第12話 一章 二月二十五日 木曜日

 今日の授業も終わり。卒業式まで残すところ、あと少し。もう完全に消化試合だ。


 夕陽の差し込む教室には、睡眠学習を終えたらしいコイツと、それを揺り起こそうとする僕しか残っていない。



「おい、諸星」

「……ん? あ……? おはよ。渡月」

「お前なぁ……授業終わったぞ? クラスの皆も、もう帰った。いい加減に起きろよ」



 僕はコイツの肩を揺すった。



「ん……」



 コイツは真っ赤に腫らした眼を何度も擦りながら、そばに置いていた黒いギターケースを手にし、それを開ける。

 その日、コイツは一本のギターを背負ってきた。コイツが取り出したそれは鈍く光る黒いベースギターだ。


 それを目にしたとき、僕は目を疑った。それがおおよそあり得ない品だったからだ。

 コイツが手にしているそれは、数々の伝説を生み出した海外メーカー製のシリーズの一本だったのだ。

 欲しいと思っても簡単に手を出せる品ではないことは僕でも知っていた。



「これやるよ。良いか? ヘタクソ。お前はこのベースで練習してろ。私が傍にいないからって、手なんか抜くなよ!? お前の弾く音の全てが私には聞こえているんだからな!? 良いか、判ったな!」

「え……? こ、これ。お前! 本物なんだろ……!? こんな高級品、僕なんかに……、すげぇ、いいのかよ!?」

「たいしたものじゃない。ワンオフでもないし。お前、ベース持っていないって言っていたから」

「でも……」



 そのときコイツは僕の胸にそのベースを押しつけた。その力の強さが返品不可を強く主張する。

 僕を見る赤く腫れた目が、僕を真っ直ぐに見詰めていた。



「いいから、お前はそれで練習しろ。安物で練習したところで巧くならないぞ。最高級品を常に求めろ。何事も常に本物を追求してこそ一流なんだ」

「そんな、一流なんて」

「私はお前を一流のアーティストにしたいんだ。ステージの上の私の隣に相応しい男になって欲しいんだよ」

「そんな事頼んでないよ」

「いいんだよ、私がそう思ってるだけなんだから。そうなったら、いいなって」

「そっか。それは厳しい課題だけど嬉しいな。ありがとう。でも、どうして今日なんだ?」



 コイツの表情が消えた。続くのは聞いたこともない固い声。



「今日が最後なんだ」

「え?」

「あのさ。私、明日の朝の飛行機でロサンゼルスに行くんだ」

「……え?」



 なんだって?



「母さんに呼ばれた。一緒に住もう、って」

「……っ」



 アメリカ……?

 ああ、コイツ、笑いながら泣いて……嘘だと言って欲しかったけど、冗談だと言って欲しかったけど、赤く腫れた目から溢れ、頬を伝わり落ちる涙がコイツの言葉が真実であることを語っていて。



「私を母さんが認めてくれたんだ。今度こそ母さんと向こうに行くことを許してくれた。母さんは私に音楽の才能があるって言ってくれていた癖に、私が教えてくれって言ってもちっとも相手をしてくれなかった。私がいくら本気だと繰り返しても、いつもいつも『あなたにはまだ早いから』って、話も聞いてくれていなかったんだ。でも今度こそ私に教えてくれるって、そう言ってくれた」



 僕はそんなコイツの声に頭の中が白くなる。



「母さんから一緒に来いと言われて、嬉しかった。教えてやるから頑張りなさい、って言葉を聞いて、本当に嬉しかった。もう自分に嘘はつけないんだ」

「行く、のか?」



 気の利いた言葉が出てこない。ああ、お前は保護者を見つけたんだな。

 でも、その人で本当に良いのか、と問う。だから、僕は墓穴をさらに掘る。



「委員長、お前が勇気をくれたんだぞ? 私はどうしようもないヤンキーだと思っていた。でも、お前がそうじゃないって教えてくれたんだぞ? お前が私をその気にさせたんだ。母さんの元で一流になる。……だから、ごめん。もうお前に教えてやることが出来ない。卒業式にも出ない。一緒にここの校歌、歌えない。お前と、同じ学校に……もう通えない――」



 いつしか、コイツの声がかすれている。

 あれ? コイツの姿も、何だか揺らいでるんだけど。

 なんだよこれ。ああコイツ、僕が思ったほどクズじゃなかったのか。

 なんだ、自分のことを良くわかっているじゃないか。

 でも、でも、お前は本当にそれで良いのか?



「そんな」

「酷い奴だろ? お前に酷いことばかりしてるよな。私ってさ。お前に期待ばかりさせておいて、望まれることを何一つやらないで。結局、私はなにもかも投げ出して逃げる不良なんだ。ゴメンな」

「……」



 僕は何か言おうとして、失敗した。言葉にならないんだ。

 そっか。コイツは決めたのか。コイツは自分で決めたんだ。

 だったら僕はコイツの頑張りを押してやらなきゃ。

 コイツは向こうで一人、頑張るって。

 僕の力なんか最初から要らなかったんだ。

 コイツは初めから自分の将来を見据え、目標に向かって戦い抜く強さを持っていたんだな。



「違うよ。お前は僕に酷い事なんて何一つやってない。僕が勝手にお前を追いかけてた。僕が勘違いしてたんだよ。お前は立派だよ。実は凄い奴なんだ。だから、僕の事なんて、気にするなよ」



 あ、れ? 僕、最後まできちんと言葉を言えただろうか。喉が震えて上手く言えないや。



「……っ! 違う、違うんだ。そんな事言うな、渡月……。私、私……。悪い、本当にごめんな、渡月。お前なに言ってるんだよ。どうして私を責めないんだよ。私はお前にこんな酷いこと言っているのに、どうしてお前は平気なんだよ……もっと私を責めてくれよ……」



 ああ、お前、こんな弱々しい声出す奴じゃないのに。

 お前、そんな奴じゃないだろ?

 そんな、まるで普通の女のコみたいな……! 

 そうだよ、そんなの諸星じゃない。

 お前は誰よりも強くて、誰よりも綺麗で。そして――。



「無理言うなよ。今のお前は最高にカッコ良いじゃないか。諸星」



 そう、他のコ達とは違う。

 お前は僕にとって、どうしようもなく輝いていたんだ。



「……っ!」

「だから、僕はお前にもっと格好良くなって欲しいんだ。だから、応援するよ。僕のことなんか気にするなって」



 僕のために常にそうであって欲しい。せめて、そうであってくれよ。



「……」



 僕はコイツの目を真っ直ぐ見詰めた。揺れる瞳が何かを語ろうとしていた。



「なぁ、渡月。……私、お前の事、嫌いじゃない」

「……っ」



 視線が絡み合う。僕は目を見開いた。何か聞こえた。今コイツ、なんと言った?



「嫌いなんてとんでもない。もし、もしもだけど、凄いうぬ惚れだと言うことも判ってるけど……私はここ最近、お前がずっと私のことを見てくれているような気がしてた。ずっと私の事だけを追ってきてくれてるような気がしてた。だから毎日時間通りに学校に出てきてた。出てこれたんだ。学校に行けば私を無視しない奴がいるって。それだけを信じて。痛いよな。痛いだろ? 私。痛い勘違いだって、凄い自惚れだって。指差して笑えよ。なに泣いてるんだよ、渡月。笑えよ、笑ってくれよ。不良の癖に、らしくもなく。なに言ってるんだって。なぁ、笑えって!」

「諸星……」



 それって、僕のことが……そうなのか? 僕こそ勘違いするぞ?



「なんとか言えよ、渡月」



 良いんだよな、諸星。だったら、僕はそれに応えるよ。本当の気持ちで応えるから。



「そんなの決まっているじゃないか。僕はお前を一目見たときから、目を逸らしたことなんてない。そうさ、お前の言うとおり、ずっとお前を見ていたんだ。先生から頼まれたから、というのはただの言い訳だ。言われるまでもなく、目なんて離せるわけがないんだ。とても気になるんだ。自分を忘れてしまうくらいに」

「渡月、それって……」



 コイツが息を呑む。そして静かに僕の続く言葉を待っていたに違いなかった。



「僕、お前のこと、お前が好きなんだ。きっとそうなんだよ。間違いなく好きで好きでたまらないんだって」

「……っ……わ、渡月? それって……そんな、どんな冗談だよ」

「冗談でこんな事いうものか。こんな凄い恥ずかしいこと、冗談で言える訳がないだろ」



 気のせいか、コイツの身体が震えて見えた。



「……っ! 渡月ぃ……」



 ダメだ。またコイツの目尻が光っている。

 それじゃダメだ。コイツが、コイツがまた弱くなる。

 コイツ、せっかく強くなったのに。だから僕は、コイツを突き放す。



「好きだよ。諸星、僕、お前のこと忘れない、忘れてなんかやるものか」



 前に踏み込み、出てこようとしていたコイツの足が止まった。



「……っ! 私も、私もだ渡月。お前が大好きだ。お前が忘れないのなら、私も忘れない。絶対に忘れないどころか、ギターを奏でている間はずっとお前のこと想っていることにする。お前もそうしろ」



 コイツの声。低めのアルト。強いコイツが戻ってきた。



「ああ。お前のこと想いながら練習を続けるよ」

「それとお前、お前『僕』って言うな。せめて『俺』と言え。以前からカッコ悪いと思ってた。お前は私に髪を染めさせたんだ。そのくらい、良いよな? 私に相応しい男になれ。あ……そ、そうだ。私は必ずお前を迎えに来る。絶対に迎えに来るから、それまでにステージで私の隣に立つ相応しい男になれ! なって見せろ! うん、それが良い! 約束しろ、渡月」



 よく言うよ。何の保証もないくせに。

 でも、よく判っているじゃないか。

 そうとも。やっぱりお前はこうでなくっちゃな。

 だから涙なんて見せるなよ。



「ぼ、……いや、俺、そうするよ。そうする。諸星。約束するよ」



 僕……いや、今から『俺』だ。俺も格好良くあろうと思った。



「ああ。じゃあ、そろそろお前ともサヨ……」

「そこは『またな』、だろ?」



 早速強がってみる。それにサヨナラなんて、そんな台詞が言えるかよ。



「……ぅ! そうだな、お前の言うとおりだ。サヨナラを言うのは止めだ。言わないことにする」

「うん。またな、諸星」



 そうだ。サヨナラなんて言わせるものか。俺も絶対に言わない。

 そうとも。今度また会うときまで、俺はお前の隣に並び立つに相応しい男になってみせる。お前の望み通りに。



「……っ! きっと、きっとだぞ!? 絶対、ぜーったいに迎えに来るからな!? 忘れていたりしたら、許さないんだからな!? 練習、サボるなよ!?」

「判ったよ、諸星。約束する。お前に嘘なんかつけないよ。それにお前じゃないんだ。この俺がサボるかよ」

「……そうだよな。うん、うんうん! じゃあな! ……え? って、渡月!?」



 ああ畜生、コイツまたあんな顔して……。仕方ない。

 俺は前に飛び出した。

 そしておもむろにコイツの両手を取って自分に引き寄せる。

 コイツの黒髪がふわりと広がり、俺の目の前にコイツの強張る顔がある。

 固まるコイツをよそに気合を入れた。ええい、俺。ここまで来てビビるんじゃない!

 俺はコイツの光る唇に自分のそれを重ね合わせた。

 一瞬だけだ。ほんの刹那の時間だけ。

 その柔らかい感触。

 その時間は忘れることなど出来ない永遠に思えた。



「約束だぞ?」



 俺はコイツの両肩を掴んで身を離し、忘れるものかと、むしろ自分自身のために念を押す。

 目を見開いたままのコイツは真っ赤な顔をして頷いた。

 涙をはらはらと流しつ、泣きながら笑ってた。

 ああ、結局泣かせてしまった。

 こんな約束に保証など、どこにも有りはしない。

 子供時代のお遊びの約束と変わらない。

 でも俺は、このときの約束に確かに縋った。

 これだけが俺達二人の真実であり、唯一の未来の姿だと信じて疑わななかったんだ。



 ◇ ◇ ◇


 これが中学三年の冬の話。それは卒業までのたった十数日間だけだったけど、俺にはアイツがとても輝いて見えた。

 そしてアイツは機上の人となる。アイツは自らの宣言通り、母親が住むロサンゼルスへ飛び立ったのだ。一人のアーティストとして世界を手にしたアイツの母親と共に暮らすために。



 ――こうして、アイツは俺の中で至高かつ神聖な存在となったのだ。

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