短編小説【セミの行方】
ボルさん
ショートショート完結
大声量のセミの鳴き声から逃げるかの如く正樹は車に乗り込みエンジンをかけた。
新車のにおいとともにエアコンのにおいが車内に充満する。ギアを入れようとしたとき、携帯が鳴った。着信履歴には彼女の名前があるがまた取らなかった。
付き合って3年、正樹はマンネリとなっていく彼女を鬱陶しく思い始めると同時に、自分勝手な自分に黙ってついてきてくれている彼女へ申し訳ないという罪悪感や、都合の良い彼女を手放したくないというナルシシズムをもてあそんでいた。
「俺は彼女と別れたいんだろうか?別れてほしいといわれるのを待っているのだろうか?俺にとって今が居心地良いから結婚は考えたくないな……」
そんなことを考え込みながら彼の車は高速道路に入ろうとしていた。
「あ、セミだ」
高速に入る手間、料金所で正樹の新車のフロントガラスのワイパー部分に一匹のセミがとまった。
ワイパーで払ったら逃げるだろうか?
動き始めたら自然と飛び立つだろう。
考えているうちに後ろからの車が気になりアクセルを踏んだ。30キロ、40キロとスピードが上がっていく。
セミは風圧に耐えられるように身体の向きをかえながら踏ん張っている。
「お、頑張っているな。停まってやろうか、でも、どこまで頑張れるのだろうか」
車は50キロ以上に達している。風圧に懸命に耐えているフロントガラスのセミを見ながら、ふと、正樹は彼女のことを思い出した。
「俺が、一人で勝手にスピードをあげて彼女は今、懸命に頑張っているのかもしれない。いまだに結婚もせず、自分勝手をつづけることになるんだったら、付き合う始めから彼女を振ればよかった…そう、ワイパーを振ってあげるかように」
彼のナルシシズムは自分を悲劇のヒーローにしてその妄想を楽しむようなところがあった。
実際この時も「ワイパーで巻き込んで羽を傷つけてしまっては?」という建前と「フロントガラスが汚れたら嫌だ」という本音を自分自身にも使い分けていた。
「停まってあげてはどうだろうか?」という建前。
「高速道路を走り始めてしまってからでは無理だしな」という本音。
彼は自分に酔いながらアクセルをミリ単位で踏み込み始めている。
「時速何キロまでフロントガラスに引っ付いていられるのだろうか?」
もう時速80キロは出ている。セミは健気にフロントガラスに踏ん張り、ワイパーに引っかかっているかのようにも見える。
たった1週間しかないような命で、この瞬間、すべてのパワーを使ってしまっているのではあるまいか。
もし、この速度で飛ばされてしまったら体制を整えることなく地面に叩きつけられてしまうのだろうか?
空気力学などの科学をよく知らない正樹ではあるが、急にセミの質量の大きさを危惧するようになった。
夏の終わりには力が尽きて不格好に仰向けでひっくり返っているセミをみかける。
起きようにも起きられないそんな不器用さも感じさせるセミの最期。
思えば彼女も不器用である。このまま彼女の人生の夏が過ぎる前に結婚できなければ彼女はどうなってしまうであろうか。
ふいに、さきほど鳴っていた彼女からの電話が気になった。留守番電話が入っているサインが目に入ってきたからだ。
運転しながらも携帯電話を耳にあてて、留守録を聞こうとした。
その時、セミがフロントガラスから吹っ飛ぶように後ろへ流れた。
「あ!」
セミを視線で追うかのように瞬間的に後ろを向いた。
携帯電話が下に落ちる。
ハンドルを離したのはほんの数秒。時速90キロの時だったであろうか。
『ドッカーン』
彼の車は中央分離帯にぶつかって道路上にひっくり返ってしまった。
買ってから一週間しかたっていない新車が廃車になり、彼自身も敗者になっていくがごとく手足を動かしながらギギギともがくだけである。
高速道路沿いの雑木林からセミの大声量が仲間を憐れむように響いてきている。
上下逆さになった運転席に転がっていた携帯電話。どこかのボタンが押されたのであろう、留守録に入っていた音声がリピートされていた。
「もう、別れましょう。あなたとの日々は土の中で過ごしたような3年間だったわ」
ギギギ。
泣いているのか鳴いているのか。
彼はしたたる涙を拭くこともできず、合掌するような手になって動けなくなっていった。
おしまい
短編小説【セミの行方】 ボルさん @borusun
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