6
「あれ、知らない? 【ズレ】ちゃんはねー、香夏子ちゃんの昔のあだ名だよー」
中学時代の津川先輩のあだ名なんて知るわけがない。
だが、僕の聞き間違いではなかった。やはりこの人は何かを知っている。
このまま詳しく聞いていこう。
「ダメだ! やめろ!」
幽霊が大声で叫んだ。
「やめて……お願い……」
突如、先輩の両目からボロボロと涙がこぼれ落ちていく。
彼女の背中を見ると、レッテルの文字が先ほどよりもさらに太く大きくなっていた。おそらく幽霊の目には、黒い影が大きくなって見えているのだろう。
「ご、ごめんなさい。私そんなつもりはなくて……本当に久しぶりに会えたからつい嬉しくて……だって香夏子ちゃんが彼氏と仲良さそうにしてるから……普通になれたんだと思って……」
旧友は、先輩の肩に手をかけて弁解を始める。
だが、もう遅い。
一度言葉を口に出してしまったら、それが相手の耳に届いてしまったら、もう遅いのだ。
「彼氏……? 普通……?」
「だって彼氏じゃないなんて嘘でしょ? 本当は、本屋で香夏子ちゃんを見かけて声をかけようと思ったけど、あんなに楽しそうにしていたから。ねぇ、男の子を好きになれたんでしょ? そうなんでしょ?」
「違う……。違う……。違う……。違う……!」
黙ってほしい。
口を閉じてほしい。
人を傷つける言葉なんてもう聞きたくない。
「すみません。失礼します」
僕は津川先輩をベンチから立たせて歩き出す。両手にある荷物が今になって重いと感じ始めたが、そんなことは気にしていられない。とにかく今は、ここから離れることを優先しよう。
「こっちだ。こっちなら人もいない」
先導する幽霊が手招きしている。
その姿からは、どうしても安心より不気味さや不吉さを感じてしまう。けれどその言葉に従って移動すると、コインロッカーが大量に並んでいた。幸い、一人なら座ることができそうなベンチがあったので先輩に座ってもらう。
もう先輩の目から涙は流れていない。
だが背中のレッテルの文字は、太く大きいままだ。
「【ズレ】は、逆から読んだ時のあだ名か。レズ……。レズビアンの略称か」
幽霊の言葉に僕は黙ってうなずいた。
そのまま読めば先輩のあだ名であり、レッテルである。
逆さにして読めばそれが先輩の性志向となる。
旧友の口ぶりからすると、先輩自らカミングアウトしたのではないだろう。
きっと何かきっかけがあって知られてしまったのだ。
そうでなければレッテルは貼られないだろう。
「ねぇ、普通ってなに?」
「え……」
虚ろな目をしていると思った。こんな津川先輩の顔は、今まで見たことがない。
「男は女を好きになって、女は男を好きになることが普通なの? 常識なの?」
「いえ、そんなことは……」
「私は今まで男の人を好きになったことがない。ずっと昔から女の人に惹かれて、女の人が好きだって自覚もある。普通じゃないってこと? おかしいのかな? 私って異常なの?」
「えっと……」
「じゃあ私は正常?」
上手く考えがまとまらず言葉に詰まる。なんでもいいから返事をしないといけない。そう思っているのに言葉が見つからない。頭が回っていないか。思考が空回りしている。
「あの子は、小さい頃からの友達。そして好きな人だった。初めて会った時からずっと好きだった。だけど、好きなんて言えなかった。嫌われると思ったから。それでも自分の気持ちに嘘はつけないから。ずっと想い続けていた。でもある時、知られてしまった」
虚ろな目のまま、表情一つ変えず、淡々と語る先輩。
「真実ちゃんには、前に話したよね。中学校の生徒手帳のカバー裏に写真を入れる話」
「はい……」
「あれには、写真を見せ合う以外にもう一つ意味があるの。何か分かる?」
僕は首を横に振った。
「好きな人の写真を入れておいて、その人といつまでもずっと一緒にいられますようにという『おまじない』。私はすぐにあの子の写真を撮って生徒手帳に大切に仕舞った」
もういいですよ先輩。
辛い過去なら話さなくていい。
話したくなければ話さなくていい。
自分自身を傷つける言葉なんて口にしなくていい。
「生徒手帳に入っていた写真を見られたことがあったの。あの子は勘が鋭いからすぐに気がついた。ずっと隠してきた秘密。あの子への想い。私の気持ち。それが中学三年の冬に全部知られちゃったの」
「でもあの人は、先輩のことを嫌っていないように見えましたよ」
「うん。あの子は本当に優しい。私のことを普通じゃないと思っていても、今まで通り接してくれた。けれど、愛してもくれなかった。そのかわりあの子は、一枚の写真をくれたの」
「写真て……あの男性アイドルの写真ですか?」
しかし、女の子が好きな先輩に男性アイドルの写真を渡す。
どういう意図があるのだろう。
そういえば先輩は、あの写真をお守りとも言っていたけれど。
まさか……。
「これからは、この写真を見て男の人を好きになれるよう努力しようね、って言われちゃった」
お守りとは……そういう意味だったのか。
なんて善意に満ちあふれた残酷なお守りだ。
「笑えません」
思わず言ってしまった。言わずにはいられなかった。
「あのね、【ズレ】ちゃんていう呼び名もあの子が付けてくれたの」
「どうしてそんな……」
自らの口で自身のレッテルを言葉にする行為。
それがどんなに辛く苦しいことなのか、僕には分かる。
「他の子たちには分からないけれど、あの子と私だけが意味を知っている秘密の呼び名」
だから先輩は、地元の高校ではなく、わざわざ隣の市の秋功学園を選んだのか。
あの人の姿を見るのが辛いから。
あの人の声を聞くたびに悩んでしまうから。
あの人といっしょにいるのが苦しいから。
「ねぇ知ってる? 異性愛者のことをノーマル、同性愛者をアブノーマルって言うんだよ」
「……」
書店で上の空だった理由がなんとなく分かった。
先輩は、着ぐるみのキャラを見ていたのではない。
近くにいた子どもを見ていたのだろう。
同性愛者の自分では、子どもが産めないとでも考えていたのか。
この少子化のご時世に未来の子どものことまで悩む必要なんてないのに。
「ノーマル、正常。アブノーマル、異常。やっぱり同性愛者は、異常なのかな」
「……」
僕のことを妹扱いして、ちゃん付けで呼ぶ理由もようやく分かった。
今でもお守りを大事に持っているように、彼女なりに男性を受け入れようと努力したのだ。しかし、同年代の男では難しかったのだろう。だから、先輩と慕ってくる男の後輩を妹として扱い、徐々に慣れようとしたのではないか。
食べ物の好き嫌いではないのだから、無理に人を好きになろうとしなくて良いのに。
「お守り、意味なかったなぁ。これまでの努力も、無駄になっちゃった」
「……」
わざわざ休日に僕を呼び出して遠出したのもそういうことなのだろう。
図書委員会の仕事なのだから、本来なら放課後に市内の書店に行けば済む話だ。エスコートよろしくなんて……前もって言ってくれたらもっと色々準備をしたのに。
「ごめんね、真実ちゃん。今まで無理に付き合わせちゃって……」
「……」
ダメだ。上手く笑顔を作ることができない。
「おい真実! 何でもいいから声をかけろ! このままだとまずい!」
幽霊の言う通りだ。何でもいい。津川先輩を元気にさせられる言葉をかけるべきだ。
「協力するって言っただろ! 黒い影がどんどん大きくなっているんだ! 早く!」
ダメだ。かける言葉が見つからない。というよりも、口が開いてくれない。
「今日は、もう帰るね。今まで付き合わせてごめんなさい。さようなら……真実ちゃん」
虚ろな目をした先輩が手を振って去っていく。
背中の文字は、太く大きく書かれている。
このまま行かせていいわけがない。
だが、レッテルを見ると足がすくんでしまう。
あれはもう過去のことだ。
あの時と今は違う。
だが、失敗してしまったら……。
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