14日目:記名

リーズは、アーシェラから差し出されたペンを見て、とても困惑した。

 目の前にあるのは、村で一番大事な書類。ともに汗と涙を流し、助け合って生活してきたメンバーの固い結束の証。その中に…………リーズの名前を入れてよいというのだ。


「本当に……いいの?」

「いや、本当ならこの名簿に名前を記入するには、3家族以上の賛成がないといけない決まりになっているんだ」

「じゃあなんで、リーズは……」

「………………たとえリーズが遠く離れてしまっても、リーズがこの村にいたっていう記憶をとどめておきたいから」


(理由としては最低もいいところだ。でも……本当の理由なんて、言えるわけがないから……)


 アーシェラは、初めてリーズに嘘をついた。

 名簿の話題が出た時……リーズが意味深な空欄に気が付いたとき、アーシェラはあえてリーズにその理由を考えさせた。それは別にアーシェラがリーズに意地悪しようとしていたわけではない。


 リーズに本当のことを話していいのか、すぐに決断ができなかったからだ。


(ねぇリーズ……本当のことを話したら、君はなんて言ってくれるかな?)


 かつてアーシェラが開拓団を結成し、いざ出発となったとき……アーシェラは全員に開拓団の結成を祝して名簿に記名するよう呼びかけた。これには全員が喜んで賛同し、ブロスの提案で冒険者パーティーのメンバー名簿式に名前を連ねていくことが、満場一致で可決した。

 パン屋のディーターが即席で四角いパンに「連盟状」と彫って焼き印とし、立派な羊皮紙の一番上に立派な文字とパンのいい匂いが刻まれた。


 さて、開拓団の結成の中心となったアーシェラが一番上に名前を書いたまではよかったが、立場上2番目になるべきミルカが首を縦に振らなかった。

 その代わり彼女はこう言った。「2番手には、将来村長のお嫁さんになる方が名前を書くべきですわ」――――と。その意見にアーシェラはなかなか納得しなかったが、ブロス一家やレスカたちの説得によりアーシェラが折れ、ミルカの意見が正式に採用されたのだった。


(リーズがこの場所に名前を書いてくれたら…………僕は一生結婚しなくていい。リーズより上に僕の名前があるなんて恥知らずもいいところだけど、名簿の上だけでもずっとリーズの隣にいたいんだ)


 動揺を隠せないリーズとは対照的に、一見平然としているように見えるアーシェラ。

 しかしその心の中は、まるで嵐が吹き荒れるがごとく激しくざわめいていて、さりげなく左手で胸を押さえていないと、心臓が胸から飛び出していきそうだ。


 彼は、自分が今していることへの卑劣さが嫌になりそうだった。

 やっぱりやめたとペンを引っ込めて、名簿を箪笥の奥深くにしまってしまいたい。

 確かに勇者の名前が村の名簿に刻まれていれば……数十年、数百年後には貴重な文化遺産となって、その価値は計り知れないものになるに違いないが、そんなものでさえ今の彼には建前にしかならなかった。


 二人は沈黙し、10数秒の間……外の雨音だけが室内に響き渡る。

 わずかな時間なのに、永遠と続くように感じた停滞を破ったのはリーズの方だった。

 彼女はためらいながらもアーシェラからペンを受け取り、名簿に正対した。


「シェラ……」

「どうしたのリーズ」

「ゴメン。やっぱり、今回はパスでっ!」


 リーズは何かをごまかすような笑顔で、アーシェラにペンと名簿を突き返した。

 一瞬アーシェラはショックを隠しきれず呆然としたが、リーズの前で恥ずかしい真似は出来ないと思い直し、仕方ないといった表情で名簿とペンを受け取った。


(ばれたかな? それとも振られちゃったかな?)


 そんなことを考えながらも、アーシェラはむしろほっとした。

 やっぱりこんなだまし討ちのような方法はよくない。自分のちっぽけな欲を満たすために、村の掟、道徳心、勇者のネームバリューを貶めるなんてもってのほかだ。

 もう二度と、この空欄にリーズの名前が刻まれるチャンスはないかもしれない。でも、リーズと過ごす日々の思い出は、もうアーシェラの心にしっかりと刻まれている。ならばそれで十分ではないか。


「じゃあ、リーズはお風呂沸かしてくるっ!」

「ありがとう。その間に僕は片付けておくよ」


 リーズは結局、空欄に名前を書かなかった。

 彼女は彼女で……アーシェラの隣に名前を刻むという誘惑に自分でストップをかけていたのだ。


(パーティー名簿は神聖不可侵。アーシェラの連盟状はそれ以上の価値がある。リーズの我儘で名前を書いていいものじゃないよね?)


 もし自分がリーダーではなく、普通のパーティーメンバだったとしたら――――リーダーが勝手に、一緒に戦っていないようなぽっと出の人の名前を、2番目に書いてしまったらどう思うだろうか?

 リーズは危うく誘惑に負けて、勇者としてあってはならない禁忌を犯すところだった。ここで自制できたのも、ある意味アーシェラが昔からいろいろと教えてくれたおかげだ。


(それに、あそこに名前を書いたら…………リーズは絶対に帰りたくなくなっちゃうから……)


 リーズはまだ迷っている。約束通り、期日までに王国に帰るべきか……約束を破ってアーシェラと一緒に暮らすのか……。今やリーズは勇者という立場にある。自分の我儘で、大勢の人に迷惑を掛けていいのか…………

 そむけたい現実。だが、決断しなければならない時は、確実に彼女に迫っている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る