第5話 狂犬(5)



 声の方向からして恐らく北棟だろう。その悲鳴は地震が起きた時のものよりも、真に迫っていた。


「な、何が起きたんだっ!?」


「何なの?」


 教室は凍りついたように静かになり、皆何が起きているのか把握しようと耳をひそめる。


 次いで起こった校舎の壁が破壊される轟音と、それに伴った人の悲鳴が混ざり合う。


 そこへ畳み掛けるように不自然な風が吹きロウソクの火が消え、唐突に灯りがなくなり闇が学校を包んだ。


「きゃぁぁ!」


「に、逃げろぉぉぉ!!」


 灯が消えたことで生徒達は完全にパニック状態に陥り、得体の知れないものの恐怖から逃げるように教室から出て行く。




「いやっ!いゃぁぁあぁぁがっ……!?」


「痛い痛い痛い痛い!!」


「助けてっ!誰か……っ!!




 殺人鬼でも紛れていたのか、それとも極限状態による生徒同士の殺し合いになったのか。


 声から察するに、生徒達が何者かに襲われているのは確かだ。


「何が起きたんだ?」


 俺は逃げ惑う生徒達の流れに逆らって悲鳴が起きた方へ走る。


 逃げた所でこの閉ざされた学校に逃げ場はない。上は屋上、下は湖と化している。


 なら、まずはこの現状を把握しなくては始まらない。


「待って!危ないよ!隼人!」


「千花はそこで待ってろ!」


「嫌!置いてかないでよ、隼人!」


 千花は俺について行こうと必死に人波を掻き分け、俺の服を掴む。


 人がいなくなった所で携帯端末のライト機能をオンにし、懐中電灯代わりに周囲を照らす。


「なんだよ……これ……」


 北棟に近づくにつれてコンクリートの壁や床に紅い血がべっとりと塗りたくられている。


 ペタペタと、歩くたびに血だまりが足元で弾く。


 鼻に付く鉄の匂いが嫌悪感を増幅させる。


 だが、おかしい。


 これだけの血が校舎に付いていながら、死体が一つもなかった。


 これじゃあ、まるで。


「隼人……」


 俺はカタカタと恐怖に震える千花を守るように前を歩き、周囲に警戒を張り巡らせる。


「だ……大丈夫。大丈夫だ」


 緊張から異様に喉が乾く。額を冷や汗が伝い、携帯端末を持つ手が汗で濡れる。


「……っあ……た……けて……」


「っ!?」


 暗闇の中から、逃げてきたのであろう女子生徒が血塗れになってズルズルと地面を這いつくばっている。


 暗くてよく見えないが、足でも怪我をしたのか?

 だとしたら早く治療をしなければ。


「おい、大丈夫っ……なっ!!?」


 駆け寄ろうとした足と言葉はそこで詰まった。



 ライトに照らされた女子生徒の腰から下の体はどこにも無く、千切り取られた腰から覗く内臓はピクピクと鼓動を打ちながら床に散らばり、床を紅く染め上げる。


 自分の下半身が無いことに気づいていないのか、口から血を吐きながら生気のこもってない目で俺たちを見る。


「た……すけ……」


「ひぅっ……」


 そこまで言うと、女子生徒は目を開けたまま動かなくなり、千花が隣で小さな悲鳴を上げる。


 俺は喉まで込み上げる吐き気を抑えながら、目を反らす。


 こんな事、人間にはできない。


 犯人はもっと規格外の生物だ。


 人程度が太刀打ちできる相手じゃない。



「ぎゃぁぁあっ!!!」



 生徒達が逃げた方向からも悲鳴が聞こえてくる。


 犯人は一人じゃなかったのか!?


 向こう側にもいるのなら、俺たちは挟まれたことになる。




「隼人っ……あ、あれ……何?」


「え……?」



 何だ、あれ。




 千花に指摘されて初めてその存在に気づいた。


 この廊下の行き止まり、その壁だと思っていた物にライトを向けた瞬間、のろりと動く。



 目を凝らす事でようやく見えるその存在は悍ましい化け物そのものだった。



 視界の先にいるのは全身毛むくじゃらの獣。


 その鋭い牙が生えた口元は誰かの血で血まみれになっており、天井まで届く二メートルほどの巨体を太い足が支えている。


 例えるならば、狼のような頭に、熊のような体。


 鉤爪の生えたその手にはかつて人だった者の肉が握られており、それを骨ごとぐちゃぐちゃと音を立てながら息を荒くして貪り食っている。


 人を食べている……のか?


 頭が真っ白になるのが分かる。


 何も考えられなくなり。足が動かなくなる。


 これは化け物だ。


 こんな相手に勝てるわけがない。


 逃げ切れるわけがない。


 無理だ。



 死ぬ。



 死ぬ。死ぬ。死ぬ。



 怖い怖い怖い怖い怖い!!



「隼人……隼人!!」


 千花が俺の体を揺すり、緊張が緩み、ようやく体が動くようになる。


「に、逃げるぞ!」


「うん!」


 俺達は走り、逃げる。


 待てよ。さっきの悲鳴。あの化け物がもう一体いるってことなのか?


 嘘だろ?


 そんなの助かるわけが……


「グァァァァ!!」


 化け物は俺たちの後ろから凄い勢いで追いかけてくる。


 化け物が一歩踏み込むたびに床が軋み、校舎が揺れる。


 その大きな手を振りかぶり、逃げる俺めがけて横薙ぎに振るう。


「うおっ!?」



 俺は身を捩らせてなんとか避け、化け物の腕は校舎の壁を突き破る。


 俺は、偶然にも廊下に落ちている箒を拾い上げ、化け物に向かって構える。


 これでなんとかなるとは思っていないが、千花を逃す時間稼ぎにはなるだろう。


「千花!先に逃げてろ!」


「え……でも!」


「いいから!!早く!」


「う、うん!」



「おい、化け物!俺が相手だ!!おらぁぁぁ!!」



 千花が俺から離れたのを確認すると俺は化け物の足に向けて箒をバットのように構え、振りきる。


「っつぅ……」


 箒の柄は化け物ぶつかるが、かすり傷一つつけることなく、耐えきれずに真っ二つに折れる。なんて硬さだ。


 だが、これで化け物の足は止まった。


 俺はすぐに折れた箒の一つを掴み、足元に感じた違和感を確かめるべく下を向く化け物の顔に向かって投擲する。


「グギャァァァァァァァ!!」


 箒は化け物の片眼に深々と突き刺さり、化け物は苦しそうな悲鳴を上げる。


 だが、化け物は傷をものともせず、頭を左右に振りながら腕を周囲に振り回す。


 校舎の壁が化け物の腕に当たるたびにヒビが入り、破壊される。


「これでもダメなのかよっ!?」


 俺は暴れる化け物を前に、残った片方の箒の柄を握りしめ、もう一度眼球に投擲する隙を待つ。


 そして、腕の隙間から見えた化け物の目に向かって投げようとした瞬間。振り回した化け物の腕が箒を掴んだ。


「あっ!?」


 そのまま掴まれた箒ごと左に振られ。


 左から出てきた腕が俺に向かって横薙ぎに振られる。


 ヤバい、錯乱しているせいで動きがさっきより早い。


 当たる!?


 あ、俺。死……


「隼人!!」


「え?」


 服が強く引っ張られ、俺は箒を手から離して後ろに倒れこむ。


 俺の服を引っ張ったのは、千花?


 暗闇の中で赤い雲に照らされた千花の横顔が見え。





 ぐちゃり。




 千花の身体が化け物の手に握られた。




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