第2話 一章 二月一日 月曜日
約束の月曜日が来た。珍しく母さんが家に帰って来ていた日曜日の、次の日の朝のことだ。
今朝はやけに薄暗い。僕の目の前には、朝だというのに日没前を思わせる黄昏の世界が広がっていて、何だか知らない世界に迷い込んだのではないかと思ったほどだ。
僕は、そんなまだ薄暗い時間に家を出る。
「寒っ」
思わず口に出してしまうほど寒かった。寒さが痛いとでも言うべきなのか、ここは迷うところかもしれない。それもこれも、きっと昨日から昨夜にかけて降り続いていた大雪のせいだろう。
今、地面は真っ白い絨毯に覆われている。こんな雪の中を行くのかよ、と軽い目眩に襲われたのだけれど、始業までに済ませておかないといけないことがある。先週末の未春先生との約束だ。
先生の頼みを無視することなど、僕にできるはずがない。先生は僕の想いを受け入れてはくれなかったけれど、未だに邪険にせずに、僕の相手をしてくれているのだから。それを思えば、寒さが一段と厳しい冬の朝なんて別にどうと言うことはない。寒々とした、陽も昇らぬ時間に家を出る程度、何でもないんだ。
いつもは妹の
気紛れで早起きしたらしい母さんに見送られつつ、僕は積もりに積もった人跡未踏の雪原に踏みだして、白い絨毯の上に一歩一歩と足跡を刻みつけて行く。未だ薄暗い外の空気は予想以上に冷たく、僕はコートの上から巻いたマフラーを今一度しっかりと巻き直した。とはいえ、歩き始めてしまえば雪道も結構楽しいものだ。
僕の前は雪に閉ざされ、僕の後ろに足跡が残る。こんな雪の中を楽しく歩くのは小学校の時以来だろうか。どうしたことか、数年ぶりに僕の心が高鳴っている。
折からの雪の影響は凄かった。一面の銀世界なのだ。丸三年も通い詰めた通学路は、どこも雪に覆われて見たこともない姿を晒している。僕とすれ違うものなど誰もいなくて、道路を走る車すら無い。
結局、僕は誰とも出会わずに学校の校門前まで辿り着いた。そんなこともあり、この場所で僕が今から遭遇する出来事は全くの予想外。そうとも。誰も予測できたはずがない。
瞬間、目映い閃光が僕の目を射る。続くキュルキュルと巻く甲高い音が耳に飛び込んだ。
僕は本当に幸運だったと思う。冗談抜きで死ぬかと思った。派手にスリップしたと思われる白い巨大な凶器。
だが、なんたる幸運。その暴走車を僕は横っ飛びに避けていた。僕は当然のごとく派手に転び、なんとか一命を取り留める。どうやら僕は、お尻を地面に強かに打ち付けたらしく酷く傷む。痛いのは、お尻だけじゃなく体のあちこちが痛かった。
とっさに避けなければ、きっと今頃お迎えが来ていたのは疑いようがない。僕がお尻をさすりながら見上げた先に、雪をまとった白色の外国製の高級車が煌々とライトを灯して停まっていた。そして今、音を立てて車の助手席の扉が開いては激しく閉まる。
「おい、お前! 生きてるか!? 大丈夫だよな!?」
切羽詰まった女のコ特有の金切り声が耳を打つ。赤いコートを着たコが白の高級車から飛び出して僕に駆け寄ってくる。
だけど助かった、と思った瞬間に怒りがわき起こってきた。大丈夫なわけ無いだろ!? と文句の一つでも言ってやろうとそのコの目を向ける。
だがしかし。
その女のコに目を向けた瞬間、僕のそんな強気の考えは一瞬のうちに消し飛んだ。赤いハーフコートの下から覗く見慣れぬ黒い制服、そして嘘のように目鼻立ちの整った 見目麗しい 容姿。
それだけならまだ良かった。だが、赤いのは上着だけではない。問題はその身を包む長い髪。その髪の色は目も覚めるような深紅に染まっていたのだ。
こ、コイツはヤバイ。関わってはいけない。不良、ヤンキー、もはや絶滅を疑われる彼らの生き残りなどというレベルではないかった。
これはもうラスボスクラスの匂いがする。
そのどこを取ってもこんな奴、筋金入りのアウトローに間違いない。庶民と縁があるとも思えない高級車に乗って来たこんな奴が決してまともな人生を送っているわけがなく、これより先の人生も平凡とはほど遠いに決まっている。
「おい! 生きてるなら、なんとか言えよ!?」
予想を裏切らない酷い台詞と共に、そのコは僕を凄い目で睨み付けてきた。どうしてここで僕が睨まれなきゃいけないんだよ!?
「ご、ごめんなさい! ぼ、僕……!」
とは思うものの、僕の口から出たのは謝罪の言葉だ。
「……っ! 良かった、お前、本当に良かった。怪我は無いか? 痛くはないか?」
とても優しく綺麗なアルト。その声を聞いた途端、声が僕の体に染み渡る。僕は痛みを忘れた。だが何よりも信じがたいのは、その優しい声が目の前の恐ろしげなヤンキーの口から出てきたことだ。
「うん、大丈夫だと思う……」
「いや、謝るのはこっち、っていうかウチのバカ親だから。お前、ホントに大丈夫か?
……って、おい、私の荷物投げるな! 義務は果たした
……って、あんたそれでも母親か!?
あんた、たった今自分が何をしでかしたのか判ってるのかよ!? って、おい! 待てよ、この人でなし! 待ちやがれ、バカ!!」
赤毛のヤンキーのコの罵声を余所に、高級車が走り去る。
「なんなんだよ、あのバカ親は! 常識の欠片すらないのかよ!」
彼女はひとしきり悪態をつくと、僕に申し訳なさそうに向き直る……いや、おそらく本人はそう思っているのだと、好意的に解釈した。このコも母親には苦労しているんだな、と思うとなんだか人ごととは思えず、それになんだか可笑しかった。
この不良、コイツは僕に何か言おうか言うまいか迷っているようだ。ためらうぐらいなら不良なんて辞めろよな、などとは言いたくても言えない。それもそのはず、コイツは先ほどよりずっと凄い目付きで僕を睨み付けているのだ。
僕は動くに動けない。考えたくても何も思い浮かばない。思考停止とはこのことか。あまりの出来事の連続に、僕の頭の中は真っ白だ。
なんだというのだ、この状況。コイツの視線が怖すぎる。先ほどから射殺されていてもおかしくないほどに睨まれ続けたのだ。僕はもう息は詰まるし手足も震え、生きた心地など全くしない。
それでもコイツは僕にお構いなしだ。
挙げ句の果てに悠然と僕の方へ二歩三歩と歩み寄って来るではないか。明らかに近すぎる距離に僕の心臓はバクバク鳴って。
今、僕の視界にはコイツの整いすぎた白面しか写っていない。自然と僕はコイツを直視する羽目になり──なんだよコイツ、綺麗過ぎる?
……って、あれ? 今僕は変なことを思わなかったか?
警告を発して止まなかったいつもの僕は、今ここで生まれた場違いな僕に取って代わろうとしているようだった。呼気を感じられるほどの距離から放たれる、コイツのその口元から零れた悪魔の囁きを耳にしたとき、僕の平凡極まりない低俗な魂は恐怖を超えて歓喜に震えた。僕の脳裏に染み渡ったその声が、一瞬で僕を魅了してしまったらしい。これは悪夢なのか? それとも一体なんだと言うのだろう。
「おい、お前」
関わってはいけない。直ぐにでも逃げ去るべきだ。でも僕はコイツと目が合ってしまった。コイツの切れ長の目が僕をまともに捕らえたんだ。お互いに視線が絡み合う、初めてのその瞬間。僕の瞳は魅了の魔力を帯びた視線で射貫かれて、体の自由を奪われた。
「悪かったな。バカ親に代わって謝るよ」
全く誠意など感じられないコイツの言葉。誠意を感じろという方が無理だった。それなのに僕の胸は先ほどから恐怖以外の感情で早鐘を打っているのはなぜなのか。
「ところでお前、ここの生徒か?」
コイツは当然のことを聞いてくる。ブランドものらしき赤いハーフコートの下から覗く、鮮やかな白地に二条の深紅のストライプの映える漆黒のセーラー服。この服がどこの学校のものであるかには直ぐに気づいた。このデザインは
でも、コイツの身につけている制服をよくよく観察してみると、どこか形が違っている。おそらく色々と手を入れて改造しているに違いない。それに
それに性格のきつそうな……いや、もはや他者に金縛りを起こさせるための武器としか思えない切れ長の鋭い目に白い細面の顔。そして何より目を引くことこの上ない、コイツの鮮やかな赤毛に目を奪われる。腰まで伸びた艶やかで豊かな髪は癖一つなく、無造作に流されていた。
でも、未だにコイツの正体が何者であるのかはわからない。
だが、どう控えめに見てもコイツが素行不良のとんでもないヤツであろうことは一目瞭然。コイツに関わり合いになったら最後、骨の髄までしゃぶられるに違いない。コイツとの接触は恐るべき災厄を僕にもたらすことが容易に予想できるのだ。
僕は許されることなら今からでも逃げたかった。もう回れ右してでも走って逃げ出したい。それなのに僕の両足は雪深い地面に根を張って動かず、未だに尻餅をついている。
それ以前の問題がある。あろうことか、僕自身の意思がコイツから視線を逸らすことを拒んでいた。僕の瞳は眼前の、時代遅れのヤンキーそのものであるコイツの姿を追い続けている。
「……お前、私にどこかで会ったことがあるのか?」
コイツの堅く平たい声が僕の耳を打つ。なんということだろう。あまりに凝視していたためだろうか、僕は事もあろうにコイツの興味を引いてしまっていた。
僕の態度や仕草が変に思われたに違いない。でも、気のせいかコイツの声が先ほどよりも柔らかく聞こえたのはなぜだろう。
なんだか顔が熱い。いや、問題はそんな事じゃない。今、たった今とんでもない事をコイツは口にしなかったか? 僕はお前なんか知らない。お前なんか知るものか。早く否定するんだ! お前に会ったことなど無いと。
「僕には覚えがないや。
でも、君に覚えがあるのなら、これが初顔合わせじゃないと思うよ」
僕は何を口走ったのだろう。コイツが眉を潜め、首を傾げる。長い睫毛を伏せ、形の良い薄い眉を眉間に寄せて、何ごとか考え始めた。機嫌を悪くさせてしまったのかも知れない。
「お前、ここの生徒だよな?」
気づけばコイツの目から威圧感が消えている。でも、良かったと気を抜いた僕が愚かだった。
「……他の何に見えるんだ?」
思わず僕の口から漏れた軽口。危険が去ろうとしている気配があったのに、どうして、どうして僕はこうもバカなのか。僕はなぜこんな喧嘩を売るようなマネをしたのだろう。
「なぁ、お前がここの生徒なら、お前に頼みがあるんだ」
う……コイツの興味を惹いてしまった。
だけど僕はコイツのこんな笑顔を予想していただろうか。心底ほっとしたような、安心感を得たときの柔らかい笑み。その僕だけに向けられた微笑は反則以外の何物でも無い。
「……た、頼み?」
逃げないと。一刻も早くこの場所から逃げないと。巻き込まれてしまうのはわかりきっている。だけど、次にコイツが言った言葉は僕の行動をさらに封じたのだ。
「あのさ。職員室まで案内してくれ。私、ここに転入してきたんだ」
笑みはそのままに、コイツは言ってのけた。転入、……だと!? こんな見るからに美人極まりない……いや、一癖も二癖もありそうな危険人物がウチの学校の生徒に!?
――運命は僕を見捨てたらしい。運命を呪うしかない。学級委員である僕が断ればきっと他の生徒が犠牲になる。そんなことは火を見るよりも明らかだ。仕方がない。仕方がないよな。このヤンキー女の世話をしよう。
僕がやらなければ。うん。やり遂げる。それが正しいはずだ。犠牲は僕だけで充分だ。そうさ。僕以外が犠牲になるなど許されるわけがないのだから。
今日だけ、この朝だけだ。今朝だけ我慢しておけば良い。
僕はこの日、命拾いした。だけどその奇跡の代償は相当に大きなものだった。
この事件は正しく僕の運命をねじ曲げたと言えよう。黄色い空に包まれた一面の銀世界で、本来なら僕と接点などあるはずのないコイツと、運命の掛け違いが起こる。
それは今日のこの日、僕がコイツと出会ってしまったことだ。
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