その85:ラバウル・ソロモン海空決戦 その5
「今のところ、日本海軍の真の狙いは掴みかねるとしかいいようがありません」
軍人というよりは、銀行員を思わせる雰囲気を身にまとった男は自分の上司にはっきりと言った。
レイトン情報参謀。太平洋艦隊司令部の情報部門の責任者ともいえる男であった。
「分からないということか」
「組織としての結論は、端的に言えばそうです」
知的な碧い眼をした彼の上司は真正面から彼を見つめていた。
太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将。この広大な太平洋戦線において、実戦部隊の長ともいえる存在だ。
分からないことは分からないとはっきり言うことに関して、彼はレイトン情報参謀を評価する。
今の時点では、その回答もいた仕方ないという面もあった。
アメリカ艦隊は各地で苦戦を続けている。
ニューギニアで辛うじて日本海軍の進撃を止めたものの、そのための代償は大きかった。
正規空母2隻の喪失と、200機以上の航空機、相当数の搭乗員を失っている。
「敵の暗号キー(パープル)の更新頻度が上がっていることから、ワシントンはソロモン方面への大攻勢が実施される可能性を指摘していますが……」
レイトン情報参謀はワシントンからの情報を伝えた。ただ、それはすでに彼の上司も知っている事であった。
「貴官はどう思うのかね」
「確かに、大作戦の前兆と見ることも可能ですが、確証はなにもありません。彼ら(ワシントン)は……」
「いいたいことは分かる。だが、彼らも努力をしているのだ」
ニミッツ司令長官は、部下の苦境を察していた。
その苦境を救うべく動いてはいたが、状況は芳しくなかった。
今、太平洋艦隊司令部の情報部門は著しく弱体化していたのだ。
海軍は情報部門の強化、一元化のため、太平洋艦隊司令部の情報部門から多くの人間を引き抜いた。
背景には、海軍省と太平洋艦隊司令部の対立があった。
レイトン情報参謀は、こちらの暗号解読の状態が日本海軍により読まれていることを指摘していた。
異常ともいえる頻度の更新は、そうとしか考えられなかった。
また、一部では今までにない強度の高い暗号が使用されている形跡があった。
一方で、ワシントンの海軍省の情報部では、それを日本海軍の大攻勢の前触れであると分析していた。
軍事的な常識で考えれば、反論する材料の無い真っ当な主張だ。
そして、この対立は情報部門の統一、一元化を促進する。
一見、反論の余地のない合理的な解決方法が実施されることで問題は収束した。
それは、実戦部隊である太平洋艦隊司令部の情報部の縮小。そして海軍省の情報部の人員増強だった。
組織として、情報の流れが整備されたと見ることも出来た。
しかし、一方で最前線における即応的な情報分析力の落ち込みも意味していた。
その苦境の中にいたのが、レイトン情報参謀であった。
彼の率いる情報部は、その中核メンバーの多くを海軍省に引き抜かれていた。
ある意味、彼らは出先機関の情報部門としては、優秀すぎたのである。
ニミッツ司令長官はそのことを承知してはいたが、現状では新しい人員を補充することしかできなかった。
暗号解読は確かにマンパワーが力を発揮する部分もあったが、それが実戦の中で有効になるのは、時間がかかる。
「とにかく、手持ちの戦力で今は踏みとどまることだ。日本海軍が攻勢に出ても、それを食い止める。それだけだ」
心細い戦力であるが…… と、彼は内心思う。
今のところ、主力は巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、そして、陸上基地の航空隊だ。
護衛空母も配備についているが、真正面から日本海軍の機動部隊に挑むのは困難だった。
ポートモレスビーの包囲については、比較的順調ではあった。
しかし、日本海軍のラバウルを中心とする「航空要塞」ともいえる島嶼群は、難攻不落と言ってもいい状態にあった。
ここを起点に攻勢に出られたら、アメリカとオーストラリアの交通線は一気に厳しい物となる。
ニミッツは理知的ではあるが、決して折れることの無い闘志を秘めた瞳で、レイトン情報参謀を見つめた。
「ニミッツ司令長官――」
レイトン情報参謀は、メガネのブリッジを人差し指で持ち上げながら言った。
「なんだね?」
「日本海軍の大攻勢などは無いと思うのです。組織としてではなく、あくまで個人的な見解ですが」
穏やかな口調だった。
しかし、ニミッツには、それはかなり断定的な物言いに思えた。
「なぜだね?」
「開戦以来、日本は、電撃的に南方のアジア資源地帯、太平洋の島嶼、ニューギニアへの侵攻を成功させています。そして、我が軍は空母戦力を失い、戦艦部隊も身動きがとれない状況です」
「認めたくない事実ではあるがな」
「我々は、あらゆるところで、脆弱な横腹を晒しているような状況です。ヨーロッパ戦線の都合で実施された、『望楼作戦』も苦境に陥っています」
望楼作戦はイギリスの要請により、日本海軍がインド洋に向かわないため、アメリカの政治的な判断で強行された侵攻作戦だった。
ガダルカナル島、ツラギ島の占領には成功していたが、その補給ラインは、日本海軍により常に脅かされていた。
つい最近も、大規模な輸送艦隊が、ほぼ壊滅。揚陸した物資も多くが艦砲射撃と爆撃により焼失していた。
「我々は味方を見捨てたりしない。レイトン君――」
「それはそうでしょう。しかし、私が問題としているのはそこではないのです。長官」
その時点でニミッツも彼の言わんとすることをほぼ予想していた。
いや、正確には違う。彼のここまでの言葉によって、今気付いたといっていい。
それは、違和感だ。
日本軍の軍事行動に対する違和感だった。
そして、口を開いた彼の情報参謀の言葉はやはり予想通りのものであった。
「いったい、彼らは、なにを目的としてソロモン、ニューギニアで戦っているのでしょうか?」
「どういうことだね?」
「日本の国力は、我が国の10分の1以下です。戦線のこう着は、彼らにとってなんの利益も産みだしません。中途半端な米豪遮断。ニューギニアに侵攻しても、豪州侵攻への動きは一切、見せていない――」
レイトン情報参謀の言葉はニミッツにはよく理解できた。
ソロモンでも、ニューギニアでも彼らは、一見、攻勢をかけているように見えなくもない。または、その姿勢を保持しているように見えるだ。
しかし、今のところ自分たちのテリトリーから積極的に出てくる気配が感じられない。ガダルカナルへの反攻も、小艦艇による通り魔のような攻撃が中心だ。それでも、洒落にならない被害を受けているのであるが。
日本海軍は、戦力の出し惜しみをしているのか――
それは、少なくとも現場で戦っている高級士官であれば、誰もが感ずる冷静な判断ともいえるものだ。
日本は戦力を保持し、なにを狙っているのか?
戦争を長引かせようとしているのか?
イギリスの脱落を狙っているのか?
であれば、なぜ、インド洋方面へ侵攻しない?
彼らの戦争は、非常に不合理に見える。少なくとも、現時点では。
戦争が長引けば、少なくとも1943年以降。我々は確実に彼らの戦力を凌駕できる。
それは分かっていることだ。
しかしだ。
日本からはまた別の物が見えているのかもしれなかった。
それが、なにか分からない。未来の何かが――
「日本の健在な空母部隊は一部がトラック島、そして残りが国内にいると思われます」
レイトン情報参謀は言葉を続ける。
それは、ニミッツの疑問をなぞるものであった。
「なぜ、彼らはソロモンにもインド洋にも艦隊を送り込まないのでしょうか。ここにきて、艦隊保全主義に凝り固まったのでしょうか? あの獰猛な帝国海軍が? とにかく、あまりにも、艦隊の動きがなさすぎます」
「戦力を温存して、何かを仕掛ける気か?」
「なら、今こそチャンスなのです。なぜ、そうしないのでしょうか?」
ニミッツはその言葉に首肯するしかなかった。相対的な艦隊の戦力差ということでいえば、現在は開戦以来最もその戦力差が大きくなっている可能性がある。
なぜ、その艦隊を有効利用しないのか?
「小官の考えすぎかもしれません。彼らもまた、こちらが想定する以上のダメージを受けており動けないのかもしれません」
「推論を重ねても、意味は無いな――」
ニミッツはここで議論を打ち切った。
彼の部下の意見には傾聴すべき部分はあった。しかし、それは明確な証拠がなにもないのだ。
日本軍の行動の異様さ。それは何か他の要因があるかもしれない。
燃料事情、機械的なメンテナンス不良。
候補となる理由を考えるだけならいくらでもできそうだった。
ただ、それだけで、納得できるかどうかは別問題であったが。
「それよりも、今は、ポートモレスビーの包囲、ソロモン方面での消耗戦。我々により有利な環境を作り出すこと。それを最優先すべきだろう」
背後に控え出てこない日本海軍の主力は不気味ではあったが、出てこないのであればそれでもよかった。
時間はこちらに味方する。
ニミッツは、当然のようにそう考えていた。
◇◇◇◇◇◇
「やはり、切りかえしがいいな」
清水少尉は、新型の零戦32型の操縦席でつぶやくように言った。
従来の21型の栄12型より離昇で200馬力近くパワーアップされた栄21型エンジンが軽快な音を立てていた。
翼端を切り詰めたことにより、横転性能はかなり向上していた。
更に、20ミリ弾は100発に増加。実際には90発程度の装填に抑えられたが、以前に比べれば1.5倍増だ。
高高度性能が上がり、最高速度は時速550キロを超える。調子の良い機体ならばだ。
ブインから陸攻を援護し、バリカン運動(巡航速度が違うので、ジグザグに飛行)をする。
その操舵の反応が21型よりキレがあるような気がしていた。
柔らかく繊細な感じがした21型に比べ、非常に敏感に反応するように感じる。
それは、清水少尉にとっては、好ましいものであった。
飛龍の搭乗員だった彼は、異動により、陸上基地配備となっていた。
彼自身、異動には不満が無いと言えば嘘になる。空母航空隊はなんといってもエリートなのだ。
ただ、あの海戦の後、空母部隊の航空隊は、ほぼ再編といっていいほどの人員の入れ替えが行われた。
多くの搭乗員が教員配置になったという。
そのため、空母部隊は完全にゼロから育成を行っているというのを風の噂で聞いた。
なんでも、1つの空母に対し、正副の2つの航空隊を用意するのが目的だという。
空母航空戦の消耗はそれだけ、激しいということだった。
事実、彼の所属していた飛龍では、艦爆、艦攻の搭乗員の消耗は、もはや全滅といっていいほどだった。
戦闘機隊も、搭乗員はともかく、機材はほとんど廃棄となった。
人殺し多聞丸――
布袋のような顔をした、戦争を生き甲斐としているような提督が、無茶苦茶をやったためだ。
第二航空戦隊司令官・山口多聞少将だ。
発艦と着艦の同時作業という狂気の運用だった。
ただ、その結果として、ポートモレスビー航空戦で空母被害を最小限に抑えることもできた。
機材と搭乗員は消耗したが、箱(空母)は残ったということだ。
彼自身としてはそんな無茶苦茶をやった、多聞丸が嫌いではなかった。
いや、こういった戦争にはあのような提督が必要だと思っていたくらいだ。
第二航空戦隊は、蒼龍を失い、残った飛龍と、翔鶴、瑞鶴の3艦で第二航空戦隊を編成するとのことだ。
今は、搭乗員を一から養成中というような状況らしい。
彼としては、第二航空戦隊に残りたいという思いはあった。
しかし、人事は人事であり、今現実に彼は陸上基地から零戦を飛ばしているのだ。
教員として大量に搭乗員が異動したのは、陸上基地も同じだった。
その穴埋めを、清水少尉のような中堅搭乗員がすることになったということだ。
彼の所属している部隊もまた、熟練者は少ない。
彼は長機として、後ろを飛んでいる僚機を振り返る。
きれいな3機編隊を組む余裕などなかった。
基本は4機編隊だが、実際は目の前の長機に追従するという2機編隊が主流となっている。
目標はガダルカナルだった。
前日、第二水雷戦隊が泊地に突入。
艦砲射撃により、大きな被害を与えているという情報だ。
今回の出撃は残敵の掃討というものだと清水少尉は比較的気楽に考えていた。
ブインに基地が整備されていたため、航続距離で21型に劣る32型でもダルカナルへの攻撃ができた。
飛行性能に優れる32型が使用できるのは大きかった。
もし、ラバウルしか基地が無かった場合、1000キロ以上を飛んで攻撃する羽目になっていただろう。
それは、21型でも限界に近い。
そもそも、搭乗員の体力が持たない。
そんなとりとめのない思考が打ち切られた。
何かが見えたような気がした。ゴマ粒のようななにかだ。
敵機か――
彼は目を凝らす。
まだ、ガダルカナル島には飛行場は完成してない。
であるならば、空母が進出している。
「敵機、方位20、高度50――」
ちょっと前まで、雑音ばかりで滅多に聞こえたことのない無線電話から明瞭な声が聞こえた。
最近は、無線機だけの専用の整備兵がつくようになっている。
以前であれば、手信号とバンクで知らせていた情報が声として伝わる。
高度の優位はこちらにあった。
今の高度は6000メートル。
敵は1000メートル下だ。
こちらは全部で24機の零戦32型に、一式陸攻が18機だ。
敵はどうだ――
清水少尉はゴマ粒のような敵機を見つめる。
30機前後か…… 彼は自身の視力によりその機数を判断した。
戦闘機の数ではほぼ互角といっていい。
「いいか! 落とすより、落されるな。特に、陸攻を守れ、無理な攻撃は絶対に禁ずる」
中隊長機からの声が響いた。
「まったく、どいつもこいつも無茶をいいやがる」
清水少尉は、そのような言葉を吐いていた。
ただ、その時に彼の顔を見た者がいれば「なんで笑っているんだい?」と質問しただろう。
彼もまた、生粋の戦争中毒者(ウォーモンガ―)だった。
彼はスロットルを叩きこむ。
離床1130馬力の栄21エンジンが奏でる旋律がソロモンの空に高らかに響いていく。
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