夜空は僕らの歌が好きらしい
燈夜(燈耶)
第1話 プロローグ
やっと終わった。今日の頼まれ事は結構量があったかもしれない。
僕はコピーをやり終えた連絡プリントの束を
さて、言いつけられた作業もこれで全て終わりだ。作業が済んだことを先生に報告に行かないと。
僕は人も疎らな職員室を後にすべく、足早に扉へと向かう。
そう、未春先生は今日もきっとあの場所にいるはずだ。ほら、その証拠に廊下の向こうから今日も軽やかなピアノの音がかすかに聴こえてくるじゃないか。
僕はピアノの音色に誘われるように、いつもの廊下へ足を踏み出した。
中学生活も残すところあと僅か。
僕は第一希望である私立校の推薦枠での合格を早々に勝ち取った。
本来ならば気が張っているであろう、この中学生活最後の日々。だけど公立を受験する予定のない僕にとって、その毎日は卒業までの気の抜けた日々に過ぎなかった。
そう。それは卒業を間近に控えた冬の日の出来事だ。
柔らかに斜陽の光が僕を射る。廊下は紅に染まっていた。そして今日も校舎は夕日に照らされ、長く伸びた影法師を僕は追う。僕が歩を進めるたびに、僕の耳を優しく打ち続けるピアノの音が強くなる。
先生が僕に向けてくれるであろう優しげな眼差しと、綻んだ笑顔が目に浮かぶ。
このクラスになってからというもの、毎日がとても楽しかった。夢のようだったとはっきり言える。理由など今さら言うまでもない。でも、もうすぐ僕は卒業だ。そうなれば僕の大好きなこのピアノの音色ともお別れとなる。
だから嬉しくも苦がい記憶とともに、この音をしっかりと心に刻んでおこうと思うんだ。
三年に進級した春の日、この先生が自分の担任になると知っては舞い上がり、嬉しさ余って逆に気後れしたほどだ。
先生は音大を二年前に卒業したばかりの、モデルのようにスラリとした正に美人としか形容しようのない優さあふれる人。そう、未春先生は本当に素敵な人なんだ。
この先生が生徒に向ける優しさ……という言葉の定義については、それぞれの個人に色々な意見があって正直微妙かもしれない。だけど少なくとも僕に向けられていた優しさは本物だと誓って言える。
僕ら三年五組のクラス担任であるこの先生に、僕は一目で心を奪われた。僕は少しでも先生の役に立ちたかった。未春先生の気を引きたかったのだ。だから正直嬉しくもない『万年委員長』のあだ名通り、クラスの学級委員に僕が推されたときも、僕はむしろ喜んで受け入れた。
僕は未春先生に気に入ってもらいたい一心で懸命に役割をこなし続け、先生のお気に入りの地位を手に入れるに至った。少なくとも僕はそう思っている。
我ながら良くやったと思う。でも、どんな夢にも終わりの時が必ず来る。そして、その瞬間は訪れた。終わりの時は、楽しい夢が覚めることを最も望んでいなかった僕自身の手によって引き起こされた。あっけないその瞬間は、本当に愚かで幼稚な行動がもたらすものなのだと僕に教えてくれた。
それは去年の秋のこと。木々も色づき、中学最後の文化祭も終わった忘れもしない秋の日だった。今日のような夕暮れの赤に染まりつつあった音楽室で、僕は未春先生の手伝いをしていたと記憶している。
僕の勘違いも極まっていたその日、僕は精一杯の勇気を振り絞り、未春先生に自分の想いを告げた。思いつく限りの気持ちを乗せて伝えたと思う。
それがどんな未来をもたらすのか、そのときの僕が予想出来なかったはずはない。今思えば愚かしいにも程があった。でもこの時の僕は、それ以上自分の気持ちを抑えておくことが出来なかったのだ。
そうとも。結果は予想通りだった。
「先生、嬉しいわ。先生ね、実は
でもね、この事は二人の秘密として、ずっと大切に仕舞っておく。そうするしかないの。わかって? 渡月君、先生はあなたの気持ちに応えられない――。ゴメンね。先生、勘違いさせちゃったね」
もう、見たことがないくらい優しい顔をされた。滅茶苦茶に辛かったことを覚えている。わかっていたんだ。わかっていたよ。こうなることは、わかりきっていた。想像した通りだったのだ。
このときの先生は、バカをやらかした愚かな生徒にどのように接するべきかと困り果てたに違いない。でも、未春先生はこんな僕に本当に真面目に向き合ってくれたのだろう。
先生が口にした拒絶の言葉の意味を、僕はそれが判りすぎるほど理解できた。
だから先生の言葉がどんなに優しくても僕には耐えられなくて。気がつけば、僕は何も言わずにその場所から逃げ出していた。
先生はいつも以上に優しかったのだ。僕は先生に酷いことをしたと思う。そう思うと、何故かとても胸が痛かった。
「おはよう。渡月君」
次の日のことだ。この日は未春先生に無視されるのではないか、邪魔者扱いされるのではないか、と恐る恐る登校したことを覚えている。
でも、それは僕のとんだ思い過ごしだった。
先生は僕にいつもと全く変わらぬ態度で挨拶し、澄ました顔で用事を言いつけてくれたのだ。きっと先生だって気まずかったに違いないのに、『全て無かったこと』にしてくれたらしい。未春先生は本当に優しくて、とても強い人だと思う。僕は感謝するしかなく、あの日以来、未春先生に踏み込んだことを口にしていない。
◇ ◇ ◇
音楽室へと続く廊下は既に薄暗く、早くも夜の帳が覆い始めていた。だが、そんなことはお構いなしに、今も目の前の音楽室からは変わらぬピアノの音が軽快に聞こえてくる。
僕はいつものように、三度扉を軽く叩き、中で僕を待っていてくれているであろう未春先生の返事を待つ。
僕の声が届いたのか、ピアノが止んだ。僕は静かに扉を開ける。
「先生、連絡プリントのコピー、終わりました」
自分でも判る、ちょっと固めの声。
「ああ、渡月君ね。こんな遅くまで頑張ってくれていたんだ。ありがとう」
涼しげな未春先生の声がする。いつもと変わらぬ優しい声だった。
「いいえ」
上手く口が動かない。未春先生の前だといつもこれだ。きっと僕は今日も緊張してるに違いない。
「渡月君にはとても感謝してるの。ありがとう。それで、ね? 急な話なんだけど、先生、渡月君にお願いしないといけないことが出来ちゃって。あのね、週明けの月曜日なんだけど、学校に朝一番で来てもらえる? これは渡月君にしか頼めないことなの」
先生の笑顔があった。僕の大好きな笑顔。
あれ……?
今日の先生はなにかが違う。上手く言えないが、いつもと様子が違うのだ。普段はとても大人なのに、今日に限って悪戯を隠す子供のようで。先生が僕に初めて見せる、そんな含みのある笑顔を向けてきたのだ。
「……先生?」
「お願い、出来るかな?」
悪戯? なにかあるのだろうか? 良くわからない。でも、例えそうだとしても、僕は断らない。断るなんて選択肢は初めから無いんだ。それを先生はおそらく判っているに違いない。そして、そんな未春先生の思わせぶりな態度を充分に知った上でそれに逆らえない、未だ夢を見ている僕がいた。
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