第60話 棟梁の一杯

「え?なに棟梁・・・今日は呑まないの?」

「あぁ・・・今日は、やめとく。」

 いつもなら一も二も無く熱燗を頼む棟梁なのだが・・・。

「どうしたの?どっか悪いの?」

「いやぁ、そうじゃないんだけどさ。」

「じゃぁなに・・・オカネナイノ?」

「はははっ、そうじゃないんだよヨーコちゃん。」

 今日は「呑まない」と言っている。

「じゃぁなにぃ?どうしちゃったの?」

「いやぁ・・・ちょっと思うところあってさ。」

 お茶と冷奴なんて、まるで精進料理じゃない。

「本当にこれだけで良いの?」

「あぁ・・・。」

 自分を納得させるように深くうなずく。

「ふ~ん・・・明日あたり槍でも降らなきゃいいけど。」

「な・・・結構な言い分だなぁ。」

「だって、棟梁が『呑まない』って結構なことよ?」

「あ・・・あぁそうかも、しれねぇなぁ・・・。」

 お茶を持つ手が、いつものお猪口を持つ形になっている。

「ねぇ・・・なんかあったの?」

「あ・・・あぁ。」

 クイっとお猪口を・・・いや湯飲みを傾けて、

「思い出してぇんだ・・・。」

 と一言。

「え・・・?」

「あぁ・・・仕事終わりの一杯が、あんなに旨かった頃を、さ。」

「・・・ん?」

「・・・なに、ヨーコちゃん今『そんなこと?』って思った?」

 あら、顔に出てたかしら。

「いやぁだってさぁ、仕事終わりの一杯っていつでも旨いもんなんじゃないの?」

「う~ん、それがさぁ・・・俺ぁあの頃の感動を忘れちまったようでさぁ。なんだか、毎日惰性で呑んでるような・・・『呑むのが当たり前』になってるような、なんかそんな気がさぁ・・・。」

 冷奴を一口大ひとくちだいに切りながら続ける。

「一日の仕事を満足に終えて、この一杯に無事にありつけた感謝の気持ちとかさぁ・・・そういうの、忘れちまってるような気がしてさぁ。」

「うん・・・それで?」

「あぁ・・・だからさぁ、しばらく呑むのを我慢したら・・・ふっ、少しはあの『有り難さ』を思い出せるんじゃないかと、思ってさ。」

「ふ~ん・・・。」

 なんとも真面目な理由に、ちょっと戸惑うわね。

「なっ、だからさヨーコちゃん。しばらくは『お酒抜き』で頼むわ。」

 なんて真顔で言われたら・・・。

「ぁ・・・あ、えぇ。」

 どうにも、からかいたくなっちゃうじゃない。

「あ、じゃぁ棟梁。アジのなめろうなんてどう?」


 アジを叩く。ダダダダダダ・・・と、叩きに叩く。この際腕がパンパンになるのは良しとしようっ。

「はぁ~い、お待たせ~。」

「おぉ~、いいねぇ。」

「ふふ~ん、冷酒が合うわよ~。」

「おぉ・・・っん?ヨーコちゃん?」

 こんな誘いで釣られるほど、棟梁は甘くないわよね。

「あ・・・ごめんごめん、つい癖で・・・ふふふ。」

「も~・・・ふっ、いただきます。」

 脂ののったアジの旨味と味噌の風味とが滑らかな食感と共に口いっぱいに広がり、薬味として入れたネギの清涼感が後味の爽やかさを演出している。魚好きにはたまらない瞬間。まして酒好きには・・・。

「はぁ~、美味いねぇ。」

 棟梁の左手が、お銚子を探している。

「ね~、イケるでしょ?」

「あぁ、これは・・・良いねぇ。」

 惑いの左手をなんとか器に落ち着けて、もう一口。

「うんうん・・・ご飯に乗っけたら、最高だろうねぇ・・・。」

「でしょ?あ、ご飯もいる?」

「うん、お願い。」

 うんうん、良いペース。

「ところで棟梁?明音さんとこの看板は、どこまで出来てるの?」

「あ?あぁ、もうほぼ形は出来てるんだ。あとは・・・もう少しだな。色味の打ち合わせとかしたりして・・・だな。」

「良いのが出来そう?」

「あぁ、案外可愛らしいのが出来そうだよ。」

「ふふ、それなら良かった。あ、次、なんにする?まだ食べ足りないでしょ?」

「あぁ・・・じゃぁ、何か揚げ物をもらおうかな。」

「揚げ物ね・・・あ、じゃぁちょっと面白いのがあるのよ。こないだ思い付きでやってみてねぇ、結構良かったの。試してみる?」

「あぁ、良いねぇ。」

 缶詰、サバの味噌煮。これにパン粉の衣を付け、フライにする。これもお酒に・・・。

「はぁい、味付いてるからそのままどうぞ~。」

「おぉ、これまた・・・っ。」

「熱いから気を付けて・・・。」

 と言った時には、もうハフハフしている。

「は・・・っ、ふ・・・っん。うん・・・ヨーコちゃん、いつの間にこんなのを。」

「ふふふ、ねっ。辛口が合うわよ~。」

「あぁ・・・んっ、ん~もうっ、ヨーコちゃんっ。」

「へ?あぁ・・・はは、ごめんごめん。」

 うん、もう少し楽しめそうね。

「もう。はい、お茶のおかわりちょうだい。」

「あぁ、はいはい。」


 カウンターには、攻防の跡。

 シメは、いつもなら「ねこまんま」だけど・・・。

「いやぁ、今日はこの辺にしとくよ。結構食べたしね。」

「あ、あぁ・・・ふふ、そうね。」

 お酒に合いそうなのばかり出したけど、今日は釣られてくれなかった。

「それにしても、本当に呑まなくていいの?」

「あ?あぁ。」

「ふ~ん・・・なんか、心配。」

「いやぁそんな心配することじゃないって。体はこの通り元気なんだからさ。」

「それもだけどさぁ・・・素面しらふで帰ったら奥さんビックリしないかなぁ?」

「あ?ふははっ、そうだねぇ。ビックリするかもしれないねぇっ。」

「ねぇ。」

「ふふ・・・まぁ、その辺のことは、明日報告するよ。じゃぁ、またね。」

「うん、ありがとね~。」

 ふむ、明日こそ・・・。


 ・・・と、意気込んだものの・・・。

「ぷはぁ~っ。く~っ、空きっ腹に呑むビールっ。良いねぇ~っ。」

 その牙城は、あっさり崩れていた。

「棟梁・・・?」

「いやぁ~、ヨーコちゃん。この手があったんだよ~。いつもの熱燗をキンキンに冷えたビールに変えるだけで・・・ふ~っ、こんなにも旨いもんかね~。」

 仕事終わりの一杯を、満面の笑みで堪能している棟梁。

「いやぁ~、みんながよく『まずはビール』って言ってるのは、こういうことだったんだねぇ。はははっ。」

「あぁ・・・えぇ。」

 楽しそうに呑んでくれるのは嬉しいけどさ・・・ねぇ、誰が吹き込んだのよ。

 おかげでこっちは消化不良よ。

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