愛すること、信じること

 物事を先延ばしにして、良かったことは一つもなかった。

 得られるものはどんどん少なくなり、先延ばしにしたことによる害だけがどんどん積み重なっていく。

 何度も何度もそのことを経験したというのに――――今度もまた先延ばしにしようとしてしまった。


 勇敢な黒騎士は、勇者がいなければ何の決断もできなかった。

 魔神王に立ち向かうと決めたのも、王国のために努力しようと決めたのも、そしてその王国を見限る決断をしたのも、今ここにはいない勇者リーズであって、エノーはそれに付き従っているだけだった。


 冒険者の頃もそうだった。

 彼は、周りの仲間が決めるのに従うだけで、自分から進んで何かをしようと提案した記憶が一度もない。戦いも、探索も、採取も、どれもそこそここなせた代わりに、どの専門家にもなれなかったのだ。


 だから今…………エノーは自分を変える為の一歩を踏み出した。


 ロザリンデを愛している。

 ずっと共に戦い、絆を育んできた女性には、ずっと自分の隣にいてほしい。ロザリンデも同じ気持ちかどうかの確証はないけれども、この想いだけは先延ばしにしたくなかった。


「ロザリンデ……君が俺のことを俺以上に知っているのと同じだ。俺は君のことを、君以上に知っているつもりだ。ロザリンデ、君は王国と言う泥船を降りたいだけじゃない。本当の「聖女」になりたいのだろう?」

「さすがエノー、何もかもお見通し、ですね」

「君は俺の比じゃないくらい失うものが多いはずだ。けれども君は……こうしてすべてを失うかもしれないことを承知で、俺のところに来てくれた。それが…………とても嬉しかった。だから! 今度は俺が、君の手を引いていきたいんだ! 後悔なんてさせない! 俺が君を本当の「聖女」にする!」


 エノーは、ソファーに腰かけて泣きそうな顔をしているロザリンデに、すっと手を差し伸べた。

 騎士になってから、女性に手を差し伸べたことは形式的には何度もあったが…………心から愛する人には自然と真心がこもる。そして、その真心が相手の心を打つのだ。

 ロザリンデは、うつむきながらゆっくりとエノーの手を取った。


「……不思議ですね。リーズがどこかに行ってしまった時よりも、エノーがどこかに行ってしまうのではないかという思いの方が、私の心を不安にさせるのです。エノーはきっと、この国から出て行ってしまう…………その時が来たら、私は無理やりにでも、それこそ……エノーから迷惑に思われても付いて行こうと、そう決めていたのです。それなのに、エノー…………まさか、あなたから手を差し伸べてくれるなんて」


 エノーの手を強く握っていたロザリンデの力がわずかに緩んだ――――その直後、ロザリンデはエノーの胸に思いきり抱き着いた。


「おぉっ!? ろ、ロザリンデ!?」

「ふふ♪ 私、一度やってみたかったのです。リーズがよくアーシェラさんにぎゅっと抱き着いて、顔をすりすりしていました。私もあんな風に………好きな人の胸に、思い切り…………すべてを、投げ捨てて、顔をうずめて………」

「ロザリンデ………泣いているのか?」

「泣いてなんか、いません。聖女はいかなる時でも、涙は、流さないものです」


 エノーの胸に顔をうずめるロザリンデの声は、明らかに震えていた。

 大きな手で、輝く長い金の髪をゆっくり撫でる。エノーがロザリンデの髪の毛に触れたのも、この日が初めてだ。


「無駄だった………私の今までの、我慢や、努力は、すべて無駄…………そう思えてならなくて、とても怖いのです。私の、20年の人生は…………ただの「看板」になるため、だったのかと」

「そんなことはないさ。ロザリンデは自分に出来ることを全力でやってきたからこそ、公明正大で厳しくも優しい聖女様として、世界中の人々の憧れになっているんだろう。むしろ、ロザリンデは今のままじゃ物足りない…………だからこそ、広い世界に飛び立ちたいと思っているのだろう」


 ロザリンデもまた、エノーと同じ悩みを抱えていた。

 しかも彼女は、生まれてから今までの自分の人生は、すべて間違いだったのではと不安だった。それをエノーはきっぱりと「間違いではない」と言い切った。

 これは方便でも何でもない。エノーは心の底から、ロザリンデが自分にも他人にも厳しく生きてきたことを尊敬していた。あれだけガチガチの管理体制下にあってなお、ロザリンデは今以上の自分に出来ることを模索し続けてきたのだ。その弛まぬ向上心が、今の中央神殿の態勢への不満につながっているのなら、それは彼女が進歩している証だろう。


「…………エノー、覚えていますか? 私たちがこうして、話すきっかけになったあの夜から、私たちはずいぶん近づきましたね」

「そう、だな。まさかお互いの失恋の愚痴から、ここまで発展するなんて、思ってもなかった」


 エノーはロザリンデの顔を両手でそっと包み、ゆっくり顔を上げさせた。窓から入る月の光に照らされたロザリンデの白い顔はとても綺麗で…………紅潮した頬を、一筋のしずくが流れていたが、その表情はとても幸せそうだった。


「愛してます、エノー。これからも私をお導き下さい」

「ロザリンデ、愛してる。一生君を守ると誓おう」


 二人の唇が、ゆっくりと重なった。

 リーズとアーシェラが同様のことをする10日前のことだった。

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