放されるまで数時間。力尽きた俺はそのまま寝台に倒れ込んで……。




 今何時だよ!? 俺は息を呑む。アイツから何度も着信があったようなのだ。俺が着信に気づいたのは、なんと学園祭翌日の昼下がりに入ってからのことだった。電話は二時間おきに掛かっており、次第に間隔が短くなって最後の十一時の着信の前は十分程しか間が開いていなかった。留守番電話にメッセージが一件だけ入っていた。恐る恐る、聞いてみる。




『バカ! お前なんか嫌いだ! もうお前なんか知らない! 死ね、死んでしまえ! お前なんか絶対、絶対忘れてやるんだ!!』




 その甲高い声を聞いた瞬間、俺は何も考えられなくなった。電話を持つ手がどうしようもなく震える。俺はガラケーを耳に当てたまま固まっていたそうだ。呆れ顔をした織姫が、いっこうに部屋から出てこない俺の様子を見に部屋に入って来るまで、俺はそうしていたらしい。




 気づけば外はすっかり暗くなっていた。こんな夜になるまで俺は一体何をしていたのだろうか。そうだ、俺は事が無事に済んだことをアイツにメールし忘れていた。せめて、連絡を入れておくべきだった。そして最悪なことに、直ぐにでも折り返しの電話をするべきだったのだ。




「お兄ちゃん、なにしてるの? 晩ご飯も食べないわけ? そ。わたしの作ったご飯が食べれないんだ。きっとお兄ちゃんはわたしが嫌いになったんだね」




 織姫の声がいつになく冷たく聞こえた。気のせいか、母さんの声に似ていた。




『ごめん。俺が悪かった』




 一人で済ます食事の後でアイツにそう打っておいた。一週間謝罪のメールを毎朝打ち続け、ついにアイツが折れて返事をくれたメールを読んだとき、俺は織姫が目の前にいたというのに涙を止めることが出来なかった。




『バカ。私があの日の約束を破るわけがないだろ? 忘れられるかよ。ホント、バカだな。お前。呆れるよ』

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