その93:アメリカ西海岸通商破壊戦 その4

 パチパチ点滅を繰り返す蛍光灯。そして明かりがついた。

 深度90メートル。

 伊21号潜水艦の安全深度は100メートル。

 設計上の安全係数は1.5倍と聞いているが、爆雷攻撃により船体はダメージを受けている。

 この深度でも安心できるものではなかった。  


 無音潜航のまま伊21号は海中を進む。


「まだです。まだいます。右舷から音源」


 聴音兵の声。

 帝国海軍の潜水艦乗りは「ドンガメ」といわれながらも選抜された精鋭中の精鋭である。

 怯懦(きょうだ)な者などいない―― 

 しかし、聴音兵の声に恐怖の色が混じっているように石井軍医長は感じた。

 それは、自分自身の恐怖を映しだした物だったかもしれないが。


「敵爆雷攻撃! 来ます」


 聴音員は、投射された爆雷の音を探知し、叫ぶように声を上げた。


「各区衝撃に備え――」


 司令塔からの声が響く。

 石井軍医長は手近な机に掴まる。

 喉がざらつき、呼吸が荒くなる。自分の鼓動が耳の奥で鳴っているようだった。


 心の芯がへし折れるような爆発音が響いた。

 水中排水量3600トンを超える船体がビリビリと震えた。


 遠い――

 

 爆雷の深度調停が浅いのか、それとも方位を間違えているのか。

 石井軍医長には分からなかった。ただ、今の爆雷攻撃が先ほどよりも遠くであったことだけが分かった。


 かき乱された海水の中を伊21号は微速で前進していた。


(逃げ切ることができるのか?)


 石井軍医長は背中が粟立つような恐怖を感じながらその思いを抱く。

 伊21号の水中速度は最高でも8ノット。しかし、そんな速度を出したらたちまち電池が干上がってしまう。

 現在は微速だ。1日中モータを回し続けても20海里程度しか移動できないのだ。

 駆逐艦が全速を出せば、1時間半で追いつかれてしまう距離だ。


        ◇◇◇◇◇◇


 何度かの爆雷攻撃があった。

 その度に、鋼鉄の船殻が軋むような音を上げた。まるでそれは生きている人の悲鳴のように聞こえた。


「各区被害報告」


 艦長の指令。伝令の声。そして、モータの低く震えるような音。

 炭酸ガス濃度を増した船内をその音が流れ出していた。


「前部兵員室で浸水。ビルジパイプからです」


「応急急げ」


 爆雷が爆発する度に、背後で落雷があったかのような衝撃を受けていた。

 石井軍医長の背中が汗でびっしょりとなっている。

 いや、背中だけではない。全身から水の入ったズタ袋に穴を開けたように汗という名の水分が噴き出ていた。


 彼はその汗を手拭いで拭いた。手拭いを絞ると汗がボタボタと床に落ちた。


 蒸せかえるような艦内。

 石井軍医長は温度計を再び確認する。

 温度は上昇していた。人間の活動や電池、機械室、配電盤――

 潜水艦とは熱源となるものを密閉空間に満載しているのだ。

 温度の上昇は避けられるものではなかった。


「敵哨戒艇散開している模様。我が艦を包囲する動きです」


「敵、から妙な音源が…… 探信音(ソナー)を打っています」


「敵哨戒艇、3隻。1隻が動きを止めてます。盛んに音を出してます。おそらく、こちらを探っています」


 聴音室からの声が聞こえてくる。それは、どう考えても希望を感じさせるものではなかった。

 石井軍医長はその場に座る。無駄な体力を使わないことも潜水艦の中では重要なことだった。

 周囲を見やった。いつの間にか、先任士官はいなくなっていた。おそらく司令塔にいるのだと当たりをつけた。

 石井軍医長は浅い呼吸を繰り返した。

 固形化したかのようなザラザラした空気は呼吸するたびに、喉を痛めつけていくような気がした。


 彼は自分のチェストからサイダーを取り出した。無性に喉が渇いていたからだ。

 飲料水はなかった。真水を得るためにはポンプを動かす必要があった。

 そのポンプの出す音はバカに大きいのだ。いま、そんなことをするのは、自殺行為以外のなにものでもない。


「糞! なんでサイダーはこんなに甘いんだ」


 呻くような声で彼は言った。

 サイダーを飲んだはいいが、粘りを持った甘ったるい液体は、胸をムカムカさせた。

 おまけに、この瞬間もビンからは炭酸ガスが流れ出しているのだ。

 彼はそれを無理やり体の中に流し込んだ。ゲップがでる。炭酸ガスだ。

 本来はジッとしているべきだった。無駄に動けばそれだけ酸素が消費される。

 それでも彼は艦内を見回ろうかと考えた。

 ジッとしているのがつらかった。

 

「前方、来ます! 急速に接近」


「水中全速!」


 司令塔からの艦長の声だった。


 電池から貴重な電力がモータに流れ込む。

 スクリューが水をかき、水中3600トンの船体を加速させる。

 しかし、それでもせいぜい8ノットにしかすぎないのだ。

 水上の敵が哨戒艇の類としても、その速度は半分以下であろう。


 キーン

 キーン

 キーン

 

 船体を叩くような音が響いているのを石井軍医長は気付いた。


「直上! また来ます!」


「総員、衝撃に備え」


 聴音兵はひったくるようにして、耳からレシーバを外す。

 同時に聴音器のスイッチを切った。

 そうしなければ、爆発のショックで、自分の耳も機械も使い物にならなくなる。


「8秒、7秒、6秒――」


 聴音兵が時間を読み上げた。


 それは、音というより衝撃だった。

 石井軍医長は机にしがみ付く。ヌルヌルとした手でつかみ込み、背を丸めた。

 なにかが体に当たった。鋭い痛みが走る。歯を食いしばる。


 どこからか分からないが「シュー」という空気が漏れるような音が聞こえた。

 ぐらりと船体がつんのめる様に前部を下にした。


「排水ポンプ動きません! 浸水! 前部機械室に浸水」


「メインタンクブロー」


 それは浮上を意味する命令だ。

 驚くような命令。石井軍医長はその場に固まった。あり得ない判断ではないかと思った。

 まだ、敵は直上にいるのだ。今ここで浮上して、勝てるのか?

 敵が哨戒艇としても3対1になる。

 浮上した潜水艦は非常に脆弱な船だ。


 しかし、伊21号は浮上の気配を見せなかった。

 船首を突っ込んだまま、ズルズルと引きずりこまれるように海底に向かって滑り落ちていく。

 深度計の針がグルグルと回っていく。


(130メートルだ…… とっくに限界を超えている)


 ここで、彼は艦長の判断の正しさを知った。

 敵と戦い勝ち目がある無いの問題で無なかった。

 このまま沈降すれば、いずれ伊21号は水圧により圧潰する。

 敵がいようが、浮上するしかないのか――


「ブロー 目いっぱいだ」

 

「目いっぱいです!」


 艦長の重く静かな命令に、伝令兵が悲鳴のように応えた。

 

 特殊鋼で出来た船殻がミシミシと軋み音を上げていた。

 伊21号潜水艦の安全限界深度が100メートル。

 設計上の安全係数は1.5倍と聞いているが、実際にそこまで潜ってテストしたわけではない。

 戦いの中で蓄積されるダメージや、工作精度を考えない、机上の計算値にしかすぎない。

 130メートル潜れないということはないかもしれない。

 しかし、何かの拍子に一気に破壊がやってきてもおかしくは無かった。


 伊21号はまだ沈降を続けていた。

 145メートル――

 安全係数を考えても限界に近いものがあった。

 石井軍医長は、歯を食いしばっていた。

「死」がいますぐ、そこまで来て、自分の首元を舐めているような気がした。粘つく舌でだ。


「止まりました! 沈降止まりました。 浮上、浮上します」


 深度計の針が逆回転を始めた。

 徐々にではあるが、伊21号は浮上していく。

 不気味な軋み音はまだ続いていた。


「一番、三番注水、ベント開け」


 浮上のモーメントに減速をかける命令だった。

 まだ、伊21号は潜水艦として機能していたのだ。


        ◇◇◇◇◇◇


 爆雷攻撃は止んでいた。

 深度計は四〇メートルとなっている。


「前部機械室の浸水が続いている」


 司令塔から降りてきた先任士官が石井軍医長に言った。


「どれくらいの量なんです」


「毎時2トンはあるな……」


「それは――」


 石井軍医長は、質問の言葉を出すのを躊躇した。


「50トンを超えると、浮上できなくなる。艦長には言ってある」


 石井軍医長は二五時間という数字を頭の中で計算する。

 炭酸ガス濃度が上がっている。

 こんな単純な計算をするのも脳の中の思考の流れがボケているような気がした。


「やはりこっちは暑いな。湿気の凄さは同じくらいだが」


 司令塔から降りてきた先任士官が言った。

 外側が鉄板一枚で海水に接している司令塔は比較的温度が低くなる傾向があった。

 それでも、気温は四〇度に近い。

 そしてこちらは、すでに四〇度を超えていた。


「炭酸ガス濃度を測りたいですね」


 彼は言った。それはこの艦で彼のできることの内の一つであった。

 正確な計測を行い、艦長に対し、酸素を供給させる提言をするのは軍医長である彼の仕事の一つであった。


「息苦しいからな。もう、かなりきているなこれは」


 先任士官は大きな鼻の穴をフゴフゴと動かす。


「浮上できないんですかね」


「無理だな」


 石井軍医長の言葉に対し短いが、しかし鋭い反駁をいれる先任士官。

 そして、言葉を続けた。


「まだ、敵さんは上にいるだろうさ。爆雷だって本当になくなったのか怪しいもんだ」


「そうですね」


 石井軍医長はその意見に反対する材料は持っていなかった。

 先任士官の言葉をそのまま受け入れた。


「炭酸ガスの濃度を計測しないのか」


「真水が無いですからね」


 彼の持っている二酸化炭素濃度計測器は、真水がないと機能しない。

 しかし、無音潜航中は真水を汲みだすポンプを動かすことができないのだ。

 普通であれば、潜航する前に準備するのであるが、今回はその暇がなかった。

 

 通常であれば炭酸ガスは7時間で1%上昇する。

 ざっと頭の中で計算する。

 しかし、それが無駄であることを彼は思った。

 各区画によって条件が大きく異なるのだ。

 やはり、計測が必要だった。


「水か……」


「はい」


 石井軍医長と先任士官はそういうと黙った。


「軍医長、機関員に患者です」


 二人の会話に割って入ってきた者がいた。

 振り返る石井軍医長。

 伝令の兵だった。

 石井軍医長は、その言葉を「やはりな」という思いで聞く。

 彼は立ち上がり、後部に向かった。


 湿気と熱で空気が何か別の物質になっているのではないかと思った。

 狭い艦内を歩くだけで、息が切れた。

 後部兵員室に、倒れた機関員が寝かされていた。

 上半身裸だ。


 その機関員は、熱痙攣を起こしていた。

 

 機関室の環境は艦内で最も劣悪な状態になっているのだろうと思った。

 薄汚れた顔には全く血の気がなかった。

 荒い呼吸を繰り返し、ときおり「ビクン、ビクン」と体を硬直させる。

 脈が弱くなっていた。


「カンフルだ。一筒じゃ足らん」


 そういうと、持ち込んだカンフルを続けて機関員に打った。

 脈が強くなる。

 石井軍医長は粘つく空気を吸い込み吐き出した。

 

「酸素を出してもらうしかないか……」


 石井軍医長は小さくつぶやいた。


        ◇◇◇◇◇◇


「酸素放出準備。各区、酸素放出用意」


 艦長は石井軍医長の提言を聞くと、酸素放出を決断した。

 その命令は伝令兵により各区に伝達された。

 

 潜航長が酸素ボンベの供給バルブを開いた。

 シュ―ッという音が聞こえる。

 艦内に酸素が流れ込んでいるのだ。

 見えない。酸素が見えるわけがない。しかし、目に見えて呼吸が楽になって行った。

 しかし、それも一時的なものだった。


「後方より、敵―― 感二」


 聴音兵の声だった。浮上さえできれば、酸素などいくらでも吸うことが出来るのだ。

 しかし、それは今はできない。

 敵の包囲、追跡は続いていた。

 もしかしたら、油が漏れているのではないか?

 位置を暴露しているのではないか?

 爆雷の無くなった敵は、それでこっちが頭を上げるのをまっているのか?

 石井軍医長は思った。ただ、それは何の根拠もなかった。


 浸水も続いている。いずれそれは限界となるが、その前に中の人間がおかしくなってしまうかもしれなかった。


(炭酸ガス吸着剤をまくか――)

 

 苛性ソーダをまくことで、炭酸ガスを吸着させることは可能だった。

 しかし、それを使用すると、発熱反応を起こす。

 艦内の温度は更に上昇することは確実だった。

 比較的マシな環境ともいえる発令所でも気温が四〇度を超えている。


 彼は艦長に提言し、その命令を受け、炭酸ガス吸着剤を各区で撒いた。

 幾分、呼吸が楽になる気がしたが、その代償として凄まじい熱が艦内に放出されることになった。

 

        ◇◇◇◇◇◇


 さらに時間が経過した。

 すでに、乗員のほとんどが酸素欠乏症の患者のようなものだった。

 精密機械の極致ともいえる潜水艦を病人たちが操っている。


(どうなってしまうのか)


 石井軍医長は、腕時計を見た。時計が止まっていた。

 大量の汗が、時計を壊していた。


 地獄という物が存在するならば、今この伊21号の艦内はそれに近い物ではないかと彼は思った。

 おう吐した兵員がサナダムシを吐き出し、彼はそれを厠(トイレ)に捨てた。

 厠の惨状に彼は息を飲む。

 水圧ポンプが使えず、流すことのできない厠の中は人の排出するあらゆる汚物があふれていた。

 彼は顔をそむけるようにして、サナダムシを厠の中に放り投げた。


 彼は吐き気を抑え込みながら、粘つく空気をかき分け発令所の方に戻った。

 そこはまだ幾分マシな場所だったからだ。


「聴音どうだ」


「敵、音源探知できません」


 司令塔はまだ辛うじて戦闘機能を維持している。

 音源がなくなったこと。

 それは、敵が去ったのか、それとも聴音員が限界に達し機能しなくなっているのか、それが分からなかった。


「浮上準備――」


 艦長の声。静かで冷静な声だった。

 

「各員、浮上準備。配置につけ。メインタンク、ブロー」


 伊21号は外殻と内殻の間に溜めこんだ、大量の海水をゴボゴボと吐き出していた。

 タンクの中には圧縮された空気が流れ込み、海水を押しだしていく。

 ゆっくりと、艦が浮上していくのを感じた。


「潜望鏡深度」


 艦長はそういうと、潜望鏡を覗きそして素早くそれを下ろす。


「浮上」

 

 艦はそのまま浮上する。深度計の針は0となった。

 艦が大きく揺れた。前後左右に巨人の手で振り回されたような揺れ方だった。


 艦橋のハッチが開かれた。

 艦内に充満した腐ったような空気がものすごい勢いで外に吐き出される。

 それと引き換えに甘く冷んやりとした甘露のような空気が艦内に流れ込んできた。


 酸素不足で縁日の弱った金魚のようになっていた乗員たちに生気が戻った。

 

「敵、確認できません」


「機関回せ、充電開始」


 虎口を逃れたのか――

 司令塔からの命令を聞き、新鮮な空気を肺に詰め込みながら石井軍医長は思った。


「軍医長。大変だったな」


 先任士官だった。

 彼も大きな鼻の穴を膨らまし、新鮮な空気を吸い込んでいた。


「ええ。今回はダメかと思いました」


「そりゃ、みんな同じだろうさ」


 そういうと、彼は懐からなにかを取り出した。

 黒く光る鉄の塊。拳銃だった。


「自決用だ―― 渡されたぜ」


「そこまで……」


「まあ、使わんでよかったよ」


 そう言うと彼は拳銃をしまった。


 石井軍医長が患者治療のため艦内を駆けずりまわっている間、状況はそこまで切迫していた。

 すでに、機密文書、暗号書などは処分されていた。

 浮上後、敵に対し砲雷戦を行い、その後自爆という計画だったことを先任士官は石井軍医長に明かした。


 彼が人を生かすために奔走している間、伊21号は決死の行動をとることを決断していたことになる。


「先任」


「ん」


「それが、戦争というものなんでしょうね」


「そんなもんだろうさ」


 彼らの言葉は艦内に流れ込む甘い空気の中に溶け込んでいった。 

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