2
栃尾あかねと出会ったのは小学生の時である。
その頃の僕は、いつも泣いてばかりいた。
ほとんど毎日、家族から理由もなく怒られて、その度に泣いていた。
ひどい時には、殴られたり蹴られたりすることもあった。
そのうち怒られるから泣くのか、泣くから怒られるのか分からなくなる。
そんな時、いつも庭に逃げ込んでいた。モミジの木が何本も植えられた広い庭は、子どもにとって絶好の隠れ場だった。遠くで家族の怒鳴り声が聞こえてくると必死に声を押し殺した。
いつものように木陰に隠れてうずくまり、声を押し殺して泣いていた。
すると近くで木の枝や葉を踏む音がした。家族や親戚の誰かが探しにきたと思った。だが、音は近くで聞こえたからすぐに見つかってしまう。僕は体を丸めて小さくなることしかできなかった。
「ねぇ、どうしたの?」
女の子の声が聞こえて驚く。
恐る恐る顔を上げると、そこには見知らぬ少女が立っていた。
「大丈夫? どこか痛いの?」
涙で濡れたまぶたを腕で拭ってもう一度見る。
長い黒髪を持つ同い年くらいの女の子である。
泣き顔を見られて急に恥ずかしくなってきた。また、散々泣いて疲れていたので声が出せない。それでも男の
「だ、だい、だいじょう、ぶ。な、なんで、なん、なんでも、ない、から」
昔のこととはいえ、今思い出しても恥ずかしい。涙で目を真っ赤に腫らし、鼻からは鼻水を垂らし、やっと出た声は震えている。家族に怒られて泣いていただけなのに、その姿を見知らぬ少女に見られて尚更泣きたくなった。僕のことは気にせず、どこかへ行ってほしいと思った。
「大丈夫だよ」
僕の願いとは裏腹に、見知らぬ少女は笑顔を浮かべてこちらに近づいてくる。
「くるな。あっちいけ!」
涙声で悪態をついて顔を伏せる。これ以上の醜態を晒したくなかったから。
「大丈夫。私が『おまじない』をかけてあげるから」
気づけば彼女が僕の両手を掴んでいた。
それを振り払おうとしても、相手は一向に離そうとしない。
もういい。放っておいてほしい。
暴れて逃れようとする僕に、彼女は優しい言葉をかける。
「みんなにうるさいと怒られて辛かったね。でも君は悪くないよ。君は廊下を走っただけ。広間でお話しをしているなんて知らなかったんだもの。だからもう泣かないで。ね?」
驚いて暴れるのをやめた。それからゆっくり顔を上げて彼女の顔を見る。近くで見ても会ったことのない女の子だと分かる。しかし、まるでその場にいて、全てを見ていたかのよう原因を言い当てた。僕は目を見開いて尋ねる。
「なんで? どうして分かったの?」
「私が『おまじない』をかけたから、君の心が教えてくれたの」
そう言って彼女は微笑んだ。
その日は庭のモミジが真っ赤に染まり、とても美しかったことを覚えている。
その少女は、新しい住み込みの家政婦の娘だと教えられた。その子の名前は、栃尾あかね。僕と同い年らしい。けれど彼女の長い黒髪はとても綺麗で、落ち着いた雰囲気を持っていて、僕よりもずっと大人に見えた。
あかねは僕と同じ小学校に通い始め、しばらくいっしょに登下校することにした。別の町から引っ越してきた彼女に学校の場所と道順を覚えてもらうためだ。
そのことでクラスメイトにからかわれることもあった。けれど、その程度のからかいは苦にならない。だが家族からの理不尽な怒りには耐えられず、いつも庭で泣いてばかりいた。
そんな日は、決まってあかねが僕を見つけてくれてこう告げる。
「大丈夫。私が『おまじない』をかけてあげるから」
それから僕の両手を自分の両手で包みこむ。それは、まるで祈るような仕草だった。最初は、何の効果もない気休めだと思っていた。けれど、実際にそれをしてもらうと不思議と癒される。
僕は『おまじない』について尋ねた。
どうやったらそれができるのか知りたかったからだ。
けれど、あかねは申し訳なさそうに答える。
「ごめんね。この『おまじない』は、私しか使えない特別な力なの」
それでも僕は、その能力のことをもっと知りたいと思った。だから、『おまじない』のことを教えてもらうかわりに、自分の能力のことを話すと提案する。
「僕にも他の人にはできない、特別な力があると言ったら……信じる?」
今まで誰にも話した事がない僕の秘密。だが、彼女なら信じてくれると思った。
正確な時期はハッキリと覚えていないけれど、あれは小学校に上がる前のことだ。
ある日、家に来た客の背中に白い紙が貼られているのが見えた。だが、家族は何も言わない。家政婦に尋ねてみても何も貼られていないと言う。
もう一度見ると、客の背中には何もなかった。だが、どこにも白い紙は落ちていない。その時は僕の見間違いだと思った。
別の日、今度は家族の背中に紙が貼られているのが見えた。しかも何か文字が書かれている。難しい字で何と書かれているのかわからないけれど、今度は見間違いではないと思い伝える。だが、家族が背中に手をやっても紙が剥がれることはなかった。僕がやってもそれは同じだ。そのうち紙は見えなくなり、また見間違いなのかと自分の目を疑った。
家族で買い物に出かけた日、信じられない光景を目の当たりにする。目に見える人、全ての背中に文字が書かれた紙が貼られているのだ。しかし、誰もその紙の存在に気づいていない。
僕はトイレに駆け込んで冷水で顔を洗う。頬をつねってもみる。夢か何かだと思ったからだ。だが残念ながら水は冷たくて、つねった頬は痛かった。そこでようやく現実なのだと理解する。
背中に貼られた紙は見間違いなんかではない。僕にしか見えないのだと気がつく。
その後も紙が見えたり見えなくなったりを繰り返した。今では嫌という程はっきり見えているけれど、当時は能力が不安定だった。小学校に入学してから本を読んだり国語の勉強をしたりするようになり、少しずつ紙に書かれている内容も理解できるようになった。
「人の背中に文字が書かれた紙が見えるんだ。その紙は、その人の評価を表している。今まで誰にも話したことがなかった。でも、あかねなら信じてくれるかなと思って……」
あかねは黙って聞いてくれている。彼女の目は真っ直ぐに僕を見ている。
「大丈夫。信じるよ。『おまじない』をかけた時に真実の心が教えてくれたから」
初めて会った時と同じ言葉。あれからずっとその意味を考えていたけれど、いくら考えても答えは見つからずにいた。
「『おまじない』は、心の傷を癒すだけじゃない。その傷ができた原因や経緯も教えてくれるの」
それを聞いて合点がいく。だから初めて会った時に僕が怒られた原因を言い当てられたのか。
「本当はこの能力を人に使ったらいけないし、人に話してもいけないんだけど。真実は特別」
そう言って優しく笑いかけてくる。それを聞いた僕は真剣な表情で答える。
「誰にも言わない。約束するよ」
しかし、あかねは僕に全てを打ち明けてくれたわけではなかった。
後に僕は知ることになる。
『おまじない』には、大きな代償が伴うということを――。
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