第一章 【ズレ】
1
学生服の胸ポケットに手を当てて、学生手帳と校章バッジが入っていることを確認した。今日は弁当箱も鞄に入っている。よし、忘れ物はない。
「なあ。質問いいか?」
幽霊が背後から話しかけてきたので、僕は周囲に人がいないか確認する。
朝の通学路なので前後にちらほらと生徒の姿が見える。
けれども距離があるから小声で話せば聞こえないだろう。僕は小さく頷いた。
「お前の通っている学校には、桜の木がないのか?」
「ああ、一本もないね」
「珍しい学校だよな」
「学校の創設者の趣味だよ」
学校の名前も、校章バッジのモチーフも、学生手帳のデザインにもそれが表れている。
「そういえば町中にモミジが植えられていたな。それも何か関係あるのか?」
「もしかして、幽霊ってこの町の出身じゃない?」
僕は歩きながらちらりと振り返る。幽霊は本当に分からないという風な顔をしている。
「正直分からない。俺がどこで生まれてどこで死んだのか全く覚えていないんだ。っていうか、おい。俺のことは先生と呼べと言っただろ!」
「はいはい。気が向いたらね」
適当に返事をして足を動かす。しばらく歩いていくとモミジ並木の坂道が見えてきた。黒い学生服に身を包む男女がぞろぞろと坂を上っていく。
「レッテルが見えると言ったよな。それは、今も見えているのか?」
「ああ。オンオフのスイッチがあるわけじゃないんだ。目を開けていれば嫌でも見える」
知り合いに見られて不審がられても困るので右手で口元を隠してしゃべる。
「それは辛いだろうな。目が疲れるんじゃないか?」
「もう慣れたよ。それに、全員にレッテルが貼られているわけじゃないんだ」
「そうなのか?」
「他人に対する評価やイメージは、人それぞれ違うからね。ある人のことを優秀だと評価したとする。でも別の人の評価が違ってしまうと、それはその人のレッテルにはなりにくい。複数の人が同じ評価をしたり、強い想いが込められた評価だったりするとレッテルになりやすい」
「なるほど。だとすれば、有名人ほど背中にベタベタとレッテルが貼られてそうだな」
「そろそろ校門だ。あまり話しかけないでくれよ」
僕は校章バッジを襟元に付けて、校門前にいる教師たちに挨拶をした。
当然ながら背中にいる幽霊のことは見えていなかった。
玄関で靴を履き替えると僕は図書室へ向かう。
廊下に誰もいないことを確認してからまた口を開いた。
「もう一度確認したいんだけど、黒い影を背負う人って本当に……」
「ああ。三人のうちの一人は、お前もよく知っている。あの図書委員長の女の子だ」
幽霊は、真剣な表情をして答えた。
僕は、彼女の背中に貼られているレッテルを伝える。
「
先輩と知り合ったのは、昨年僕が秋功学園に入学してからだ。図書委員会に入った時には、すでにレッテルが貼られていた。残念ながら彼女とは出身中学校が違うため、それがいつ貼られたのか分からない。今までもそれが何を意味するのか気になり、本人以外にそれとなく聞いたことがある。しかし、残念ながら津川先輩と同じ中学校出身の生徒を見つけられなかった。司書教諭の雪森先生にも確認したけれど、詳しいことは分からなかった。
もしも黒い影が本当にその人のストレスや悩みだとしたら、一体何を悩んでいるのだろう。正直、幽霊の頼みを真面目にやる気はない。だが彼女には、一年生の頃から色々とお世話になっている。その借りを返すためだと考え、少しだけやる気を出そう。
「【ズレ】か。俺には真面目そうな子に見えたけど、どっかズレてるのか?」
幽霊が率直な疑問を口に出した。僕は、分からないという意味で首を横に振った。
これまでも津川先輩の背中を見た時にその意味を考えてきたが、今日までずっと答えが見つからない。そういえば彼女は、よく眼鏡がズレていることがある。もしそれが【ズレ】というレッテルの正体だとしたら、僕は眼鏡をプレゼントしてすぐにでも彼女を救ってみせよう。
「わかった。メガネちゃんは留年しているんだ。だから他の奴らと一年ズレてるから【ズレ】」
背後にいた幽霊が何やら閃いたようだ。なるほど、時間的な【ズレ】か。
しかし……。
「でも、それなら一般的にはダブリって言わないか?」
「それもそうだな。うーん、何か他に情報はないのかよ」
幽霊が右肩から身を乗り出してきた。幽霊とはいえ、スーツ姿の男がべったりくっついていると思うと不快な気分になる。まだ肌寒い季節だというのに暑苦しさを感じてしまう。
「僕が見えるレッテルは、単語でしか知ることができない。その意味を詳しく説明するような補足文章は書かれていないんだ」
背中に貼られているのは、大体A4サイズくらいの白い紙。
そこに【天才】【凡人】【不良】といったその人の評価が黒い文字で書かれている。それがその人のレッテルだ。誰にでも分かるような単純な物から先輩のように難解な物まで様々だ。その単語が何を意味しているのか、評価を下した者にだけ分かれば良いということなのだろう。
まあ、レッテルを貼った奴らには、背中に貼られた紙なんて見えていないだろうが。
「だけど、もし黒い影が悩みやストレスじゃないとしたらどうする?」
何かしら反応があると思っていたが、幽霊はそれ以上何も言わなかった。
別館の図書室へと続く渡り廊下の入口まで来た。この時間帯なら雪森先生と津川先輩がいるはずだ。図書委員会に朝の当番業務はないけれど、先輩は自発的に図書室に来て手伝っている。それを聞いて僕も何度か手伝いに来たことがあるが、先輩が来ていない日は一日もなかった。おそらく今日もいるだろう。
急ぎ足で歩いて図書室の扉の前までたどり着いた。
小さく深呼吸してから戸を開ける。
「おはようございまーす」
誰もいない。電気もついていない。窓から入る日光が窓際の机や本棚を照らしているだけだ。
いつもなら津川先輩が明るい声であいさつを返してくれるのだが、今日に限って休みかな。もう一度あいさつをしてみるが、一階はおろか二階からも返事はない。地下の書庫にいる可能性は薄いだろう。
「なあ、あそこに誰かいるんじゃないか」
幽霊が指さした先には司書室がある。図書室の戸が開いていたのだから司書教諭の雪森良枝先生が出勤しているのだろう。もしかしたら津川先輩も中にいるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて司書室の戸をノックした。しばらく待ったが返事はない。トイレにでも行っているのかなと思って戸を開ける。
「おお! ありがとうございます!」
その光景を見て、真っ先に声をあげたのは変態幽霊だった。
確かに人はいた。けれども、それは伝統ある学び舎にあるまじき姿としか言いようがない。ワイシャツ姿の女性が毛布に包まれ、ソファーで気持ちよさそうに眠っている。その足元には、ブラジャーとスカートが転がっている。
僕は深いため息をついた。これでもう三度目だ。笑えない。
幸い、今回は毛布をしっかりかけているのでワイシャツの襟しか見えていない。前回と前々回は、津川先輩といっしょに見つけてしまった。あの時のことは、思い出したくもない。
「雪森先生! 起きてください!」
ビクッと体を震わせて雪森先生が目を開いた。しばらくボーっとしていたけれど、僕の顔を見て、それから自分の格好に気がついた。
「きゃあ! 真実くん、私に何をしようと」
「わざとらしい悲鳴は結構です。いいから早く服を着てください!」
冗談で流せる雰囲気ではないと察したのか、彼女は申し訳なさそうに言う。
「ごめんねー。すぐに着替えるからちょっとだけ後ろを向いていてねー」
その言葉に従って後ろを向いた。だが変態幽霊は、前を向いてじっと凝視している。
「ほう。着やせするタイプか。うむ、なかなか良い形だ。サイズも良いぞ。イケる」
今すぐこいつを殴りたい。それができないのなら今すぐ除霊してやりたい。
もういいよーという間延びした声がかかったので前に向き直る。雪森良枝先生が毛布を抱いて照れくさそうに笑っている。先輩のレッテルを探るために来たのに、なんだか調子が狂う。
「勝手に部屋に入ったのは謝ります。すみませんでした。しかし、年齢を考えてください」
「私まだ二十代よ? でも、男子高校生にとっては、もうおばさん?」
「いやいや、イケますよ! まだセーラー服も着られるくらい若く見えますよ!」
「年相応の行いをしてくださいという意味です」
雪森先生は、ソファーの上で正座して深々と頭を下げた。
「またここに泊まったんですか? 風邪をひきますよ」
「副業の方の仕事がなかなか終わらなくて……」
「公務員は副業禁止でしょう」
「バレなければいいと思わない?」
「クビになってもいいんですか?」
僕はハッキリと言った。すると雪森先生は、ワイシャツの一番上のボタンに手をかけて、上目づかいでこちらを見てくる。同時に幽霊が前に乗り出してくる。
「口止め料を払うからこのことは二人だけの秘密にしてくれる?」
「むしろこっちがお金を払うからセーラー服を着て……」
「あーっ! じゃあ僕は、ここにある本を地下の書庫に戻してきますねー」
僕は分厚い書籍を何冊も重ねて一気に持ち上げる。腕と腰にずしりと負荷がかかった。
この幽霊がこれ以上調子に乗る前に帰ろう。一刻も早く!
「うふふ。冗談よ。それに私の副業は、学校側にも認められているんだから大丈夫。これでも郷土史研究者の端くれなんだから。忘れちゃった?」
「そうでしたね……」
「なあ、特定の利害関係を持たず、業務に支障をきたさなければ、公務員でも例外的に副業を認められるんじゃなかったか。それに歴史研究なら公務と言えなくもないよな」
幽霊の言葉に耳を貸さず、司書室の戸を開く。早くここから出ようと心がはやる。
「真実くん。コーヒー入れてあげようか」
「いえ、これを片づけたらすぐに教室へ戻りますから」
「あら残念。【秋葉】の歴史についてゆっくり語り合いたかったんだけど、また今度ね」
「……失礼します」
失礼を承知で振り向かずに返事する。
うふふ、と笑い声がまた聞こえた気がした。
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