第13話  二章 四月一日 木曜日

 春の優しい風に包まれながら、俺はお節介な二人の頼みを断り切れず、半ば強引に家の外に連れ出されていた。


 卒業式が過ぎてから、外に出かけるのは久しぶりだ。

 春の色も香りも感じられない灰色の街。何もかもがつまらなく思えてならない。

 俺はどうしてこんな場所にいるのだろう。

 いつもと変わらぬ馴染みの街角であるはずなのに、俺はどこか知らない街に迷い込んでしまったのかも知れない。


 悠人ゆうと織姫おりひめから聞いた。

 自分自身ではそんなつもりはなかったけれども、俺は『抜け殻のような日々』を過ごしていたらしい。


 俺の進学先である私立聖鳳せいほう学園高等部の入学式も数日後に迫った今日、俺はその悠人と織姫に連れ出され、無理矢理に付き合わされていた。この二人も聖鳳の高等部に通うことが決まっている。自然と話題は新しい学校でどんなバカをして過ごすか、といった至極どうでもいい話になっていた。


 俺は背中にアイツに貰ったベースを背負い、ほとんど一方的に話しかけてくる悠人の説教めいた言葉の羅列を右から左に聞き流しつつ歩みを進めている。

 気がつけば、俺は溜息ばかりをついていた。



充彦みつひこ、良いだろ? どうせベースの練習やるんだよな? 毎日アンプに繋がずに弾いてるって聞いたぞ? それにもう、ここまで来たんだ。そのベースって、お前にはもったいないくらいの品なんだろ? オレにもどんな音か聴かせてくれよ」

「ああ、とても良い品だと思う。こいつの響きか……まぁ、いいよ。好きにしろよ」



 悠人は俺になんの相談も無く、勝手にレンタルスタジオの予約を入れて来たのだ。

 目的の楽器店は俺達の馴染みの店だ。

 こいつらにこうして連れ出されてしまった以上は今さら断るわけにもいかない。そしてなにより、何もかもが面倒に思えた。



「早く早く! 早くおいでよ!」



 呼び声のした方角、道行く先に目を向けると織姫が大きく手を振っていた。

 気がつけば目的地である老舗の楽器店はもう目の前だった。黒のギターケースを背負った織姫の、悩みなど無さそうな笑顔が弾けている。



「でも本当に良かったの? わたし、お兄ちゃんのギター、これ使いたかったんだよねー。お兄ちゃん、このエレキギターをお父さんから貰ったんだよね? これって重厚なビンテージ感というか、使い込まれたボロさがなんとも言えなくて前々から狙ってたんだ!」

「構わないから使えって」



 俺は今日、この二人に連れ出される前に、俺が今まで使っていた、父さんのお古であるエレキギターを織姫に譲った。このギターを前から羨ましがっていた織姫だ。その時の喜ぶさまは凄かった。


 それに今、俺の手にはアイツから貰ったベースがある。父さんのギターは今の俺には必要の無い品だった。


 織姫の奴は、ついこの間にも父さんを泣き落として国産のニューモデル買って貰ったばかりだったような気もするが、新品よりも父さんの使っていたお古のギターの方が良いと言う。ともかく、織姫はとんでもなく喜んでくれているようだ。



「うんうん! だって、お父さんとお兄ちゃんが使ってた、こっちのギターの方が良いに決まってるし?」



 織姫は一刻も早くギターの弦を掻き鳴らしたくて仕方ないらしい。我慢の限界は近いと思えた。



「走れ! 遅いぞお兄ちゃんたち!」



 少し急ぐことにした。あの笑顔が怒りに染まる前に店に入るべきだろう。面倒事などお断りだ。



 ◇ ◇ ◇



 蛍光灯の放つ白い輝きに満たされた、やや古びた楽器店の店内はいつもと変わるところはないように思えた。

 カウンターの奥にはリョウ兄の姿がある。リョウ兄。それはちょっとだけ強面の、俺達と馴染みの店員さんの顔だった。



「はろはろ、リョウ兄、わたしが来たよ?」

「いらっしゃい……って、なんだオリヒメか。 おいおい、最近のお前は見るたびに綺麗になるな。全く女は怖い怖い。これから何人もの無垢な男が、お前に泣かされ騙され踊らされるのかと思うと、今からそいつらが哀れに思えて泣けてくるぜ。……ん? お前らも来たのかよ。クソガキ共」

「オレらはおまけかよ! 酷いなあ、リョウ兄」



 リョウ兄の軽口をあっさりと流す織姫とは対照的に、珍しく悠人がリョウ兄に噛みついていた。

 楽器店のカウンターの奥に座る、黒のデスメタル風のTシャツを着た金髪ロン毛の若い男性、この人がリョウ兄だ。この店の顔とも言える。


 俺と織姫が小さい頃に父さんに連れられてやってきた時は、リョウ兄の親父さんがまだ店番をしていたが、最近では息子さんであるリョウ兄の姿を見ることが多くなっていた。

 リョウ兄は頬をげっそりとこかし、目の下に黒いクマを作っている。その人相は、俺の記憶に残る元の顔が色白でモテそうな細面であったと知っているだけに相当怖いものがある。


 それにリョウ兄の口から出てくる言葉もどちらかと言えばあまり上品ではないものだ。はっきり言って店番としては不適格だと思う。だけど、たびたびこの店に入り浸っている俺達三人には実にフレンドリーに接してくれている。

 ……そのはずだ。とても感じの良い仲良しのお兄さん……だと信じたい。



「男はどうだって良いんだよ。いちいちチェックしていられるか」



 俺はリョウ兄のいつもの悪態にほっとする。今更だけど、丁寧に俺達を客扱いされても困るって。ホント、この人も変わらないと思う。



 ◇ ◇ ◇



 店内のホールに据え付けられた、布張りのソファーを占領しつつ、織姫が興奮気味に例のギターを愛でている。ギターを撫でる織姫の白い指は、それはそれは優しく見えた。


「これ、やっぱり良いなぁ。お兄ちゃん狡いよ。今までこんなギター使ってたんだ。本当に、これ良いよ。どれどれ……? おお、この色、この艶、この肌触り……。この渋さがたまらなくカッコ良いんだけど! 特にこの手書きのペイント。……って、なにこれ。『Y.M.』って誰?」



 それはナイフで刻まれた古い傷だった。



「誰だろう? 父さんが昔バンドをやっていたときに、メンバーの誰かに貰ったのかも?」

「ああ、なるほど。父さんのダチ公との思い出の品って事! ふむふむ?」

「それは判らないよ。もしかしたらバンド名なのかも? 昔の事になると肝心なことは一つも教えてくれないし?」



 そんな事もあるのかも知れない。昔の仲間の持ち物だったのかも。もちろん、全く見当外れかも知れないけど。



「そうだね。でも、このギターさ、本当にもらちゃって良いの? お兄ちゃん」

「当たり前だろ? お前、この父さんのギターを前から欲しがっていたじゃないか」

「えへへ。嬉しいな。ありがと。じゃあコレ、もう返さないからね! 後になって返して、って泣きついて来てもダメなんだぞ!?」



 そう言う織姫の顔からは、笑顔が零れ落ちていた。



 ◇ ◇ ◇



 俺達は予約の時刻よりも少し早く到着していたらしい。空き部屋待ちのために悠人も交えて無意味極まりない時間つぶしをする羽目になっていた。俺達兄妹がホールでギターを押しつけ合っていると、スタジオに続く廊下から、なにやら騒がしい会話が耳に入ってくる。

 それは先客であろう集団の、やや興奮気味の話し声だった。



「あたしと君たち、あまり息が合わなかったね。たぶん音楽性が違うんだよ。あたしと君たちじゃ、このまま続けても、お互いハッピーにはならないと思うな?」



 綺麗なソプラノがホールに響いてきた。よく通る耳障りの良い声だ。



「そんな事ないって、サクヤちゃん。俺達の相性抜群だったじゃん!」

「ダメダメ。それが判らないって事が既にあたしと君たちがズレている、って証拠だよ。それじゃね。でもあたし、今日は良い経験が出来た上に楽しかったよ。お互い良いメンバーに会えると良いね」

「待てって! サクヤちゃん、そんなこと言うなよ」

「じゃ、そういうことだから。バイバイ」

「待てよ!」



 俺の目の前を、ソプラノの主である栗色のポニーテールのコが足早に駆けてゆく。数歩遅れて、大学生くらいの痩せた男達が何事か叫びながら追いかけていた。



 ◇ ◇ ◇



 織姫がベースを愛おしく撫でている。



「お、おおおおお!? このベース、あの子から貰ったんだよね? これ凄くない? お兄ちゃん、これホント凄いって! あの子、カナミちゃんだっけ。こんなのプレゼントしちゃう子だったんだ……お兄ちゃん、凄く愛されてるよ……」

「ホントだ。こいつはスゲエな、充彦。おお、これが本物の貫禄なんだな……」



 織姫も悠人もアイツから貰ったベースを食い入るように見入っている。



「大丈夫だ悠人、織姫。俺も何度も目を疑った。でも、今では間違いなくこのベースは俺のモノなんだ。返品不可って言ってた」

「う、うん……お兄ちゃん、強く生きてね。泣きたい時はわたしの胸で泣いても良いよ?」

「断る! ……それにどういう意味だよ!?」

「あはは! それはもう、そのままの意味に決まっているじゃない」



 騒ぐ俺達の目の前に、割り込む白い影がある。



「うぉ!?」

「あはは……はぁ? アンタ誰よ!? なによいきなり!」



 悠人が飛び込んできた白い影に飛び退いた。織姫が場違いな怒声を上げる。

 上機嫌で笑っていた織姫の顔が突然反転し、鬼の形相と化していた。俺はあまりに鬼気迫る、織姫の見せた表情に声を失う。今、この瞬間にも織姫の額から角が生えてきたとしてもきっと俺は驚かないに違いない。



「あ、君たち! 来てくれたんだ。やった! あたし嬉しいよ!」



 それも当然だった。今の瞬間、言うが早いか悠人を押しのけ、俺と織姫の間に突然飛び込んできた白のタンクトップ姿の女のコがいたのだ。スリムジーンズに刺したスティックが目に入る。

 ……このコ、ドラム叩くんだ……。今まで激しい練習でもしていたに違いない。そのコの見せる上気した、やや赤みがかった顔。汗に濡れた栗色のポニーテイルが目を引いている。このコ、ちょっと……いや、かなり可愛いかも。

 ……って、そんな事よりコイツ誰だよ。



「ね? 君達!」



 そのコは俺に向かって片目を瞑ってみせた。



「……え?」



 俺はじつに間抜けな声を出していたと思う。



「約束したじゃない、三人とも。来てくれていたんだね! あたしとっても嬉しいよ!」

「はぁぁあ? アンタ何言ってんの!?」



 織姫が目を皿にしてそのコを睨み付けつつ噛みついた。十年越しの恋も一瞬で冷めるであろう、場末のヤンキーも真っ青な豹変だった。そんな鬼姫……いや、織姫の肩を叩いて止めた者がいる。悠人だ。まさに真の勇者と言えよう。



「わりぃ、織姫ちゃん。このコさ、オレが呼んだんだ。言うの忘れてた。勝手に決めててごめんな。充彦。そうだよな!?」



 悠人は肘を何度も俺に当ててくる。その視線は俺と、そのコの背後に迫る数人の大学生めいた連中を忙しなく往復していた。

 ポニーテイルの女のコは一瞬だけ悠人に視線を向けるとと大きく頷き、俺にウインクを繰り返す。

 え? え!? なんなんだ!?

 俺は何が何だか判らぬまま、この女のコと悠人の顔を交互に見比べた。



「このコを呼んだのお前じゃないか! このコじゃないと嫌だって言い張ったのはお前だろ? しっかりしろよ、充彦」



 悠人が俺の背中をバンバン叩く。

 な、なぜに俺は悠人に責められる!?

 悠人は真顔で俺に詰め寄ってくるのだが、俺には何のことだか判らないって!



「ミツヒコくん、約束したじゃない! バンドのメンバーに誘ってくれて、あたし嬉しかったんだよ!? ここまで来て今さら知らないふりなんて……あぁ、あたしが可愛いモノだから、意地悪して気を引こうとしているんでしょ。そうなんだ? そうでしょ! やだなぁ、もう。ミツヒコくん? 別に君がそんなに気を回さなくても、君の誘いだったらあたしはいつでもOKだっていつも言っているじゃない!」



 俺の名前を連呼するポニーテイルのコ。そのコはワザとらしく顔を輝かせている。

 その整った顔と相まって、とても真っ直ぐに目を向けられたものじゃない。

 本人が自称するように正直可愛いすぎるのだ。凄く眩しいと言えよう。


 それにしても何を言ってるんだこのコ? 俺にはアイツがいるんだ。これはなにかの勘違いに違いない。女のコ、それもこのコのようなレベルの高いコを誘うわけがない。俺は今の今までアイツのことを想って頭も胸も一杯で、とても他のことを考える余裕なんてこれっぽっちもなかったんだ。

 これは何かの間違いか、質の悪い冗談に決まっている。そうさ。こんなことはありえないんだ。それに誰だってこいつらのやっていることが演技だと直ぐ判るはずなのに。



「サクヤちゃん、それはないよ!」



 ギターケースを下げた大学生の一人が食い下がる。このコを追ってきた大学生っぽい連中だった。彼らの気持ちもわかる。当然、怒るよな。



「いい加減にしてよ! しつこいって! 聞いたでしょ? あたしには次の予定があるんだから!」

「そんなこと言ってなかったじゃん!」



 その女のコは大学生らに対して一歩も引かず、明らかに不機嫌な顔を見せていた。その口から吐き出される言葉はどれも激しく刺々しい。



「どうして言う必要があるのよ。ね、みんな行こう? ミツヒコくん、早く行こうよ!」



 な、なんですと!?

 俺を巻き込まないでくれよ、見知らぬ人よ……。その女のコが俺の手を取ろうとする。


 ふと、俺は気になる視線を感じた。

 恐る恐るそちらのほうを伺うと、織姫が俺を睨み付けている。その眼光のあまりの鋭さに、俺は女のコに差し出そうとしていた自分の手を慌てて引っ込めた。危険すぎる。思わずこのコに釣られて命を危うくする一歩手前だったようだ。



「だから待てってサクヤちゃん!」



 大学生が女のコに手を伸ばす。



「止めてくれよ、先輩方。そのコは俺の親友……この充彦の彼女なんだ」



 間髪入れずに、しかもごく自然に悠人の口から吐き出された、そのとんでもない大嘘に俺は耳を疑った。大学生らの視線が一斉に俺に集まったではないか。

 冗談じゃないぞ? 俺はアイツ一筋なのに、どうしてそんな事を口にするのか。

 俺が悠人に一言文句を言おうと口を開きかけたその時、思わぬ所から悠人に援護射撃が来た。



「お兄ちゃん、可愛い彼女のピンチでしょ! ここで何か言わないきゃ最低だぞ!?」



 う、お、お前……織姫……。先ほどとは真逆の言動とはどういうことだ!? 我が愛する妹は無表情に俺を睨み付けてくる。脳裏にアイツの顔が過ぎり、俺を『この裏切り者め』と訴えた。

 織姫はそんな俺の気持ちなどどうでも良いのだろう、考えのまとまらない俺に向けてそのコを思いきり突き飛ばす。



「きゃ……!?」



 無慈悲な我が妹の仕打ちのために、悲鳴を上げながら俺の胸に頭を押しつける羽目になったこの栗色の髪の女のコ。彼女はその細い身体を小さくさせて小刻みに震わせていた。

 このコ、こんな大胆なことをしているのに、今さら怖がってるのか?

 ふわりと甘い香りがする。俺はそのコの顔を覗き見た。正直言おう。美形だった。

 覗き込んだ俺と視線が絡む。潤んだ鳶色の瞳が揺れていた。

 なんだよ、よりによってこんな美人……。俺に一体どうしろと言うのか。後頭部がチリチリする。実に気持ちの悪い、嫌な感覚だった。



「お兄ちゃん!? 困ってる彼女を助けるのは彼氏の義務でしょ!?」



 ああ、そうか、そういうことか。

 俺はやっと理解した。

 このコは追われていて、俺達に助けを求めているんだ。

 今までの出来事を冷静に考え直してみれば、実に単純なことだった。


 とはいえ、織姫の鋭い視線は今にも炎を吹き出しそうで。きっと死んでしまえ、コロス殺してやる、などと直ぐにでも怒鳴り散らしたいに違いない。色々な意味で危険な事態だ。仕方ない。ここは一芝居打か。

 せっかくやるのだ。それならば徹底的にやるべきだろう。こんなもの、派手な方が良いに決まっていた。


 俺は心の中でアイツに何度も謝りつつ、その女のコの肩に馴れ馴れしくも手を回した。その柔らかい感触が俺の良心を切り刻むが我慢する。そのコの身体が大きく震えたが、構わず肩を抱き引き寄せて、そのコの頭を更に俺の胸に押しつけた。でも、まだまだだ。たとえ俺の良心が焼き切れようと、『カッコ良い彼氏』の姿を周囲に見せ付けるまでは終われない。


 俺は全員の視線が俺に戻ってきたことをゆっくりと確認してから、今、速攻で考えた出任せをこのコに絡んでくる連中にぶつけた。



「先輩方。コイツ、俺の彼女なんだ。先輩方の隠れファンだったらしくて。先輩方とのセッションもやってみたいとこの前からうるさかったんです。あまりにも拘っていたので仕方なく好きにさせていたのですけれど……」



 大学生らは俺の言葉に顔を見合わせる。



「でも先輩方、コイツから断られたんでしょう? 今、コイツ嫌がってますよね? ここは引いてもらえませんか? 俺達もここがホームだし、先輩方もそうなんですよね? 俺ら、この店で揉め事はちょっと避けたいんです。ほら、いつも世話になってるリョウ兄にも悪いですし……」



 俺は受付のリョウ兄に視線を送った。ここにいる全員が受け付けカウンターに佇むリョウ兄を目を向ける。

 俺が見るに、リョウ兄はただのアブナイ人にしか見えなかった。どこか焦点の定まらない怪しい目を中空に踊らせながら、ハッピーな白昼夢でも見ていそうなバカっぽい薄笑いを浮かべ、神経質そうに指でカウンターを叩いている。なにかのリズムでもとっているのか、どうなのか。


 正直俺は知りたくもない。悠人や織姫と言えば、そんなリョウ兄の姿に何を思ったのか軽く笑みを浮かべて顔を引きつらせていた。

 だが、大学生達はリョウ兄に何か別の感想を抱いたようだった。大学生らは次第に落ち着きを無くし、仲間内で小声で言葉を交わす。そして、あたかも厄介事を避けるかのような足取りで、無言のまま我先にと店の外へ出て行った。



「ありがとーございましたー」



 リョウ兄の間抜けな響きの決まり文句が彼らの後を追う。感謝の気持ちの欠片も感じさせぬ挨拶だった。俺達四人はその場に固まっていたと思う。気づけば俺は、ポケットの中のガラケーを強く握りしめていた。胸にそのコの頭を抱きながら、今も俺はアイツに必死に謝っていたのだ。



 ◇ ◇ ◇



 アイツから教えて貰っていたアドレスに、今日初めてメールする。

 俺はとても良い考えだと思った。今日まで何度も試そうとして実行していなかったことなのだ。


 俺はベットに飛び乗るなり、仰向けに寝転ぶ。

 あの日以来ずっとわだかまっていた俺の弱さはもう存在しない。今日の俺は曲がりなりにもあのベースを手にし、ついに弾いた。本格的に練習を始めたのだと言える。


 これで俺はアイツに正面から顔向けできるような気がした。今日こそその勇気が持てたのだ。

 ためらう事など何もなかった。それに……謝らなくてはならないことがある。

 今日はアイツに悪いこともやってしまったと思うから。



『俺、レンタルスタジオに行ったんだ。今日からベースの練習を始めるよ』



 ちょっと胸がドキドキだ。アイツ、返事をくれるだろうか。

 向こうは早朝のはずだった。きっともう起きているに違いない。

 今日まで連絡を入れなかったことに怒り狂っていたらどうしようか。

 でも、連絡をしてこなかったのはアイツも一緒なのだ。お互い様なのだから、怒られても困る。でも、やっぱり……。


 心配事で頭が破裂しそうだった。だが、ぐるぐる頭を巡った弱い心も、アイツにメールを打ったという心地よい安心感に包み込まれて、いつしか消え失せたようだ。

 俺はあっさりと眠りに落ちていたらしい。



 ◇ ◇ ◇



「……っ! ゆ、夢か」



 目覚ましの音に目を開けると、朝の柔らかな光が目に飛び込んできた。

 夢の内容はほとんど忘れたが、酷い夢だったと思う。俺が力の限り手を伸ばすけれども絶対に届かない何か。そんな夢だった。

 そうだ、夢なんてどうでも良いんだって! 

 アイツからの返事は!?


 俺は手を力の限り伸ばし、気になるそれを掴んでいた。

 ……よかった。ガラケーが明滅している。


 着信が来ていた。

 確認すると、発信者は『カナミ』とあった。まだ、一回も呼んだことのないアイツの下の名前だ。

 俺は手を震わせながら、アイツの送ってくれていたメールを開く。



『今頃かよ。遅いんだよバカ。私を苛立たせた罰だ。お前は毎日死ぬまで練習してろ。判ったな!?』



 アイツはやっぱり怒っているようだった。だけど俺にはそれが、とても嬉しい。

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