泥船

「ふふっ、今日はエノーにたくさん驚かされましたから、いい仕返しができました」


 ロザリンデは、お湯を沸かしつつお茶の準備をしながら、楽しそうにそうつぶやいた。

 朝突然の来訪から、アーシェラの手紙、それにセザール王子との遭遇から守ってくれたこと…………今日だけでロザリンデは何回ドキッとしたことだろう。

 ならば、こっちもエノーをドキッとさせてやらないと不公平ではないだろうか。そんな思いで、ロザリンデはエノーを驚かすためだけに、術を駆使して音もなく彼のところに忍び寄ったのだ。

 以前の堅物ロザリンデなら考えもしなかったことだが、エノーと長く時間を共にしたせいで、彼女は少しずつ変わってきているようだ。


「私が暗殺者でしたら、もしかしたらエノーさんを暗殺できたかもしれませんね」


 もちろん、そんなことはしないが…………

 「黒騎士」と呼ばれた熟練の冒険者であるエノーがロザリンデが近づいているのに気が付かなかったのは、それだけ彼が疲弊し、心に余裕がないからなのだろう。

 そんなことを考えていると後ろの扉が開き、珍しくエノーが台所に入ってきた。


「ロザリンデ、たまには俺にも何か手伝わせてくれ」

「あらエノー、どうしたのですか?」

「なんというか……今夜は君にやらせっぱなしなのが、なんか悪い気がして」

「いいんですよ。前にも言いました通り、私は好きでやっているのですから…………ん、いいえ……むしろ、やらせていただいている、と言うべきでしょうか」


 エノーいつもは居間で、ロザリンデの入れるお茶の味を想像しながらゆっくり待っている。そして、ロザリンデにお茶を入れてもらうことに特に罪悪感を覚えている様子はなかったというのに、今夜はやけに落ち着かないような雰囲気だ。

 だが、その理由はすぐに分かった。


「この家の台所、俺は結局一度も使わなかったからな。だから、せめてここを去る前に、少しは何かしたくてな…………」

「そうでしたか。では、ティーカップを出していただいてよろしいですか」

「ああ……………」

「…………」

「…………」

「…………」


 奇妙な沈黙の後、エノーはあまりにもあっさりしたロザリンデの反応に、逆に首を傾げた。


「…………驚かないんだな」

「仕返しの更に仕返しをしようとしても無駄です♪ 残念ながら、私の予想を超えることはありませんでしたね」

「いや、しかしだな……」

「すぐにお湯が沸きます。お話はお茶を飲みながらゆっくり致しましょう」


 そう言ってロザリンデは口に右手の人差し指を当て、パチンとウィンクをした。


「それに…………きっと、私とエノーは考えていることは同じですから」


 せめてここを去る前に――――エノーのその言葉に、ロザリンデは全く動じなかった。

 意趣返しと言うわけではないが…………それでも、ロザリンデが驚かなかったことが、逆にエノーにとっては意表を突かれた思いだった。




「この国は…………もう終わりだ」


 エノーは紅茶を一口啜り、ふーっと深いため息とともにそう言い放った。


「理由は一言では説明できない。それに、俺は政治だのなんだのはあまりよくわからない。だが……それでも、この国が足元から崩れようとしていることは、何となくわかるような気がするんだ。仕事中も……パーティーの間も…………なぜか泥船に乗っているようで、落ち着かないんだよ」

「と、言うことは…………降りたいのですね、エノーは」

「……君の前だからはっきり言おう。俺は、もう降りたい」


 胸のつかえを吐き出すように心情を吐露するエノー。それをロザリンデは、聖女の――――まるで大きく成長した我が子を見守るような、慈愛に満ち溢れた表情と口調で受け止めた。


「エノー、貴方の気持ちは私も痛いほどわかります。このところエノーのお話は、仕事や貴族たちへの愚痴ばかりでしたからね」

「ああ……俺だって愛国心はある。王国の片田舎に生まれて、王国のために戦えることは俺の誇りだった」


 エノーは幼いころから、王国貴族になるのが夢だった。

 自分の力で大勢の人々を守り、平民では手の届かないような豪奢な生活を送りたい。かなり俗っぽい夢ではあったが、彼はずっと本気で夢に向かって努力し続け、そしてとうとう夢を叶えたのだ。


(エノーは……魔神王討伐の戦いで、誰よりも多く血を流していました。腕を失ったこともありましたし、立ち上がれないような傷を受けたこともありました…………。そうまでして得たものをすべて失うのは、とても勇気がいることでしょう)


 それなのに、今エノーは…………せっかくかなえた夢を、すべて捨てようとしていた。その決断がどれほど苦しいものか…………聞いているロザリンデも、悲しくて胸が締め付けられるようだった。

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