第15話 二章 四月二十日 火曜日
俺達、新入生には試練がある。それが今日から始まる林間学校だ。俺達新入生を乗せた大型貸し切りバスは、先ほどから霧深くグネグネと曲がりくねった山道を登っている。この先に林間学校の舞台となる国民宿舎があるらしい。
バスの車内はカラオケ大会になっていたが、俺には関係ないと断言できる。俺は忙しい。やるべき事があるのだ。俺の隣の席で俺と一緒に山道に揺れている悠人と言えば、先ほどからシャープペンをノートに走らせる俺を呆れたまなざしで生暖かく見守ってくれている。
「おい、充彦。お前さっきから何やってるんだよ」
「歌詞を考えてるんだ」
「はぁ? また酔狂なことを。考えたところで、どうするんだ?」
鈍い奴だな、悠人。曲を付けるに決まっているだろ?
「アイツに曲をつけて貰うんだ。アイツのセンスは最高だ。作曲も余裕でこなすし」
「アイツ?」
「うん。俺が詩を書いたら曲を作ってくれるって、アイツ約束してくれた。もう二週間くらい待たせてるんだ。早く送れって言うから、アイツ待ってるから。俺さ、早く考えてやらないといけないんだ」
「……お前、充彦、アイツってまさか……」
「え? アイツはアイツに決まってるだろ?」
そう。早く諸星の奴に送ってやらないと。待っているに違いないんだ。
「ま、まさか未だにアイツと連絡取り合ってるのかよ。信じられねえ」
「悪いかよ」
悠人が酷いことを言っている。良いじゃないか、別に。
「まあ、止めるようなことはしないけどよ。お前、アイツのどこが良いんだよ? 乱暴で、我が儘で、横暴で、自分勝手で。人の話は聞かないし、根暗だし……確かに美人過ぎるぐらい美人だったけど、性格も性根も最悪のヤンキー女だったじゃん」
「良いじゃないか別に。それにアイツ、そこまで酷くなかったよ。……可愛かったんだ」
悠人の容赦ない物言いに、少しだけ腹が立った。自分の声の大きさに驚いた。
「は? ……アイツのどこをどう見るとそんな感想になるんだよ!?」
「どこ、って……」
言いづらい。さすがに恥ずかしい。
「ちょっとお前、メール見せろよ。お前ら、どんな遣り取りしてるんだよ」
「ちょっと、悠人! こら、止めろ!」
悠人が俺の型遅れのガラケーを手にしようとする。俺が意地でもそれを取られまいと、ガラケーを掴む右手を頭の上に上げたとき――。
「いただき!」
そんな陽気な声が聞こえたかと思うと、後ろの席の誰かさんが俺の手からガラケーを奪っていた。
「ぎゃはは! 君らの天使、輝ける愛の使徒朔耶ちゃん参上! 今からこの朔耶ちゃんが委員長君の秘密を暴いてやるのだー!」
栗色の髪が派手に跳ねる。
「ちょ、返せよ天河!」
「今明かされる新事実! さぁ、ご開帳の時間だよー!」
取り戻さないと! 飛びかかろうとして、ちょうどバスはカーブに入る。俺は大きくバランスを崩した。無情にも、その隙をついて、器用にも天河が俺のガラケーを操作したらしく……あれ? 天河が固まった。
「……って、何これ。Re:ばかり……。しかも、同じ相手ばっか……えーと、委員長君の意中のお相手のお名前は……」
「お、おい! 勝手に見るなよ!」
酷いよこいつ!? 声に出すな! 説明するな! せめて黙ってろ! 俺は天河の手からガラケーを取りもどそうと、必死に手を伸ばしたのだが、無情にも空振っていた。
「朔耶ちゃん!」
そう叫んで俺のガラケーを持つ天河の両手首を掴んでくれたのは悠人だった。
「い、痛っ、離して!」
「朔耶ちゃん、すまん。そこまでにしてやってくれ。それ以上、見ないでやってくれないか」
「痛い、痛いって!」
悠人は本気に見えた。手首を捕まれた天河が顔を顰めて大きく身を捩っている。
「頼むよ朔耶ちゃん。充彦の奴は、こう見えてもガラスのハートでさ。あとで凄く傷つくと思うんだ。そして君のことも、きっと許せなくなるに違いない。オレはそんなのどっちも見たくないんだ」
天河が激しく首を振る。
「わかった、判ったから、見ないからその手を離してよ空見! ホントに痛いんだって!」
「わ、悪ぃ」
悠人が手を離すと、そこは手の形にくっきりと赤くなっていた。天河が捕まれていた手首を何度もさすりながらも、俺のガラケーを投げるように返してくれた。
良かったよ。天河には悪いけど、本当に良かった。アイツのことは他の誰にも邪魔されたくないから。
「ほら、委員長君。返したから許してよ。悪かったって。委員長君、空見は良い友達じゃない。あたしもこんな親友欲しいよ」
伏し目がちに俺を覗き込みながら、そう漏らす天河の顔は気のせいか少し陰って見えた。
「朔耶ちゃん……」
悠人も何か思うところがあったのか、天河を気遣うような視線を投げている。だけど天河にはそんな心配は無用らしい。立ち直りの早い奴。悪戯っぽく笑い返した天河は直ぐにまたとんでもない事を言い出した。
「空見、あんた後であたしにお詫びにジュース奢ってくれるんだよね?」
「わーったよ。それで貸しはチャラ、良いか?」
「OKOK。そいじゃ、楽しみにしてるよ!」
天河はそう言い捨てると、今度は車内カラオケのコード表の争奪戦に身を投じて行った。
「ありがとう、悠人。助かった。やっぱり持つべきものは友達だよな」
「はいーはい。それにしてもさ。さっきから道理でお前、ニヤニヤしてメールばかり打っていると思ったよ。充彦、お前はオレが思った以上に本気だったんだな、アイツのこと」
「過去形じゃない」
知っているだろ? 本気なんだよ!
「……はぁ。ま、いいさ。だけどさ……」
「なんだよ」
俺が悠人に詰め寄ると、悠人が両手を挙げて身を引いた。
「良いよ! 良いって。気にすんな! そうだ。歌詞が出来たら教えろよ。オレにも見せろ、ダメ出ししてやる」
「おう、今から頼んでおくことにするよ、ありがとな」
「だから良いって!」
悠人が急に顔を背ける。悠人って良い奴だよな、本当に。だが、俺が本人にこれを口にする事は一生ないとも思えた。
ふと、窓を見る。山道を覆う霧は先ほどより深くなっているようだった。耳に馴染んだ曲が聞こえてくる。……え? それはあの曲だった。聞き間違えるわけが無い。イントロが流れ始めるとともに、俺はマイクの場所を探していた。
いったい誰がこの曲を入れたのだろう。背後の席で気配がする。俺は振り返った。栗色の髪が目に入る。あのコが目を輝かせてマイクを握りしめていた。
「はいはーい! 今からあたし、朔耶ちゃんが歌いまーす! お気に入りの十八番、ちょっと古いけど諸星由美子で『夜空を君と』!」
天河の奴、決して歌い方は派手じゃない。アイツのように圧倒的な何かが見えたわけでもなく、周囲を引きずり込む何かがあるわけでもない。かといって、織姫のように透明感のある歌声で世界を優しく覆うわけでもなかった。それでも俺は、天河から目を逸らすことが出来ない。
耳を打つ心地よい天河のしっかりとした歌声は、聴き惚れるに相応しい力強さと深さがあった。それになにより楽しそうに歌っているのが手に取るようにわかる。
そう、それこそあの音楽室でのアイツのように、今の天河は俺と出会ってから今までの中で一番輝いて見えた。
◇ ◇ ◇
見渡す限りに植林された杉と檜に囲まれる、若草色の鉄筋の二階建て。何棟もの建物が放射状に連結された、奇抜なデザインのこの建物が俺達新入生の仮の宿となった国民宿舎だ。その国民宿舎の小ホールに、俺達はいる。
先ほどまで新入生全員が集められ、訓示を聞かされた舞台でもあった小ホールだが、皆は既に解散していてガランとした空間が広がっている。そんな他に人影もない小ホールで、俺は悠人と二人で織姫を待っていた。
「お兄ちゃん、先生からギター借りてきたよ。ここにオルガンあるし、三人でセッションしちゃおうか。みんなこの部屋には興味なさそうだし?」
学校指定だから当たり前だが、俺と寸分変わらないデザインの青ジャージを白いTシャツの上に引っかけた織姫が、アコギを片手に長過ぎる三つ編みを揺らしてやってきた。
「弾いて良いのかよ?」
「良いんじゃない? ギター貸しておいて引いちゃダメって事はないでしょ。ほら、お兄ちゃん、アコギ。悠人くんは、そこのオルガンをお願い?」
「はいーはい。わーったよ、織姫ちゃん」
俺は織姫の手からギターを受け取りつつ、ふと頭に浮かんだことを聞いてみた。
「織姫。ここでセッションするのは構わないけど、お前、お前はクラスの連中を放っておいていて良いのか? 無理に俺達二人に付き合わなくても……」
「知らない。わたしって、ハブられてるのかも」
そう言いつつも、全く気にかける様子がないのはどういうことなのか。
「冗談だって。彼氏と逢ってくるって出てきた」
「……っ」
むしろ、胸を張ってそう俺に告げる織姫。絶句するしかない。そこかしこに敵を作って面白いのかお前は。
「そういうことを平気で言うからハブられるんじゃないのか? ま、いいけど。それでお前、今日は何がやりたい?」
「わたし歌うから、歌付きのを弾いて?」
「判ったよ。歌付きの曲な」
何も決めず、なにも考えないで弾き始める曲は決まっていた。とりあえずGマイナー。で、どうするかな。ま、考える前に手が勝手に動いていたんだけどね。
「お前この曲好きだな。さっきも口ずさんでたろ、充彦」
「うるせ」
と、言いつつ、その曲のサビを弾き始めた悠人がいる。
「わたしもこの曲好きだよ? だって、うちのお父さんがこの曲を弾くときは決まって優しい顔しているもん」
「知ってるよ、オレも何回も聞いたって!」
「でも、母さんはこの曲嫌いなんだよな」
「そうみたい。どうしてだろうね?」
そう。母さんはこの曲が好きではないようだ。いや、相当嫌っている。この曲を巡って母さんが父さんに詰め寄っているところを何度も見たことがある。何故だろう? 良い曲だと思うのだけど。
「さあな。でも、俺はこの曲好きだけどな」
「うんうん、良いよね。わたしもお兄ちゃんと一緒で、この曲が大好きだよ!」
「あはは」
『夜空を君と』。織姫は実に歌が巧くなったと思う。でも、それも当然だった。父さんに勧められ、母さんの反対を押し切る形で進学塾を蹴り、小学校の時から音楽教室に通って鍛えている。その透き通る歌声は声量も半端なく、織姫のソプラノの歌声は本家である諸星由美子と比べても遜色が無いのではなかろうか。
身内のひいき目があるから、あのとき音楽室でアイツが歌ってくれた、魂ごと引きずり込むような狂おしいまでのそれとは伝わるものが違うけれど、織姫の歌は優しい響きで世界を包み込むような穏やかな暖かさがあふれている。
本人の性格とは全く逆だと感じたが、歌声そのものに罪は無い。良いと思えた。いやいや、かなり良い線を行っているに違いない。
「ん?」
ふと、オルガンの紡ぐ旋律に違和感を感じ悠人に目を向ける。悠人は笑っていた。
「良いじゃん、オレにも見せ場があっても」
間奏のピアノソロに悠人がアレンジを加えたようだ。心地よい違和感だった。
「良いんじゃないか。これ。良く纏まってるよ、悠人」
「お。そうか? ありがとな」
悠人が二枚目に相応しい笑顔を見せた。眩しいから止めて貰いたいと思う。
「うんうん。本当にわたしもそう思う。凄い、凄いよ悠人くん」
リップサービス、とは言いきれない織姫の微笑みを目にしたとき、俺は正直微妙な気分になった。
◇ ◇ ◇
織姫が大きく深呼吸した。
「巧く歌えてスッキリ!」
「今回のはなかなか良かったな。でも、オレとしては固めのチューニングされたグランドピアノが欲しいかも」
悠人も満足げだ。コイツなりの達成感を得たに違いない。そのおかげか欲張りな台詞が聞こえてきた。
「そんなものか? オルガンもアリだと思ったけどな」
「いいや。ここはピアノだね」
言い争いを止めるかのように、拍手が聞こえた。惜しみない拍手が。どうやら誰か聴いていたようだ。
「凄い、凄いじゃん! 君たち初心者じゃなかったんだ」
誰かと思えば天河だった。って、え? 天河の目尻が何故が滲んでいて。もしかして涙か?この程度の演奏であのコは感動してくれていたのだろうか。
「委員長君たち、凄いって! 本当に凄いよ!」
「朔耶ちゃん、ま、座れよ。今セッション始めたばかりだからさ、よかったら聴いていってくれ。充彦、次の曲寄こせ」
「ん? あ、ああ。そうだな、次は……」
そうだな、天河というギャラリーも出来たことだし、次の曲は何にしよう。
「ね、ねね! 聞いてるだけじゃつまんないよ。あたしも混ぜて? 何か無い? 何か楽器! 出来れば欧州メーカーのミドルクラス以上のドラムセット!」
「あるわけねーだろ。って、天河ってドラムやるのか?」
天河がドラムね。そういえばあの日、スティックを持っていたような気もする。
「良く聴いてくれました!! 興味ある? あたしに興味あるんだ! 委員長君!?」
「ないから」
「ぶー!」
天河が握りしめた両拳を振り上げる。怒っているんだかそうでないんだか、良くわからない天河のリアクションだった。
「そういや、自己紹介の時、バンドがどうのって言ってたな、お前」
「そうだよ、空見。あたしお父さんと約束したんだ。バンドやってメジャーになるんだよ。なってみせるんだから!」
天河は俺達にあたし偉いでしょ、凄いでしょ、と言わんばかりに胸を張って頷いた。
「で、お前がドラムなわけ? 叩けるの? オレが思うに、朔耶ちゃんが出来そうなのはせいぜいカスタネット……」
「酷いなあ! 空見。何処の幼稚園児よ」
「いや、天河に似合うのはシンバルだろ?」
「委員長君、酷い! それじゃお猿さんじゃない」
俺の意見はあっさりと否定された。
「トライアングルでしょ? あれ面白いよ?」
「バカにしてる?」
「え? 全く? 全然?」
そうとも。天河にトライアングルを勧めた織姫は、決してバカになんかしていない。ただ、自分の心に正直なだけ……あ。天河の奴が怒った。我慢の限界だったらしく、その証拠に握りしめた両の拳がピクピクと震えている。
「ひーどーい! 酷いってば! 今の楽器のどれもが本当は難しいんだって知っていて言ってるのが丸わかりなのがまだ酷い! 息合いすぎだよ、三人とも。どんな付き合いなのよ君たちは。絶対素人じゃないでしょ! ま、イイケド?
ねぇねぇ、そのチームワークにあたしも混ぜてよ。君たちならあたしのメンバーとして充分な腕があると思うんだ。今なら出血大サービスで、特別にあたしのバンドのメンバーにしてあげるよ。ね、ワクワクするでしょ? するよね?」
俺は突っ込まざるを得ない。
「『あたしのバンド』、って言ったって、お前の他にメンバーはいるのかよ」
「……いるじゃないの! 目の前に三人も!! ……予定者……が……」
「言っていて虚しくならないか? 天河」
「いいの! あたしは想いの強さでは誰にも負けないの! あたしがそうするって言ったら、必ずそうなるの! 絶対なんだから!」
あまりの台詞に溜息しか出ない。天河は一人でなにやら勝手に盛り上がっている。いつ見ても元気な奴だった。
「ねえお兄ちゃん、あの子と仲良くしてるんだ? この前の件をさっ引いても、随分と馴れ馴れしいと思うんだけど?」
織姫は親の仇でも見つけたかのような、鋭い視線で天河を睨み付けつつ言い放つ。第三者的には可愛らしいと評される事もある、普段の顔と仕草からは全く想像できないであろう鬼の形相だった。
「俺の席のお隣さんになったんだ。かなり変な奴だけど、それなりに面白いぞ?」
「ふーん。そうなの? でも、彼女さ、びっくりするほど美人だし、可愛い子だよね。お兄ちゃん、あの子のこと『も』、好きなの?」
嫌な響きを残す声が耳に突き刺さる。今日の織姫はやけにしつこかった。
「どうしてお前は直ぐ話をそっちに持っていこうとするんだよ!?」
「お兄ちゃんってば、前科がたっくさんあるし!?」
その毒を隠そうともしない織姫の冷たい声色に、俺や悠人、そして天河すらも吹き出していた。
「あ、そのコ、本当に委員長君の妹さんなんだ?」
織姫は天河を一瞥するも、直ぐに目を逸らす。
「だって、お兄ちゃんはあの子がホールに来てからずーっと嫌らしい目で追ってるもん。意識しすぎだよ」
「織姫、お前……、そんな事ないって!」
「嘘。そんな事あるもーん。あ、お兄ちゃん、タンバリンがあったよ?」
そうは口にしつつも、もうその話はどうでも良い過去の話だとでも言うように、タンバリンを手にした織姫は唐突に話題を変える。
「マラカスもあるな」
「マラカスでも良いけれど、ここはそうね、やっぱりタンバリンでしょ! タンバリン貸しなさいよ! 目にもの見せてやるんだから!」
受け取るやいなや、外周を指でなぞっただけで聞こえてきた鈴の音。そしてそのまま見事な8ビートを刻みだした。心地よい強弱の繰り返しが耳を打つ。
俺は悠人と織姫に視線を送る。二人は俺の視線に頷く。天河の奴、口だけではなく腕の方も相当出来るとみた。
「やれやれ」
俺はコードを乗せてみた。ギターの弦が震え始める。
「仕方ないな、天河はお客さんは嫌なんだと。……って、おい充彦! またこの曲なのか? ホント好きだな、お前も」
悠人が苦笑するも、伴奏を始めた。
「同じ曲で天河の実力を見てやるんだよ、大口叩いてたからな、この女。それに天河って確かこの曲をバスの中で歌ってたよな?」
「あたしを舐めない事ね、フンだ!」
天河が拗ねているっぽい。なんだか、顔を背けるその姿はやけに可愛らしく見え、絵になっていた。
「はいーはい。いい加減にサビの繰り返しも飽きてきたし、オレそろそろAメロに入っても大丈夫か?」
「あいよ」
指で悠人に合図する。悠人は短い返事と笑みで応えてくれた。
「ふーん。やっぱり気になってたんだ。お兄ちゃんって、気になる子はとことん虐めにかかるよね。まるでちっちゃい子みたいだよ」
「違うって!」
「はいはい。全く、わかりやすいんだから」
織姫はそう吐き捨てつつも、仕方ない、とばかりに結局最後は優しい目を俺に向けてきた。
皆、俺が自販機から買ってきたジュースに喜んでくれた。
「ありがとう。委員長君」
紙パックを天河に手渡したその時だった。急に横に湧いた織姫が天河に絡み始める。先ほどとは違う意味で興味津々らしく、天河の周囲をぐるぐると回り、遠慮無い視線を注いでいる。実に失礼極まりない態度と言えよう。
「へー。ふむふむ……。なるほどね。演奏も上手だし? ええと……」
「なんだよ織姫」
「お兄ちゃんは黙ってて。わたしはこのコに……このコ……ええと……なんだっけ?」
「朔耶だよ。あたし天河朔耶っていうの」
天河も負けてはいないようだ。いつもの態度から察するに、織姫以上に鈍いだけかも知れないが。
「朔耶っち、リズムセクション完璧っぽい! 見直したよ。バカにしてごめんね。わたしはお兄ちゃんの妹で、織姫って言うんだ」
天河をあれほど敵視していたはずの織姫の態度が豹変していた。織姫は満面の笑みを浮かべている。実に珍しいことだった。つい先ほどまでこの世のものとは思えない恐ろしげな表情を天河に見せていた事実は存在しなかったことになっているらしい。織姫の気紛れはいつものこととはいえ、いい加減に勘弁して欲しい。
でも織姫の成すことを一々気にしていても仕方が無い。真面目に相手をしても疲れるだけに終わる事がわかりきっているのだから。だからゴメンな、天河。俺は代わりに心の中で謝っておく。声に出して言えない俺を許してくれ。
「よろしく。オリ……オリオリで良い? ヒメって、さすがのあたしでも呼ぶの恥ずかしいから」
「うん、いいよ」
「それにしてもオリオリって、めっちゃ歌巧くない? 本格的にトレーニングしてる?」
「そんな事、……あるよ? うんうん、わたし、お歌の練習してるんだ。偉いでしょ」
織姫は胸の下に両手を組んで、何度も大仰に頷いていた。物凄くデカイ態度だった。何が偉いのか全くの意味不明だったが、突っ込んだ時点で負けであることを俺も悠人も知っている。今、現在の織姫の機嫌は絶賛上昇中であるように見えた。
「やっぱりそうだったんだ」
「うんうん」
「将来、歌手目指してるの?」
織姫は歌が好きだ。間違いなく両親の影響だった。でも、それを歓迎しているのは父さんだけで、母さんは嫌がっているらしい。
「ん? わたしね、お嫁さんになるんだ」
「は?」
なんだって!?
「お嫁さんになるんだよ。うん。夢なんだ。良妻賢母になるんだよ」
織姫が大きく頷く。これは始めて聞いた。もちろん、俺には意味がわからない。そして、ここからが重要なのだが……恐らく本人も判っていない。
「だから、歌のレッスンしてるの?」
「そうだよ?」
天河が目を丸くしていた。もちろん織姫のボケに慣れっこであるはずの俺も耳を疑った。
「……。あ、あは、お嫁さん、だって! ぎゃはは、オリオリ、冗談を真顔で言うんだもの、おかしいって! それ、おかしいから! 関係ないし!」
恐らく織姫は本気で言っている。ボケているつもりも、からかっているつもりも全く無いのだろう。天河も可哀想に。申し訳ないが、俺は暫くあのコには織姫の暇つぶしの相手を務めて貰うことにしようと心に決めた。
◇ ◇ ◇
その晩のことだ。消灯後暫くして始まった枕投げ大会に勝利した俺と悠人は、仲良く廊下に正座しながら音楽について語り合った。やっとのことで書いた歌詞を、約束通り悠人に見せてダメ出を貰う。悠人の『これ、アイツのこと想って書いただろ?』との危うい追及をなんとか切り抜けた俺は、なんとか無事? にアイツに送信することが出来た。そして、今日のセッションのことは早速アイツに報告しておいたのだ。
『でさ、そのお隣さんを入れた四人で『夜空を君と』を合わせたんだよ。なかなか巧かった。あの腕なら、きっと諸星も合格点出すと思う。それにしても、あの曲は良い曲だよな』
『そうだな。あのバカ親の持ち歌にしては、良い曲だよな。それだけは私も認めるよ』
『そのお隣さん、天河って言うんだけど、リズムセクションが出来そうなだけじゃなくて、話してみると実はいい奴っぽいんだ。俺、少しあのコのこと見誤ってたかもしれない』
『だから?』
なんだかおかしい。アイツの返事がやけに素っ気なくないか?
『ええと、一緒に音楽やっていけると思ったんだけど』
『そうかよ。それは良かったな、委員長』
そうだよな、喜んでくれると思ったよ。さきほどの違和感は俺の勘違いだったに違いない。
『うん。本当だよ』
『タヒねよ。お前、最っ低だな!』
あ、あれ? なんと理不尽な! どうしてこうなる!?
その夜、それを最後にアイツからの返信は来なかった。俺はアイツの気に入らないことを何か告げてしまったのだろうか。
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