その118:鬼よ我が魂の前に哭け 東部ニューギニア戦線 その10
その118:鬼よ我が魂の前に哭け 東部ニューギニア戦線 その10
まだ戦える――
分隊の空気は沈んではいなかった。
兵たちの過剰な戦闘意欲は、おそらく指揮官から伝播したものだろう。
中根主計中尉は、傷をおった兵の手当てをしながら思った。
指揮官――
つまり、辻中佐を視界の端にいれながら、彼は状況を整理する。
連合軍(おそらくは、オーストラリア軍)による砲撃により分隊は少なくない被害を受けた。
1名の戦死者。そして戦傷者は6名。辻中佐もその内の一人だ。右肩に弾片が喰いこんでいた。
それでも、平然と兵からの報告を受け、なにかの指示を出していた。
すでに中佐の身体には「ソ連、中国、イギリス、アメリカ」の銃弾や砲弾の弾片が喰いこんでいるらしい。
右肩に喰いこんだオーストラリア製の砲弾の弾片。
それは、彼の身体に喰いこんだ5か国目の弾片となったのだった。中佐自身が語ったのだから本当であろう。
「殺した敵兵は2人か」
最初の銃撃は効果があったように見えたが、実際に屍を晒したオーストラリア兵は2体。
装備もイギリス製のものであり、オーストラリア兵であることは間違いなかった。
すでに、その死体は密林の中に埋められていた。
辻中佐が命じたのだ。
辻中佐にとって、死んだアングロサクソンだけが、敵ではなかったからだ。
兵が味方の戦死者の小指を切り落とそうとした。
遺骨の代わりに持っていくためだ。
「切るな」
辻中佐はそれを見ると兵を止めた。
「はッ、しかし中佐殿――」
「かまわん、戦死者は自分が背負って帰還させる。そのままでいい」
中根主計中尉は耳を疑う。この密林の中を人間一人を背負って進む?
その行為は、兵を率いる者として立派と称賛されるべきことかもしれないが、帰路の安全が確保されているわけではない。
そもそも、そんなことが可能なのか?
11キログラムの軽機関銃を持っての行軍ですら、この世の全てを呪いたくなった中根主計中尉からすれば、人外としか言えない。
他に、戦傷者の中に自力での歩行が困難なものが1名いた。
弾片が足を深く貫いていた。血は止まり、今のところ命がどうこうということはないだろう。
しかし、兵としての戦力は完全にその身からは去っていた。
これは、他の兵が簡易担架を枝で作っていた。それで搬送するのだろう。
ひとりの兵が辻中佐に駆け寄っていく。
「中佐殿、土人集落に死体は確認できなかったのであります!」
「集落はもぬけの空か…… 土人共は逃げ足が速いのだな」
兵の報告を受け、ほとんど興味がないという感じで辻中佐は言った。
砲撃により破壊された集落には、すでに誰もいなかった。
連合国の宣撫工作、現地人への浸透はかなり進んでいると見るべきだった。
下手に巻き返しの「宣撫工作」よりは、端から「敵性住民」と考えた方が、行動がしやすいのかもしれない。
中根主計中尉は、その考えに至り、何とも言えない苦笑いを浮かべていた。
短時間の接触で、思考までが辻中佐に影響されているかのような自分を見つけたからだ。
辻中佐は、懐から大きな葉っぱで包んだ何かを取り出した。
中根主計中尉は何を取り出したのかという顔でそれを見つめる。
「タバコだ。こうしておかないと、すぐに湿気るのだ」
その視線に気づいたのか、辻中佐は彼にそう言った。
かなり標高のあるこの場所でも、密林の湿気は、タバコをすぐにダメにした。
それを防ぐには、大きな木の葉でタバコを箱ごと包めばいいらしい。
兵隊たちから生じた知恵だった。
辻中佐は、「ほまれ」を1本抜くと、中根主計中尉にも勧めた。
彼はそれを受けとった。タバコを吸ったことがないわけではないが、喫煙を習慣にしているほどではない。
ただ、今、この場では気分転換がしたかった。そのきっかけになるなら、それはなんでも構わなかった。
「どう考える、中根主計中尉――」
「はい。辻中佐殿――」
口の端でタバコを噛みつぶしたまま、辻中佐は問うてきた。
なんの質問であるか、尋ねる必要もなかった。
この状況。今、自分たちが置かれている状況から推測される危険――
それ以外に何を問うというのだ。
前置きはいらなかった。彼は結論だけを先に口にすることを決心していた。
中根主計中尉は、紫煙の混ざった大気を大きく肺の中に流しこんだ。
「辻中佐殿、敵はブナに攻め入る気ではないでしょうか」
ほう――と一瞬だけ、感心したような顔を見せる辻中佐。
しかし、一瞬だった。すぐに抜身の日本刀のような精気をまとい、真正面から中根主計中尉を見つめた。
「根拠はなにか?」
辻中佐は短く問うてきた。彼の右肩の軍服から血がにじんでいる。
「現在、我が軍はココダまでの輸送道路の整備をほぼ完了させています」
元々は辻参謀のねつ造「大陸命」により開始された工事だった。
大本営では「陸路の研究」を命じただけだ。それが実施にねつ造されたが、もう
ポートモレスビーへのラビからの輸送は陸、海とも苦戦していた。
そこで、ブナからの陸上輸送が浮上。定規で引けば最短距離の根拠地からの陸路開拓が有望に見えてくる。
オーレンスタンレー山脈の起伏や密林は地図では実感できないからだった。
大本営からは「研究の結果どうなっている?」と照会が入る。現地の部隊では「え? 実施じゃないんですか?」となる。
ここで、辻中佐のねつ造がばれたわけだが、結果オーライ。
独断専行の実施により工事がそこそこ進んでおり、そのまま工事が続行されることになる。
正式な「大陸命」として。それで、辻中佐のねつ造は
いいも悪いもそれが、帝国陸軍というものだった。
ただ、最前線での遊撃部隊狩りは、辻中佐に対する厄介払いではないかと言う声があった。
しかし、本人が嬉々として最前線に行くのであまり意味がなかった。
色々問題を満載した参謀だったが、戦闘指揮官や、教官としての評価は意外に高かったのだった。
彼を批判する者でも、勇猛であること(匹夫の勇や異常な攻撃性があるとしても)だけは否定はしなかった。
「横合いから、道路を奪還し、一気にニューギニア打通―― ブナまで攻めるか……」
「先ほどの砲撃は10サンチ以上の砲かもしれません。大型の砲です」
半ば趣味で、兵器に関する知識を集める中根主計中尉。
海軍にも陸戦隊というものがあり、そもそも陸上勤務を希望していただけあり、陸上兵器に関する知識もそこそこあった。
「主計中尉! ここでは陸軍である! 『サンチ』などではなく『センチ』と正しく言え!」
「申し訳ありません! 10センチ級の――」
「おそらくは、野砲か…… オーストラリアでも野砲を製造する程度の工業力をはある。アメリカ軍供与かもしれぬがな」
「そのような砲を集積しているとすれば、工事の妨害だけでなく、道路の奪還―― ココダが狙われる可能性も」
「なくはないが…… いまはまだ、可能性であるな」
彼は煙草を捨て、それを踏みつけた。
そして、戦死した味方兵に近づき、手を合わせ、その遺体を背負った。
標高があっても、ハエは多かった。すでに血のまわりにはハエがたかっていた。
ただ、標高200メートルを超えるとマラリア原虫を媒介するハマダラカが少なくなるせいか、マラリア罹患者は分隊の中にいなかった。
「一緒に帰って、荼毘に付す」
辻中佐は軽々と戦死した兵を背負った。自分も肩に傷を負っているのにそれを全く感じさせない。
よく分からない人間ではあったが、体力的には底知れぬ超人に近いものがあった。
「帰還する」
辻中佐が命じ、分隊は密林の中の辛うじて歩ける部分を進む。
そして――
「飛行機か!」
真っ先に叫んだのは中根主計中尉だった。
空に甲高い音が響く。飛行機のエンジン音だ。
分隊は動きを止めた。現時点では発見される危険性は無いだろうが、さきほどグラスホッパーのせいでえらい目に遭っているのだ。
「日の丸…… 友軍機か……」
中根主計中尉は口の中でつぶやくように言った。
密林の隙間から見える空には、十数機の機体。
その翼に、くっきりと日の丸が見えた。
(心強いが…… もうちょっと早ければ)
中根主計中尉には、その力強いエンジン音と、銀翼に輝く日の丸を見つめる。
「ケレマ攻撃の戦爆連合のようであるな」
「ケレマ行きですか…‥」
ポートモレスビーを撤退した連合軍がニューギニアで唯一の拠点としている基地だった。
周辺の基地からは連日、攻撃を行っていた。
さきほどの、「早く来てくれれば」というのは全く筋違いの話であることを中根主計中尉は理解する。
(見慣れない機体だが、陸軍機か……)
それは小型の双発機と、やけに機首の尖った見慣れない機体だった。
日の丸の翼は、密林の中にいる彼ら上空を越え、西へと飛び去っていった。
◇◇◇◇◇◇
流麗な機体がニューギニアの空を飛んでいた。
絞り込まれた機首は、その機体が液冷戦闘機であることを示していた。
そして機体後部まで連なる美を極めるためだけに設計されたようなラインは、武骨なアメリカ軍機とは一線を画している。
整備が難しく、当たり外れの大きいエンジンであったが、金子伍長の機体は当たりだった。
ドイツ製のDB601Aをライセンス生産した「ハ40」は問題無く動いている。
高度4000メートルを超える。赤道に近いニューギニアでも空気が冷たい。
流体継ぎ手の過給機は日本機の中では、トップクラスの高高度性能を保証していた。
第68戦隊のキ61(後に「飛燕」と呼ばれる)12機と、第13戦隊のキ45改「屠龍」6機。合計18機の編隊だった。
屠龍は、地上攻撃任務があり50キロ爆弾を4発搭載していた。
双発戦闘機であるが、軽爆撃機としての運用も可能だ。
時速550キロ近い最高速度は、1943年時点の小型爆撃機としても優速といっていい。
キ61としてもある程度の自衛戦闘が可能な屠龍であれば、対戦闘機戦闘に専念ができた。
金子伍長は、陸軍少年飛行兵学校を卒業しまだ1年も経過していなかった。
完全な初陣である。空気が乾燥しているという理由だけはなく、口の中が乾いてくる。
ノモンハンの生き残り。その技量において神に近いのではないかと彼が信じている男。
上沢軍曹。陸軍の空中勤務者の中では知る人ぞ知るという存在だった。
97戦時代からの総撃墜数は20を超えているという噂がある。ただ、彼はそのような個人戦果を誇ったことが無かった。
金子伍長はただ、ひたすら僚機である上沢機に追従し、空中警戒を怠らない。
雲量は2というところだ。快晴に近い。南洋の太陽が眩い光を叩きつけてくる。
地上は深い緑の海のように見える。そして、オーレンスタンレー山脈。
「本当に、こんなところに、敵は基地を造っているのか――」
金子伍長は圧倒されるような分厚い緑に包まれた密林を見てつぶやいた。
ココダを中心に、ニューギニアの山岳地帯には、いくつかの電波警戒機が設置されているという。
そこで掴んだ、敵機の動きが問題だった。
連合軍は山岳に飛行場を建設しているのではないかという疑念が生じていた。
ケレマやオーストラリア北部だけではない。
小隊長機である上沢機が機体をひるがえした。
それに、追従し、周囲を警戒する。一瞬、敵機が出現したのかと思ったのだ。
そうではなかった。周囲の探索を終了し、ケレマ攻撃に向かうようであった。
無線の使用は禁止されている。
動きは当初の予定通りだった。
金子伍長は、上沢軍曹の言葉を思い出す。
『自分に絶対についてくることだ。なにがあってもこれを守って欲しい。絶対にだ。そして、自分が撃ったら、同時に撃つこと。狙う必要はない。必ず、後ろを監視するのを忘てはいけない。やれると思ったときが一番危ないんだ。落すよりも落とされないこと。初陣で落とされるために、飛行学校を卒業させたわけじゃない。それを肝に銘じてほしい』
ごつい顔の割に、丁寧な物言いの上官だった。
編隊はケレマに近づいていく。
操縦桿を握る手にべっとりと汗をかいていた。
まだ、敵機の影すら見えないのにだった。
キョロキョロと金子伍長は、周囲を警戒する。
自分でも素人丸出しではないかと思うが、見張りを怠ることはできなかった。
唐突だった――
加速する上沢軍曹のキ61。
あまりの出足のよさに追従もできなかった。
彼の機体が激しくバンクを振る。そして、火箭が空中に伸びる。
機銃の発射。
キ61に搭載された12.7ミリ機銃4門のうち機首の2門から火箭が伸びていた。
「敵! 敵がいるんだ!」
金子伍長は火箭の伸びた方向をみやった。分からない。
凝視するように、青い空間を見つめた。
きらりと何かが光った。
無我夢中でスロットルを叩きつける。
とにかく、言われた通り軍曹に追従する。
彼は前に出た、上沢軍曹の機体に追いすがるように加速させた。
1175馬力の「ハ40」が一気に回転数を上げた。
マグネシウム合金のエンジン架から、ビリビリとした細かい振動が、コクピットの彼に伝わる。
「あれは…… P-40か?」
尖った機種に、口を大きく開けたかのような冷却器。
敵機の見極めは基本中の基本だった。同士討ちをしないためにも。
それは、金子伍長が初めてみる敵――
自分を殺すという殺意をもった翼との遭遇であった。
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