第2話 オーク
草原の向こうから全速力で迫ってくるオークの群れに対して、彼は剣を構えるでもなくただ腕を組みながらその光景を眺めていた。周りには何もない牧草地帯だからよけい近くに感じられるけれど、おそらく距離としては200ヤート、彼のいた世界でいうところの200メートルというところだろう。オークの群れは目算で100匹程度、うち半分以上が上位個体のオークキングやオークジェネラルであった。超一流と言われるAランク冒険者——このアルビオン王国においても両手で数えるほどしかいない——でも苦戦するような強力な集団。それを前にして彼は、羊の群れでも数えるかのような雰囲気である。
「ヨシオ殿! そろそろ用意を!」
騎士の一人が慌てたような声を出す。オークの集団が発する轟音が大きくなってくるとともに、後ろの騎士たちにも動揺が広がって馬が不安そうに嘶いた。ただ騎士団長のモリソンだけは、決して動揺することなく彼の後ろ姿を真剣な面持ちで見つめ続けている。白いひげを生やして皺の寄った目を細めているモリソン騎士団長は、顔だけ見ればどこにでもいそうな壮年男性である。しかしその体躯は鎧を弾き飛ばさんばかりの筋肉に覆われており、首筋の傷跡と合わせて只者ではない雰囲気を醸し出していた。現在も冒険者で言えばAランク相当の実力を持つという騎士団長は、前線に立つことこそほとんどないものの、未だに実力は騎士団随一と言われている。もっとも、騎士団長の後ろに控える5人の騎士たちも騎士団に所属するだけあり、冒険者でいえば最低でもBランク程度の実力があると聞いたことがある。要するにここに居並ぶ騎士たちは王国随一の実力者の教育を受けたエリートであるのだが、彼らをもってしてもオーク100匹の集団ともなると焦りが生まれるようだった。
「敵はひきつけなければなりません。もう少し待ってください……ところでリリー秘書官、今回のミッションは、やつら全員を倒すことで間違いが無いんですよね?」
彼は余裕の表情で振り返りながら私に言う。
「ええ、もちろん。先日お渡しした業務命令書のとおり、今回のミッションは西部国境沿いに発生したオークの群れの討伐が目的です。成功の暁には50万ゴールドの報償費、要するに臨時ボーナスが支給される予定です」
私の言葉を聞くと、彼は満足そうに頷いた。おもむろにオークに向き直った彼は、慎重に鞘から剣を抜いて悠然と構えた。王室に伝わる勇者専用の剣は聖剣と呼ばれており、勇者が戦いのときに手にすると単なる金属の塊以上の威力を持つという。彼が構えた剣は、刃がほのかに光を帯びていた。
オークとの距離は100ヤート位まで狭まっている。津波のように迫ってくるオークの巨体を目にして、私の心にも少し戸惑いが生まれた。100匹ものオークの群れを見たのは生まれて初めてだったし、しかもその中にはめったにお目にかかれない上位種のオークジェネラルまでいる。女である私はオークの標的にされやすいし、なにより私は文官だ。単なるオーク1匹であっても、戦って勝てる見込みはまずないのに、荒れ狂う牛の集団のようなオークたちを目の前にして、私は初めて魔物に嬲られる恐怖を感じた。
「勇者様!」
騎士の一人が焦ったような声を出し、同時に剣を抜く。それと同時に他の騎士たちも次々に抜刀しだしだ。騎士たちの来た甲冑の奥から、彼らの息遣いが荒くなっているのが聞こえてくる。
「まぁ、みなさんはゆっくり見ててください」
彼は振り返らずにそう言うと、ゆっくりと左足を1歩前に出し、半身の姿勢になった。オークとの距離、約50。今や群れの足音は洪水のように草原に響き渡り、地面の揺れが地震のごとく迫る。騎士たちも揺れに負けないように腰を落としてオークの群れを見据えていた。私はバランスをとるのが難しくなり、思わず馬車の車輪に手をかける。
オークとの距離、約30。彼が剣を大きく振りかぶり、私には聞こえないくらいの声でぼそぼそと何かをつぶやいた。あれは火の魔法を剣に賦与する呪文だろうか。剣が強く白い光を帯び、剣先から一筋の炎が噴き出した。既にオークは表情すら読み取れるほど近づいており、その豚のような顔から発せられる意味不明な叫び声が耳に届く。不摂生な貴族のような皺だらけの腹部をさらけ出して、それらはやみくもにこちらに突っ込んできていた。
オークとの距離、約20。その時、彼の剣が素早く振り払われ、同時にものすごい勢いの風と炎が剣先から飛び出した。青白い炎はオークの群れに衝突すると赤く燃え広がり、最前列を走っていたオークは声をあげる間もなく炭となる。炭となったオークの後ろを走っていたものは迫りくる炎に包まれ、火達磨となって草の上を転がった。まるで地上に太陽が出現したかのような明るさと熱が私の顔を焼く。一瞬の静寂ののちに、オークたちの磨り潰されたような悲鳴が熱風に乗せられて耳に響いた。私はつい目を背ける。
「何と……」
モリソン騎士団長がポツリと呟いたが、その感想はそこにいる全員——勇者であるヨシオ・ノリヅキを除いた全員——が共有する思いであろう。騎士たちはその場に立ち尽くし、燃え転がるオークの群れを眺めた。私は目を背けつつも、オークの断末魔と肉が焼け脂肪が跳ねる音から、集団がほぼ全滅したことを理解した。
「リリー秘書官は、殺生は苦手ですか?」
戦闘中であるのに、彼はまるで散歩の途中という感じで私に質問してくる。
「ええ……狩りも何度か経験がありますが、あまり好きになれず……」
「そうですか。それでは今回の仕事は随分と難儀でしたね」
「いえ、勇者様の実力を確認するのも私の仕事のうちですから」
私の言葉に答えることなく、彼は燃え盛るオークの群れに向かって走り出した。彼はうまく火炎から逃げおおせたオークや体の一部に着いた火を必死に消そうとしているオークのところまで走っていき、何の躊躇も無くそれらを切り捨てた。走って、切る。走って、切る。彼は逃げ惑うオークたちを、それこそ台所に出てきた虫を叩き潰すかの如く無表情で倒していった。むしろ処理といった言葉の方が適切かもしれない。全てのオーク達がこと切れた時には、燃え盛るオークの死体と肉の焼ける匂い、油の燃えるパチパチという音だけが周囲を取り囲んだ。
「いやはや、勇者様の力はかの伝説のSクラス冒険者を上回ると言われていますが、これほどとは……」
騎士の一人が自分の剣を鞘に納めながら言った。
「うむ、前回の討伐の時より数段上達していますな。これであれば夏までにはドラゴンすら打ち破ることができるかもしれませんぞ」
戦いが始まってから初めて、モリソン騎士団長が笑顔を見せた。
「ありがとうございます、騎士団長。今回は苦手な炎の魔法を使いましたが、私の得意な雷や風の魔法であればうち漏らすことはなかったでしょう。そのせいで少し時間がかかってしまったのは反省材料としたいです」
彼はなんともないという風で騎士団長に答えた。あれほどの炎をまとい数えきれない程のオークの肉を切ったというのに、彼の剣は出来上がったばかりのように鋭く研ぎ澄まされている。千年以上も前から存在するのに刃こぼれ一つしない勇者の聖剣であるが、そのメカニズムは王国の頭脳を結集しても何ひとつ分からない。いわゆる古代アーティファクトの一つだった。
「こんな……大魔導士ですらできそうもない火の魔法を使って……果たして雷や風の魔法を使えば一体どんなことが起こるやら……」
騎士の一人が誰に言うでもなくぼそりと呟いた。
「ところでリリー秘書官、これにて討伐は完了ということでよろしいですね?」
彼がこちらに向き直って言う。オークの燃え盛る音と匂いに少し気分の悪くなっていた私は、一瞬だけ言葉を返すのが遅れてしまった。
「え、…ええ。確かに担当秘書官として、勇者ヨシオ・ノリヅキによるオーク討伐を確認しました。ただ今討伐完了証明を発行しますのでお待ちください。モリソン騎士団長、承認者になっていただけますか?」
「ええ、もちろんです」
私はあらかじめ用意してあった羊皮紙を鞄から取り出し、「担当者」のところにサインをする。次にその羊皮紙とペンをモリソン騎士団長に渡すと、騎士団長も慣れた手つきで「検査者」のところにサインをした。私のところに戻ってきた羊皮紙をあらためて確認してから、彼に渡す。
「討伐完了証明になりますので、これをもって宮廷省財務課まで行ってください。臨時ボーナスは14日以内に現金、もしくはギルド振込によって支払われる予定です。何か不明な点はありますか?」
私は彼に向って討伐完了時の決まり文句を口にした。既に討伐自体は2回目になるので、彼も慣れた目で羊皮紙を眺めている。
「問題ない」
彼は羊皮紙を丸めて縛り、馬車にかけてある鞄に放り込んだ。これでミッション終了、あとは帰還して報告書を提出するだけである。
——その時、鼓膜が破れるかと思うほどの大音量が空気を震わせた。
「ワイバーン!」
騎士の誰かが叫び、馬が暴れだす。
「防御!」
モリソン騎士団長が叫ぶと騎士たちが私と馬車を取り囲むように密集し、盾を構えた。ワイバーンは敵意の満ちた瞳でこちらを睨んでいる。正直、焦りというよりこの非現実的な状況に頭がついていかなかった。こんな国境近くでワイバーンが現れるなんてめったに、いやほとんどありえない事態だし、いても小型の亜種の場合がほとんどだ。それがこんな30ヤートはあろうかという成体の、しかもかなり狂暴そうなワイバーンに遭遇するとは。モリソン騎士団長以下5名の騎士で戦ってもそう簡単に倒せない魔物であることは、軍事に疎い私でもよく分かった。
ワイバーンはその黄色く光る眼をこちらに向け、真っ赤な口を開けながら私たちを威嚇した。少し離れた森の上でゆっくりと翼を動かすさまは、こちらを警戒しつついつでも攻撃できる体勢をとっているのだろう。ワイバーンが翼をはためかせるたびに、森の木々が大きく揺れた。
「ヨシオ殿! 私たちは秘書官殿と馬車を護衛してこの場を離脱します! なので少しでも時間稼ぎを!」
騎士団長が彼に言う。いつも穏やかで余裕を持っていた騎士団長の声に少しばかり焦りが見られたのが意外に思えた。しかしもっと意外だった——今にして思えば意外でも何でもないのだが——のが、彼から発せられた言葉だった。
「分かった……だが断る!」
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