翌日、僕は清々しい気分で朝を迎えられた。

 あかねの『おまじない』のおかげだろう。だが、それ以外にも肩の荷が下りたというか背中の問題が減ったことも大きい。

「まあ、一つ減ったくらいでは大した違いはないんだけど……」

 食卓に来ると、いつものように朝食の用意がされていた。誰もいないけれど、食前のあいさつをしてから食べ始める。

 だが、かすかに違和感を覚える。それはみそ汁のダシがいつもと違う程度のもの。僕は、みそ汁といっしょにそれを飲み込んだ。

 今日はあかねとの約束があるから、早めに家を出ようと弁当箱に手を伸ばす。だが、いつもの場所に見当たらない。今日はないのかと探してみると、なぜかキッチン側のテーブルの上にあった。

 弁当箱を鞄に入れて家を出る。時間の約束はしていないけれど、あかねは真面目な性格だからすでに待っているかもしれない。そう思って小走りで門まで向かう。だが、僕の予想は外れた。それでも、すぐに来るだろうと思ってその場で待つ。

 しかし、いくら待っても彼女が来る気配はない。そろそろ家を出なければ学校に遅刻してしまう。僕と同じく徒歩で通っているから、学校までどれだけ時間がかかるか分かっているはず。しびれを切らした僕は、離れ屋まであかねを迎えに行くことにした。

「嫌な予感は当たらなかったのに、小さな違和感がポツポツと……」

 モミジの木の枝を避けながら小走りで庭を駆け抜ける。昨日来たばかりとはいえ、やはり少し緊張する。呼吸を整えてから離れ屋の戸を強めにノックする。

「はーい」

 聞こえてきたのは、あかねの母親の声だった。戸が開かれて彼女が出てくる。

「おはようございます」

「あら、おはようございます。真実さん、どうされたんですか?」

「今日は、あかねさんと登校する約束をしていたんです。けれど、なかなか来ないので呼びに来ました」

 僕は笑顔を作って言う。彼女は、申し訳なさそうに答える。

「すみません。あの子、風邪が悪化したみたいで今も寝ているんです」

「え、そうなんですか。大丈夫かな。じゃあ、お大事に、とお伝えください。」

「はい。承知しました。それでは、お気をつけて行ってらっしゃいませ」

 そう言って彼女は、深々と頭を下げる。僕は体を反転させて歩き始めるが、あることを思いついてまた振り返る。彼女は早々に頭を上げて家に入るところだったのですぐに呼び止めた。

「あかねさんが起きたら、朝食とお弁当をごちそうさま、とお伝えください」

「はい。承知しました」

 彼女はハッキリとそう言った。また違和感が増えた。

「でも、今日は手紙がないんですね」

「え……手紙?」

「はい。あかねさんは、いつもお弁当に手紙を付けてくれていたんですよ。でも、今日に限ってなかったので……。風邪だから忘れていたのかもしれません」

 残念そうに僕が言うと、彼女は苦笑した。


 朝の清々しい気分はどこへ行ったのか。僕はもやもやとした気持ちで授業を受けていた。数学の授業の数式も、外国語の授業の新しい単語も、全く頭に入ってこない。

 ようやく昼休みになり、友人と共に昼食を食べることにした。いつものように弁当箱を広げると、すぐさま友人の指が動いた。それを遮ろうと手をかざすが、軽く払われてしまう。

「もらった!」

 わざとらしいかけ声とともに弁当箱から卵焼きが消えた。

 友人にとっては、おすそ分け。僕にとっては、横取り。

 よくある昼の一幕だが、今の心境では笑えない。

「うん? いつもの卵焼きと違うな。味付けがしょっぱい」

 友人は首を傾げて食べている。その言葉を聞いて、僕もすぐに箸を取って卵焼きを食べる。確かにいつもと違う。さすが何度も弁当のおかずを横取りしてきただけのことはある。

 僕は弁当箱をしまい、すぐに帰る準備を始める。

 それを見た友人は、慌てて尋ねてきた。

「おい、突然どうしたんだよ。早退するのか?」

「うん。卵焼きの味付けに違和感を覚えたので帰ります、と教師に伝えてほしい」

 それだけ告げると僕は教室を出て、階段を駆け下りていく。玄関まで来ると、近所のパン屋が出張販売をしているところだった。そこに並んでいる生徒達は、パンを買うことに夢中で騒がしい。これなら少しくらい大きな声を出しても周囲に気づかれないだろう。

「おーい、幽霊」

 下駄箱で靴を履き換えながら呼びかける。残念ながら反応はない。

「おーい、幽霊。変態幽霊や―い」

 今度はもう少し大きな声で呼びかけてみた。だがやはり反応はない。

「ダメか。まあ、でも、エロ本でもお供えしておけばひょっこり現れるかな」

 諦めて帰ろうと玄関の戸を開ける。

 すると、ガラスに映る自分の背後に黒い影が出現した。

 それは人の形となり、黒いスーツ姿の若い男になった。

 僕は振り返って幽霊にあいさつする。

「昨日ぶりだね。元気?」

「お前は幽霊を何だと思っているんだ。死んでいるのに元気も何もないだろ」

 幽霊は、仏頂面で答えた。けれども僕には、少しだけ嬉しそうに見える。

「なんだ、成仏したんじゃなかったのか」

「冥土の土産にセーラー服の女子高生を拝んでから成仏しようと思ってな」

「お前は本当に欲望に忠実だなぁ。ていうか、ブレザー派じゃなかった?」

「知らないのか。男子三日会わざれば刮目して見よ、というだろ」

 知らねぇよ。というかそれ、使い方が違うだろ。先人の言葉をバカにするな故人。


「ところで、冥土の土産にメイドを救う気はないか?」


「はぁ?」


 幽霊は、お前のつまらない冗談に付き合っている暇はないと言いたげな顔をしている。


「今度こそきっちり三人目を救って、お前を成仏させてやる。そう言っているんだよ」

 

改めて僕は提案する。


 幽霊は、詳しく聞かせろ、と乗ってきた。

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