第三章 【傷女】

 保護者参観があった日の夜、全身に痛みが走ってほとんど眠ることができなかった。ようやく眠りについたと思ったらもう朝だった。

 着替えを済ませてから洗面所に行き、冷たい水で顔を洗う。眠気は少しだけ飛んだ。けれど、目の下のくまが寝不足を物語っている。洗面台の鏡を見ていると、背後にある浴室の鏡に僕の背中が映っていた。そこでもう一つ気がつく。

「あれ、増えた?」

 もう何年も数えていないから、正確な数字は分からない。だが違和感を覚える。

「昨日の出来事がきっかけだとしたら……七十五日後くらいに剥がれるかな」

 鏡を見ていたら突如として背後に黒い影が出現した。

 何事かと呆気に取られて見ていると、それは次第に人の形へと変わっていく。それから見慣れた容姿になった。黒いスーツ、白いワイシャツ、紺色のネクタイを着用した若い男だ。室内なのに革靴まで履いている。こいつ、いつもこんな風に姿を現していたのか。

「なあ、何が剥がれるんだ?」

 その男は、僕の耳元に顔を近づけて話しかけてきた。

「お前、今までどこに行ってたんだよ!」

「お、今日は驚かないんだな。いつもならビクーッってなるのに。ビクーッって」

「驚くわけないだろ。鏡があるから背後が見られるんだよ」

 トリックを知った状態でマジックを見ているようなものだ。むしろ見ていて気分が悪くなった。しかし、幽霊は写真だけでなく鏡にも映るのか。初めて知った。

「窓ガラスを割った時みたいにまたPP切れか? 意識を失って姿を消していたのか?」

 幽霊からは、まあそんなところだ、と歯切れの悪い答えが返ってきた。

 津川先輩の時には、憑依合体しても何も問題がなかったのにどうしてだろう。

「それより、ふかふかちゃんは救えたのか? どうなんだ?」

「ああ、救ったよ。キスしてハグして胸を揉んだこと、めちゃくちゃ怒っていたけどな」

「はっ。だったら、本気で【春】を売るつもりならそれどころじゃすまねぇぞって一喝してやれ」

 幽霊は珍しく真剣な表情で言う。なんだ、僕と同じことを考えていたのか。

「メガネちゃんに続き、ふかふかちゃんも救ったか。なかなかやるな、色男」

 彼はニヤニヤと笑みを浮かべてからかってくる。逃げるようにして食卓へ行くと、食事と弁当が用意されていた。これらは、いつも家政婦のあかねさんが作ってくれている。手紙がついていないか探してみるが、今日はついていなかった。

 食事を食べ終えると、すぐに弁当箱と鞄を持って家を出た。幽霊も僕の後ろをついてくる。

「幽霊。今日で最後の一人を救うぞ」

「おう。でもお前、最後の生徒が誰か分かっているのか」

「わかってるよ。二年一組のクラスメイト、栃尾さんだろ?」

 ついにこの時が来た。僕が今まで見て見ぬふりをしてきた問題に目を向ける時が。

「さあ、行こうか。【先生】」

 そう言って僕が振り返った時、幽霊の姿は消えてしまっていた。


 いつものように校門前での校則違反チェックを終え、玄関で靴を履き替える。

「おはようございます。真実先輩」

 誰かが朝のあいさつをしてきた。その声の主に返事をしようと顔を上げる。

「おはよ……え?」

「なんですかその顔は。もしかして、美人なあたしのセーラー服姿に見惚れちゃいました?」

 そう言ってファッション雑誌でよく見かけるポーズを取ってみせる。

 背が高く、顔立ちの整った彼女は、プロのモデルのように美しかった。

 しかし……。

「確かに美人で魅力的だけど、セーラー服はあんまり似合っていないね……蒲原」

 美人はなにを着ても似合うと思っていたけれど、なぜだかあまり似合っていると思えなかった。蒲原のブレザー姿に見慣れてしまったからか。

 ブレザー派を公言する変態幽霊はどう思っているのだろう。だが彼は姿を現さず、何も言わない。

「褒められたのか、貶されたのか分かりませんね。そんなに似合ってないですか?」

 蒲原は不満そうな顔をして朱色のスカーフをいじる。

「でも、どうしてセーラー服を着ているの?」

「秋功学園の校則で決められているんだから当然でしょう。やっぱり先輩はバカですか?」

 冷静かつ当然のことを言われた上にまた罵倒された。全く、失礼な後輩である。

「セーラー服だと目立つし、嫌な思いをしたからブレザーを着ていたんじゃなかった?」

「確かに目立つし、嫌な思いもしました。でも、みんながセーラー服を着ているのに、あたしだけブレザーを着ている方が余計に目立って嫌な思いをすると最近になって気づきました」

 ようやくその考えに至ったのか。頭が良い子なのにどうして気づかないのか、気づいてくれないのか、と頭を悩ませる日々も今日で終わりだ。良かった。本当に良かった。

「なんですかその顔は。ようやく気づいてくれたんだ、このバカは、と言いたげですね」

「いやいや、全然そんなことは思っていないよ。うん、ホントホント……トォッ!」

 気づけば頭上から手刀が降ってきた。少し反応が遅れてまた左耳を掠った。

「また避けられた。えへへ。真実先輩、何かスポーツをやっています?」

「この学園は文武両道が基本方針だから武道を少し……。ていうか、危ないだろ!」

 僕は怒っているというのに、蒲原は嬉しそうに笑っている。

「そういえば昨日、清掃ボランティアを最後にしてもらおうと思って事務所に行ったんですよ」

 昨日僕は、図書室にも事務所にも顔を出していない。図書当番の日ではなかったし、清掃活動の予定も入っていなかったから。だが、なんとなく嫌な予感がした。

「それで最後の清掃活動をしている時、団体の責任者の人に声をかけられたんです。の子によろしくね、って。どういう意味かと思って聞いたら……」

 その先は聞かなくてもすぐに分かった。物心ついた頃から何度も体験した展開だ。

「そっか。蒲原は……この町の出身だから分かるよね」

 蒲原は何も言わずに黙っている。その表情から感情を読み取ることは難しかった。

「聞いた時は驚きました。真実まさみって苗字だと思っていたんですけど、名前だったんですね」

 僕の苗字を知った瞬間、態度をコロッと変える人は多い。特にこの町に住む大人がそうだ。それまで子ども扱いしていたのに、苗字を知った瞬間、彼らはその態度を一変させる。子ども相手にペコペコする彼らを見て、幼い僕はいつも疑問を抱いていた。自分よりも体が大きくて、年齢も上の人がどうして頭を下げるのかと。

 それは子どもにも当てはまる。小学校に入るまでは、何のへだたりもなく無邪気に遊んでいた。けれど、学年が一つ上がるごとに友達の態度に変化が見られる。よそよそしくなる者もいれば、僕に気に入られようと必死になる者もいた。前者は、あの家の子と遊んではいけません、と親に言いつけられたのか。後者は、あの家の子は特別だから仲良くなっておいて損はない、と親に言いつけられたのか。

 それでも態度を変えずに接してくれる友達もいる。名前なんてただの記号だ、名前が変わってもお前はお前だ、と。少しきざな台詞だと思った。けれど、それ以上にかっこいいと思った。そんなことを言ってくれる友達には感謝するほかない。

 そして今、僕は蒲原にもそうあって欲しいと願っている。

「できれば蒲原には、これからも名前の方で呼んでほしい。苗字は、あまり好きじゃないから」

 家のことはいつか知られると思っていた。それでも彼女とは、これからも仲の良い先輩後輩として付き合っていきたい。

「分かりました。あ、そうだ。そんなことより聞いてくださいよ。母があたしの実の父親は、外国人だって言うんですよ!」

「え、そうなんだ。じゃあ、その赤みがかった茶色の髪は、外国人のお父さんの遺伝なのかな」

 窓から注ぐ日光を浴びて彼女の髪が赤く見える。いつ見ても綺麗な色をしている。

「そうかもしれません。でも、ふつう娘の出生の秘密を料理しながらさらっと言います? おかしくないですか?」

「えぇ……。そんな大事なこと、さらっと言っていいものじゃないよね……」 

「やっぱりそう思いますよね。継父も、へーそうなんだー、としか言わないから。あたしの方がおかしいのかと思っちゃいましたよ。でも、先輩に相談して良かったー」

 そう言って蒲原は、その大きな胸をなで下ろした。

 自分が願ったとはいえ、あっさりと受け入れて少しも態度を変えないので拍子抜けした。僕の不安そうな顔を見た彼女は、真剣な表情ではっきりと言ってくれた。

「話したくないなら聞きません。でも、真実先輩が話したいならいつでも聞きますよ。先輩の話を聞くのが後輩としてのあたしの役目ですから」

 それを聞いて感謝の言葉を述べようと思った。だが、彼女は続けてこう言った。

「真実先輩とあたしは、初めてを奪い奪われた関係ですからね」

 ありがとう、の言葉が一瞬にして喉の奥に引っ込んだ。

「……やっぱりまだ怒ってる?」

「全然怒っていないです。本当です。少しも怒っていないから大丈夫ですよ」

 そう言いつつ唇と胸を指さしている。続々と生徒が登校してくる玄関前でやめてほしい。

「でも、責任は取ってほしいと思っています。いいですよね、真実先輩?」

「……後輩のお願いを実現するのが先輩としての僕の役目だから。何でもします」

 前言撤回。仲の良い先輩後輩の関係なんて築くことができないと悟る。

 人の噂も七十五日。早く時が過ぎてほしいと強く願った。

 

 昼休み。図書室に行くと見知った顔があった。坊主頭で肌が日に焼けた三年生の図書委員だ。僕がいつかの非礼を謝ると、なんのことかわからないと言って取り合ってくれなかった。その脇を抜けて司書室に向かう時、彼の背中をちらっと見たらレッテルが剥がれていた。

「大会出場おめでとうございます。応援しています」

 僕がそう声をかける。すると彼は、おう、と一言だけ返してくれた。

 司書室をノックすると、津川先輩がドアを開けて出迎えてくれた。テーブルの上には、筆記用具や参考書が置かれている。どうやら受験勉強中のようだ。邪魔してはいけないと思い、退出しようと体を反転させた。

「休憩!」

 その一言で制止され、僕は一人用のソファーに座らされる。対面の長いソファーには、先輩が座った。なぜか申し訳なさそうな顔をして、両手をギュッと握って膝の上に置いている。

「蒲原さんが嘆願書のことで真実ちゃんの名前のことを知りたがっていたんだけど……」

「そのことなら本人から聞きました。別のところから聞いて、事情も知ったみたいです」

 僕は津川先輩の言葉を途中で遮って言った。途端に彼女の表情がさらに暗くなる。

「そう……。ごめんね……」

「どうして先輩が謝るんですか。ちゃんと説明したら納得してくれましたよ」

 僕の財布が犠牲になることは黙っておこう。ああ、なにを買わされるのだろう。

 津川先輩も僕の家のことは知っている。その上で態度を変えずにいてくれる。

「そういえば蒲原さんから、二人は付き合っているんですか、って聞かれちゃった」

 ズレた眼鏡を直しながら軽い調子で言う。嫌な予感がしたので尋ねる。

「変なこと言ってないですよね?」

「大丈夫だよ。真実ちゃんは、私の後輩で私の妹だよ、と言っただけだから」

 大当たりだった。今日は嫌な予感ばかり的中する。厄日なのだろうか。

「それは変なことです。反応に困るようなことを吹聴ふいちょうしないでください」

「それなら、将来結婚することを約束した仲です、って言った方が良かったかな?」

「もっとダメですよ! そんなことを言ったら泥沼な未来になりますよ!」

 僕がこんなにも語気を強めて怒っているというのに、先輩は楽しそうに笑ってばかりいる。そのうち怒るのも疲れてきたので、僕は思っていたことを言葉にした。

「今日は眼鏡なんですね。津川先輩は、そっちの方が似合っていると思いますよ」

「あはは。それは私を口説いているのかな?」

「いいえ。先輩を喜ばせるのが後輩としての僕の役目ですから」

 先輩はまた楽しそうに笑った。僕は恥ずかしさを隠すために適当にごまかした。


 その日の全ての授業が終わり、僕はさっさと帰る準備をして玄関に向かう。

 救済しようにも肝心の栃尾さんが欠席では救いようがない。欠席理由の体調不良にも嫌な予感がする。

「おい、幽霊」

 辺りはシーンと静まり返っている。何の反応もない。振り返っても彼の姿が見えない。

 諦めて帰ることにした。校門を出て、モミジ並木の坂道を下っていく。だが、しばらく歩いたところで、試しにもう一度やってみる。

「おーい、変態幽霊」

「誰が変態だボケェ!」

 背後からドスの利いた声がした。この聞き慣れた声は、あいつしかいない。

 さっきより大声で言ったのが良かったのか。それとも変態という罵倒に反応したのか。

「幽霊。今までどこに行っていたんだ?」

 時間がもったいないので歩きながら話す。

「……自分探しの旅に出ていた」

 またいつものつまらない冗談か。自分の遺体でも探していたのか。

「まあいいや。これから最後の対象者を救いに行くから協力してくれよ」

「お、おう。」

 幽霊から気の抜けた返事が届く。僕は構わず走り出す。

 今日は嫌な予感ばかり的中する日だが、この予感だけは的中しないように願った。

「栃尾さんはどうしたんだよ。今日は学校に来なかったのか」

 幽霊が目の前に浮いた状態で現れた。正直、視界がぼやけるからやめてほしい。

「ああ。体調不良で、欠席して、来なかった」

 走りながら幽霊の問いかけに答える。走り始めたばかりだからまだ呼吸は辛くない。

「だから、これから、栃尾、さんの、家に、行く」

「栃尾さんの家に行くのは良いが、明日ではダメなのか。行っても会ってくれるかどうか」

「ダメだ!」

 僕の怒鳴り声に幽霊がビクッと震える。

 いつものお返しだと思ったけれど、そんなことより今は急がないと。

「いつになくやる気だな、真実。それで、彼女のレッテルは知っているんだよな」

 横に移動してきた幽霊がまた尋ねる。僕は黙って前を向いたまま頷く。

 知らない訳がない。小学校から高校までずっと彼女といっしょに暮らしているのだから。

 そうこうしているうちに若葉が生い茂ったモミジの木々が見えてきた。

「おい。あそこは……」

 幽霊の問いかけにも耳を貸さず黙って走る。肩にかけている鞄が邪魔で仕方ない。けれど、家はもうすぐだ。モミジの木々がどんどん大きく見え、屋敷全体を囲う高い壁も見えてくる。

「なあ、最後の対象者のことをもう一度確認しても良いか?」

 両ひざに手をついて肩で息をしている僕に話しかけてくる。答える余裕なんてない。

「そのままで良いから聞いてくれ。首を縦に振るか横に振るか、してくれれば良い」

 呼吸がとても苦しいが、それでもなんとか足を動かす。

「最後の対象者は、真実と同じクラスのぺったんちゃんこと、栃尾さんで合っているよな」

 僕は黙って頷く。しかし、ぺったんちゃんと言っているのはお前だけだ。

「それで俺たちは、今その子の家に向かっている」

 また頷く。少しでも早く前へ進むように足を動かす。

「だけどここは……お前の家だよな?」

「ああ。そうだよ」

 最後の問いには、はっきり答えられた。

 歩いているうちにようやく門の前までたどり着いた。

「栃尾さんがこの家にいるってどういうことだ? 事前に呼んでおいたのか?」

 幽霊は間の抜けたようなことを言っている。僕は大きな門を抜けて歩き始める。

 母屋の脇を抜け、その奥の広い庭へ入っていく。そこには、大小様々なモミジの木が植えられている。まだ緑色の若葉だが、秋になれば真っ赤に染まる。

 モミジは秋葉市の木であり、この家の象徴でもある。


 とうとう僕らの目の前に離れ屋が現れた。ここに来るのは何年ぶりだろう。

 吊るされたランタンの光は消えている。だが彼女は、きっと中にいるはずだ。

 僕は離れ屋の前に立って深呼吸をする。覚悟を決めてドアを強めに叩く。

「おい。ここって二人のメイドさんが住んでいるんじゃないのか」

 やっぱり知らなかったのか。まあいい。僕だけで救うと決めたのだから問題ない。

「そうだよ。住み込み家政婦の親子が住んでいる」

 戸の向こうから微かに音が聞こえた。やはり人がいる。その音が徐々に玄関に近づいてくる。

「お前、それって……」

「二年一組の経済特待生で僕のクラスメイト。名前は、栃尾あかね」

「栃尾……あかね? はぁ? あかねちゃん?」

「僕とは小学生の頃からの幼馴染で、この家のお手伝いさんの一人だ」

 離れ屋の戸がゆっくりと開かれる。










「そして彼女のレッテルは……僕が貼り付けた」


 だから彼女を救うのは――僕の役目だ。

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