「真実さん。あの、大丈夫ですか?」

 勝手に能力を使って僕の心の傷を癒し、ストレスを吸収しておいて何を言っているのだ。

「僕は大丈夫。それよりもあかねの方だ。そんな状態で能力なんか使って大丈夫なのか?」

 僕が焦って尋ねると、彼女はケロッとした顔で答えた。


「大丈夫ですよ。ただの風邪ですから」


「は?」


 思いもしない返答に間の抜けた声が出た。

「学校にも風邪で休むと連絡しましたが、母や担任の先生から聞いていませんか?」

 あかねは、きょとんとした表情で僕を見上げる。幽霊は背後で苦笑している。

 体調不良で欠席したのは本当で、顔色が悪いのも目が虚ろなのも風邪が原因?

 そこでようやく自分の勘違いに気がついた。

 情けなくて恥ずかしくて顔が熱くなる。

「あの、すみません。足に力が入らなくて……もしよろしければ部屋に連れて行っていただけますか?」

 あかねが上目遣いでお願いをしてくる。

 先ほど倒れ込んだのも、立ったままドア越しに会話をしていて疲れたからだろう。僕の勘違いでまた一つ彼女に迷惑をかけてしまったようだ。

「くくく。迷惑をかけたお詫びにお姫様抱っこで運んでやれよ」

 幽霊がヒューヒューとわざとらしく冷やかしてくる。だが、たまにはこいつの意見を採用してみよう。今日はたくさん恥をかいた。だったら、恥の一つや二つ増えても構わない。

 僕は彼女の背中から左腕を回して胴体を支え、右腕を彼女の膝の下に差し入れる。何事かと慌てるあかねを落ち着かせ、腰を痛めないようにゆっくりと持ち上げた。

「わ、わ、わぁ。すごいです。こんなこともできるようになったんですね」

「この家は、文武両道が、基本方針、だから……ね!」

「そうでしたね。あれからずっとがんばっていらっしゃいましたものね」

 心と体を強くするため、丈夫にするためなら何でもやった。それなりの努力をしてそれなりの結果がついてきた。それでも僕の評価は、変わることがなかった。

「でも、大丈夫ですか?」

「大丈夫だよ。『おまじない』をかけてもらったんだから」

「いえ、私の部屋は……二階なんです」

「だ、大丈夫だ真実。ふかふかちゃんに比べたらぺったんちゃんは、ず、ずっと軽いはずだ」

 ありがとう幽霊。

 確かに蒲原に比べたらあかねは小柄だし、細身だし、イケる……はずだ。

 階段は気合で上り切った。それから部屋の布団に寝かせるまでは、見栄と矜持きょうじで乗り切った。

「ありがとうございました。すごいです。やっぱり真実さんも男の子ですね」

 あかねから笑顔でそう言われた。褒められたのか、慰められたのか、よく分からない。


 僕は大きく咳払いをしてから正座して深々と頭を下げた。

 そして畳に額をくっつけて静止し、大きな声で謝罪の言葉を述べる。

「あかねさん。申し訳ありませんでした!」

 彼女からは戸惑いの声が上がった。それでも僕は頭を上げない。

「僕の能力は知っていると思うけど、君の背中にはレッテルが貼られている。そのレッテルを貼ったのは、この僕だ。あの冬、傷だらけの腕を見た時に【傷女】なんて言ったせいだ……」

「真実さん……それは……」

 あかねがどのようにして意識を取り戻したのか。

 どうして僕が眠ってしまっていたのか。

 今でも原因を思い出せていない。

 だが、おそらく彼女の母親が看病してくれたおかげだろう。

 きっと僕は、意識を取り戻すのを待っているうちに眠ってしまったのだ。

 そして目が覚めた時、寝ぼけた状態で傷のことをポロッと言ってしまったから。

 それがレッテルとなってしまったのだろう。やはり僕の過ちで僕の責任だ。

 

 レッテルには、大ざっぱに分けて二種類あると考えている。

 何人もの人が長い時間をかけて同じ評価をすることで貼られる物。

 一人でも少数でも強い想いを込めて評価することで貼られる物。

 蒲原の場合が前者で、津川先輩の場合は後者。あかねの場合も後者だろう。

 僕は、強い想いを込めた覚えなんてないけれど、彼女にとっては関係ない。言った人からすれば何気ない言葉でも、言われた人にとってはひどく傷つけられたと感じる言葉もある。

「ねぇ、あかね。君の傷をもう一度見せてほしい」

「え?」

 今度は、困惑と驚きが混じった声が聞こえてくる。

「君のレッテルを剥がすために。君を助けるために。お願いだ」

 彼女からの返事はない。だが僕は、そのまま頭を下げ続けた。

 しばらくその状態が続いたが、そのうち衣擦れの音が聞こえ始めた。どうやら僕の無理なお願いを聞いてくれるようだ。

「真実さん。どうか顔を上げてください」

 その言葉に僕は素直に従う。

 おそらく服を脱ぐまでの過程を見ていただろう幽霊がうめいた。

「うっ……。おい、これは……」

 何も言わずにあかねの体を見つめる。肩、腕、脇から正面にかけての腹部。

 胸元は腕で隠しているから見られない。それでもじっくりと見ていく。

「真実……。お前、平気なのか? これを見て、何とも思わないのかよ!」

 幽霊の言葉は右耳から左耳へと流れていった。

 僕は、あかねの目をしっかりと見て話す。

「レッテルを貼り付けてごめん」

「いいえ……」

「レッテルを見て見ぬふりしてごめん」

「いいえ……」

「だけど、それも今日で終わりだ」

 僕は、笑顔を浮かべて告げる。

「あかねは【傷女】ではない。だって君は、こんなに綺麗な体をしているんだから」

 言い終えた途端、あかねの目から涙がこぼれ落ちる。

 それから大きな声で泣き始めた。

 かつての僕を見ているようで胸が痛い。

 だがそんな時、彼女はいつも優しく見守ってくれていた。

 だから今度は、僕の番だ。

「大丈夫だよ。あかねは【傷女】ではない。もう『おまじない』を使わなくていいんだ」

「真実、さん……」

「大丈夫。ここにいるよ。もう見て見ぬふりもしないから」

 そう言って優しい笑顔を作って見せる。

 彼女は、さらに大きな声をあげて泣きだした。


 しばらくその場に留まって彼女の手をぎゅっと握ってあげる。その手にも小さな傷が何本も走っている。指でなぞると、赤い傷口がぱっくりと開きそうだった。

 ひとしきり泣いて疲れたのか、あかねは掛け布団を頭から被って出てこなくなった。自分の裸を見せて、さらに大泣きした顔まで見せたのに。今になって恥ずかしくなってきたのか。

「本当、可愛いなあ」

 気づけば思ったことを口走ってしまった。

 直後、布団を被った塊が少しだけ動いた。

「約束ですからね?」

 布団にくるまった状態で、くぐもった声であかねが話しかけてきた。

「玄関の戸を開けたら、いっしょに登下校してくれるんですよね?」

 僕は、明日の朝にちゃんと門の前で待っていると約束した。

 それからしっかりと風邪を治すように伝えてから立ち上がった。

「本当に、大丈夫ですか?」

 あかねは、布団から顔だけ出してこちらを見つめていた。

 僕は、しっかり頷いてから部屋を出る。


 離れ屋を出ると、もう辺りは真っ暗だった。僕は母屋の明かりを頼りに歩き始める。木の根や大きな石を踏まないように足元に気をつけながら歩く。

「おい」

 背後から低い声で話しかけられた。

 振り向けば黒いスーツの男の顔が至近距離にある。

「うわ、怖っ! この暗さで見るとけっこう怖いな。お前、本当に幽霊なんだな」

 いつものお返しとばかりにからかった。だが、幽霊はピクリとも笑わなかった。彼は真剣な表情を通り越して怒った表情で尋ねる。

「何なんだよ、あの子は」

「栃尾あかね。秋功学園二年一組の経済特待生。母子家庭。母親がこの家の住み込みの使用人で、彼女自身もここで働いている。人の心の傷を受け入れ、その傷の原因を知ることができる能力を持っている。そう言わなかった?」

「そういうことじゃねぇよ! なんなんだよ、あの体は? あの大量の傷は?」

「……あかねの能力『おまじない』の代償だよ。それも言ったと思うけど?」

「あんなにヒドイなんて思わなかったぞ。腕だけじゃなかったのかよ」

 幽霊が僕の前に現れ、まくし立ててくる。

 その表情は、怒りから混乱に変わっている。

「そんなに都合良く腕だけ傷がつくなんて無理だろ。まだ服に隠れているだけ良い」

 両肩から両腕の表裏にかけては、縦横無尽に鮮やかな赤い線が走りまわっていた。以前見た時と同じく刃物で切りつけたような傷痕。脇から正面にかけての腹部は、さらに傷が多かった。こちらには直線だけでなく、曲線のような傷痕も多く見られた。線の短い物から長い物まで大きさも様々だ。腕の傷に比べて色は赤黒かった。もしかしたら、両肩から両腕の傷は比較的新しく、腹部の傷は古い物なのかもしれない。

「それにしたって女の子だぞ。あんなの……可哀想だろ。辛すぎるだろ……」

「……もしもの時は、僕が責任を取るつもりだよ」

「本気で言っているのか?」

 幽霊が疑いの眼差しで見つめる。僕は、それを睨み返す。

「僕がレッテルを貼り付けたんだ。責任を取るのが僕の役目だ」

 心の傷を心で受け入れ、心が耐えられなくなった分が体の傷となっているのか。

 それとも心の傷を直接体で受け入れているから、あれほど傷だらけになるのか。

 わからない。しかし、もう終わったことだ。


 あかねは、もう【傷女】ではないのだから。


「あ、背中を見忘れた」

 レッテルが剥がれているか確認し忘れていた。だが、明日になれば分かることだ。

 それに、ここにもう一人、僕とは異なる形で見える奴がいる。

「あかねの黒い影はどうなった? 綺麗さっぱり無くなった?」

 幽霊に尋ねると、なんだか難しい顔をして悩みだした。

「黒い影は薄くなって減った。だが……」

 津川先輩や蒲原の時とは違うのか、と再度尋ねる。

「メガネちゃんもふかふかちゃんも黒い影が完全になくなったわけじゃない。だが、危険な感じではない。だけど、ぺったんちゃんは何か危ない気がするんだ。何か分からないが……」

 何とも歯切れの悪い回答だ。そこで僕は提案する

「ここでさよならしないか、幽霊」

 彼は納得できていないようだが、約束では三人救えば成仏すると言っていた。

 そして今回で三人救った。ならば、もう成仏してもいいのではないか。

 幽霊は、その提案になかなか首を縦に振ろうとしなかった。しかし、渋っているわりに明確な根拠は言ってこない。僕の嫌な予感は、あかねの問題に限っては当たらなかった。だから、幽霊の違和感も気のせいだと諭す。

「大丈夫だよ。もしまた何か起こったとしても僕が救うから」

 その言葉を聞いて、ようやく幽霊はうなずいた。だが、未練はまだ残っているように感じられる。


「なあ、最期に一つだけ聞かせてくれよ。お前、あの体を見て本当に綺麗だと思ったのか?」


「綺麗だと思うよ。まるで秋に咲く彼岸花のように美しいと思った」


 笑顔を作ってそう言った。けれど、その言葉に嘘はない。

 幽霊は苦い顔をして消えてしまった。

 近くの木の陰で何かが動いた気がした。

 それでも僕は気にせず母屋に足を向けて歩きだす。

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