その89:ラバウル・ソロモン海空決戦 その8

 黎明の時までは、まだ時間があった。

 中根主計中尉は、時計を見つめた。

 闇の中、辛うじて針を見ることが出来た。


 九九式歩兵銃はすでに着剣されている。黒塗りの刃が闇の中に溶けこんでいた。

 南海の夜の空を見上げた。

 こぼれ落ちるような星空だ。上弦の月が闇の底にうっすらとした光を届けていた。


 神秘的で荘厳ともいっていい光景だ。

 見ているだけで、「人が生きる意味」や「戦争とはなんだ」という書生めいた思いが浮かぶ。

 中根主計中尉はその顔になんとも言えない苦笑をうかべた。


 自分という存在が無くなっても、この光景は存在し続ける。

 いや、自分だけじゃない。人間が存在しようが、しまいが関係のない話だ。


 国運をかけた戦争――

 それすらも、矮小なことに思えてくる。

 諧謔的(かいぎゃくてき)であり、皮肉に彩られた世界。

 それが今、自分たちのいる世界なのかと思う。


 これから、座礁したアメリカの甲巡(重巡洋艦)に突撃する。斬り込みだ。

 それなのに、中根主計中尉は妙に落ち着いていた。

 もう、理不尽なことで心をかき乱されるのに疲れていただけかもしれないが。

  

 波の音が周囲の静寂を強調するかのようであった。

 20人に足らぬ人数が闇の中を静かに進んでいた。

 ガダルカナル島の近くに浮かぶ小さな島「サボ島」。

 その狭い海岸線を男たちが進んでいた。鬱蒼(うっそう)とした密林が迫っている。


 唐突だった。

 先頭を行く鈴木大尉が手信号を出す。「伏せろ」という指示だ。


「主計中尉」


 鈴木大尉は短く言った。そして手招きした。

 中根主計中尉は九九式歩兵銃を右手に握り、低い姿勢を保ったまま、鈴木大尉の方へ移動した。

 鈴木大尉は駆逐艦「高波」の砲術長であり、この斬り込み隊の指揮官であった。


「見ろ」

 

 鈴木大尉は前方を指さしながら言った。

 中根主計中尉は、その方向を見やった。

 海に向かって黒い物が突き出ている。

 

「あれは、敵の――」

「甲巡だな」


 それはこの島に乗り上げたアメリカの重巡洋艦ミネアポリスだった。

 ただ、その艦名までは彼らには分からない。

 しかし、その艦は、高波と同様にすでに兵器としては価値を失っているように思えた。


「中根主計中尉」


「なんですか?」


「敵は我々の存在に気付いていると思うか?」


「分かりません」


「そうか」


「ただ、気付いているかはともかく、警戒はしていると考えるべきでしょう」

 

「まあ、当然だろうな」


 高波でも甲板に装備されていた機銃などを降ろし、陣地を構築している。

 敵だって同じことをしているだろう。

 そこに、この20人足らずの人数で斬り込みを仕掛けるのだ。


 鈴木大尉は、九九式歩兵銃ではなく軍刀だけを手に持っていた。

 このような戦闘では、小銃なのか軍刀なのかは大した違いはなかった。

 

「密林の中を進むか――」


 鈴木大尉は黒く浮かび上がっている密林に目をやった。

  

        ◇◇◇◇◇◇


 結局、魚雷艇による夜間収容は事実上2回に分けて行われることになった。

 この海域で一度に動かせる魚雷艇の数はやはり足りなかった。


「ガダルカナルにピストン輸送か」


 重巡ミネアポリスの艦長は、つぶやいた。

 その視線は黒い海面の上。沖へ漕ぎ出していく短艇(カッター)を追いかけていた。

 まずは、負傷兵が運び込まれる。

 

 祖国は勇敢に戦い傷ついた兵を絶対に見捨てない――

 その姿勢を見せる事が、士気を維持するためには必須だった。


「彼らが幸運なのかどうか分かりませんな」


 ミネアポリスの艦長の隣で同じ光景を見つめていた士官が言った。


「まあな」

「医薬品と食料を最優先でもって行きましたね」

「それだけ、苦しいのだろう」


 負傷兵とともに、魚雷艇に積み込まれたのは、「医薬品」「缶詰・保存食(レーション)」だった。

 放っておいたら、根こそぎ持っていきそうな勢いだった。

 まだ、この島には残っている人間がいるのにだ。

 

 ミネアポリスの艦長は、保存食、医薬品の一部を海岸線から離れた、密林近くの天幕(テント)に確保させた。

 この島には200人近い人間が残される。

 今夜中に全員が撤退するとしても、何が起きるか分からない。それが戦場だ。

 

「ガダルカナルへの補給は――」


 士官は途中まで言いかけた言葉を飲み込んだ。

 補給が上手く行ってないのは、分かりきったことだった。

 だからこそ、ミネアポリスの物資を漁っていくのだ。


 そして、それが上手くいかないのは、自分たち海軍の責任でもあったからだ。


「医薬品、食料の保管場所はしっかり警戒させてあるのだろう」


 ミネアポリスの艦長は士官の言葉を聞かなかったかのように話題を変えた。


「はい。厳重に」

「そうか」


 クソまずい缶詰であったが、この島では宝だ。

 艦の冷蔵庫は機能を失い、生鮮食料品は底をついている。

 軍隊における、兵の物資盗難行為。

 これは、どこの軍隊であっても抱える問題だった。


「不心得者がいたとしても、警備兵の数を見れば、諦めるでしょう。10名ずつ四直体制で見張らせています」

「まあ、十分だろう」


 味方の盗難を抑止するための警備。

 その意味では、十分な警備がなされていた。


 魚雷艇による救出が予定通りに行われれば、必要のないことになるかもしれない。

 しかし、戦場は想定外のことが起きる。それが「戦争」だ。

 何かしらの齟齬により、魚雷艇が来られなくなった場合、自分たちはここに残される。

 その可能性はゼロと言い切れない。

 そのときに、最重要となるのは食料、医薬品の確保だった。

 

「戦場では何が起きるか分からんからな――」


 ミネアポリス艦長の言葉が熱帯の夜気の中に流れていく。

 ただ、このとき彼はその言葉の本当の意味をまだ知らなかった。


        ◇◇◇◇◇◇


 夜が明けてしまう――

 密林の中をグネグネと進みながら、中根主計中尉は思った。

 漆黒の闇の中だ。

 前方を歩く鈴木大尉の背中を見ようとしたが、暗くて判別ができない。

 辛うじて近くを歩く兵の背中が見えるだけだった。


 最初、彼ら「斬り込み隊」は密林に入ってすぐに出た。

 そのとき、指揮官である鈴木大尉は「これは無理だな」と小さく言った。

 中根主計中尉も同感だった。というか、入る前から無理だと思った。


 敵の甲巡が見えているとはいえ、まだ距離はあるのだ。

 結局「斬り込み隊」は、海岸線を進んでいく。

 そして、より接近してから、密林に入る。密林から突撃をするという計画になった。

 柔軟というよりは、泥縄だった。


 そう都合よく行くのか――

 中根主計中尉はそのとき思った。


 そして、やはり都合よくはいかなかった。


 島に乗り上げた敵甲巡から、約500メートルの地点。

 そこから、彼らは密林に入った。

 密林内を迂回(うかい)し、攻撃を仕掛けるために。


 そして、迷っていた――

 密林内で迷子になっていた。


「中根主計中尉!」

「なんでしょうか! 大尉」


 もはや敵前に近いという意識すらなくなっていた。

 夜中の密林は人の精神の平衡を狂わせる何かがあった。

 中根主計中尉は声のする闇の中へ進んでいく。


 近づくことで、辛うじて鈴木大尉が確認できた。

 彼の目がこちらを見ているのが分かる。

 闇の中、なぜか白目だけが滑(ぬめ)るように光っているような気がした。

 

「海岸線はどっちだ?」


 こんどは、小さな声で訊いてきた。

 中根主計中尉は「オマエが指揮官だろう!」と言いたくなるのを我慢した。


「いや…… 右方向かと思いますが」

「ん、やはりそうか」


 密林に入ると、倒れた巨木、岩などで真っ直ぐ進むなど困難だった。

 それらを迂回している内に、自分たちが今、どこを歩いているかさっぱり分からなくなっていた。

 中根主計中尉の答えにも根拠など何もなかった。

 おそらく、鈴木大尉もそうだろう。


 だいたい、先ほどから同じことを繰り返しているのだ。

 時間だけが無為に過ぎていく。


 それでも20人に足らない男たちは密林の中を歩き続けた。


「主計中尉」


 今度は後ろから声が聞こえた。

 兵の一人だ。闇の中で顔が分からない。


「どうした?」

「話し声が聞こえます」

「話し声だと?」


 その兵は言った。そして、指さした。また右方向だった。

 中根主計中尉は考えた。

 さっき、右に曲がって、また右に曲がるというのは、どうなんだろうかと……

 それって、同じところをクルクル回ることになるのでは?

 そもそも、話し声とは幻聴ではないのか?


 彼はそう思いつつも、耳を澄ました。


「聞こえるな……」


 その音は確かに人の話す声であった。

 そして、それは日本語ではなかった。


        ◇◇◇◇◇◇


「バカな……」


 ミネアポリスの艦長はその報告を聞いたときと同じ言葉を繰り返していた。

 しかし、それは事実だった。

 彼の脳と視力が正常であるならばだ。そして、今のところ彼はその両方とも正常であった。


 食料と医療品を保管していた天幕(テント)だった。

 完全に蹂躙されていた。

 それは、貴重な物資が簒奪(さんだつ)されたことを意味していた。


「日本軍がいるのか…… この島に」

「そう考えるしかありません」


 別に問うた言葉では無かったが、士官の1人が彼の言葉に応えた。

 死体の片づけが淡々と進んでいた。

 銃創ではなかった。

 

 斬殺だ。

 死体の中には首と胴が切り離されたものすらあった。

 

「サムライ・ソードで、夜襲か」


 拳を握りしめながら、ミネアポリスの艦長は言った。

 怒りの感情が徐々に恐怖に変わっていくのを抑え込む。

 

 彼は息を吸い込んだ。南海の湿った空気の中に血の匂いが混ざっている気がした。


「追撃を――」

「ダメだ」


 ミネアポリスの艦長は部下の具申を却下した。

 生きのこった兵の報告では、1個小隊の突撃があったという。

 おそらくは、威力偵察か。

 下手なことをすれば、こちらが返り討ちに遭う可能性もあった。


 死体の中には、日本兵は無かったのだ。

 数で一気に押しつぶされたのか――

 その可能性が高い。


 彼の責任は、この島に残された部下を無事に連れて帰る事だ。

 海軍の兵員は貴重だ。

 一朝一夕で揃えられるものではない。

 アメリカ海軍は兵の無駄使いができるような状況ではないのだ。


 ただ、放置する気はない。

 この島にいる日本軍が、何のためにいるのか? それは分からない。


「後方支援か―― 日本軍のガダルカナル侵攻……」


 彼はその言葉を口にして、頭を振った。


 今ここで、結論がでるものではなかった。

 とにかく、この島に日本軍がいるということ。

 それだけは、司令部に報告しなければならなかった。


        ◇◇◇◇◇◇


 黎明(れいめい)が近づいていた。

 東の空の底がぼんやりとオレンジ色になっている。


 中根主計中尉は空を見上げた。

 あれほどはっきりと見えていた星たちが消えていた。

 ただ、濃藍(こいあい)の空が見えるだけだった。


「大漁だ! 大漁だ! ルーズベルト給与だぁぁ!!」


 背中にぶんどった食料品、医薬品を背負って運ぶ兵たちが声を上げている。

 追撃が来るような気配は全くなかった。

 海岸線を歩く、彼らからはすでに敵の甲巡は見えなくなっていた。

 おそらく、もう味方のところまで指呼の距離なのだろう。


「中根主計中尉」


「キサマ、凄いな――」


 いや、凄いのはアンタだろうと、中根主計中尉は思った。

 ニコニコと笑う鈴木大尉を見つめた。血まみれの顔に満面の笑みだ。


 この大尉は、敵の天幕を見つけると即座に突撃を命令。

 絵にかいたような指揮官先頭で突っ込んでいった。

 そして、混乱する敵兵を軍刀でぶった斬っていった。

 人間の首があんなに簡単に切れるとは知らなかった。

 

 胴から切り離され、クルクルと宙を舞う首を見たときはそう思ったものだ。


「いや、大尉こそ、まさに鬼神かと思いましたよ……」


「そうか」


 満更でもないという顔で彼はそう答えた。


「だが、キサマが銃剣を投げなきゃ、俺は死んでいただろう。短現士官ってのは、あんなことも覚えるのか?」


「まあ、とっさでしたから」


 絶叫しながら、軍刀を振り回し暴れる鈴木大尉。

 テントが引き倒され、露わになる食料品。

 兵たちがそれに群がった。


 そのときだった。

 

 アメリカ兵がマシンガンを構え、鈴木大尉を狙った。

 中根主計中尉だけが気が付いた。

 他の兵は食料品に飛び付いていたが、彼は呆然としていたからだ。

 はっきり言って頭が真っ白になっていた。


 ただ、気が付くと彼は銃剣を投げていた。投げやりのようにだ。

 それが、叫びを上げようとしていた、アメリカ兵の口の中に飛び込む。

 銃剣が貫いた。


 口と後頭部から鮮血を吹き出しそのアメリカ兵がひっくり返った。

 突撃する機を逸し、動転して銃剣を投げてしまったとは、口が裂けても言えなかった。


「まさに、殊勲甲だな――」

「はぁ……」


 鈴木大尉はアメリカ兵の死体から奪い取った短機関銃を首から提げていた。

 

 とにかくだ。

 この島を脱出したら、絶対に異動願いを出す。

 艦隊任務はこりごりだ。

 陸上でも、最前線は勘弁して欲しかった。

 中根主計中尉は、思った。もはや、何度思ったかしれない願いだ。


 どこか、暖かい南の島で、最前線ではない場所へ行きたい。

 そして、出来るならば、無茶苦茶な上官がいない場所だ。


 そして、彼の願いは少しだけ叶うことになる。


 南の島――

 世界で2番目に大きな島――

 彼が、ニューギニアに配属されるのは、もう少し先の未来であった。

 そこで、彼は自分の運命に出会うことになるのだった。

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