その58:血戦! ポートモレスビー その2
「波はさほど荒くないか」
第一七軍司令官である百武晴吉中将は、墨汁のような色を見せている海を見つめて言った。
昼間はあれほど鮮やかな色をみせていた海面は、夜になると人に根源的な恐怖を感じさせる色に変わる。
月明かりは弱かった。新月ではないが月齢は27を超えている。身を細めた月がかろうじて天空に確認できた。
大本営陸軍部命令六三三号――
ポートモレスビー攻略命令。
この大陸命によりポートモレスビー攻略にあたっていたのは、第一七軍であった。
司令官は百武晴吉中将。上陸部隊の司令部となっている輸送船のブリッジに彼はいた。
すでに輸送船からは、多くの大発が下ろされ、第一陣がゆるゆると侵攻を開始していた。
「反撃がありませんな」
「砲台の暴露をおそれているのかもしれんな」
百武中将は幕僚の事実確認の言葉に答えた。
ポートモレスビーは静まり返っていた。
「本当にもぬけの空になっているのではないでしょうか」
百武中将はその言葉を肯定も否定もしなかった。ただ黙って聞いていた。
ポートモレスビー湾に展開しているはずの連合軍は沈黙していた。
それは今に始まったことでなかった。
上陸に先立ち、海軍航空隊、空母艦上機による攻撃が行われていた。
そこでも、一切の反撃はなかった。迎撃も対空砲火もなかった。
ポートモレスビー湾に突き出した半島部分の市街地。
そこから二つの飛行場に向け伸びる鉄道。
ニューギニアという地球上で最も文明から遠い島。ポートモレスビーはその中では例外的に開発の進んでいた場所である。
良港を抱え、ニューギニア防衛のためにも最重要な拠点といっていいだろう。
その拠点をあっさりと捨てるのか?
「決めつけは危険だな――」
百武中将は独りごとのようにポツリと言葉をもらした。
戦場ではなにがあるか分からない。
上陸戦における防御側の基本は、水際で敵を叩くことだ。
橋頭堡を築かれるまえに、海に叩き落す。それがセオリーだった。
上陸戦で侵攻側がもっとも脆弱なのは、上陸直前なのだ。そこを狙わない莫迦がいるとは思えなかった。
しかしだ――
彼我の戦力比が圧倒的で、水際撃退が無理であると判断された場合はどうか?
司令官としての彼はあらゆる可能性に思考を巡らせる。
だが、それにしたところで、こちらのやれることは限られていた。
ただ、突き進むだけだ。
彼は、陸に目を向けた。黒い塊に見えるニューギニア。そして、ポートモレスビー湾の形がかろうじて確認できた。
上陸第一陣の陸兵を乗せた大発はサンゴ礁を回避し、バシリスク水道とリルセブラッド水道を抜けようとしていた。
◇◇◇◇◇◇
「敵が逃げたとは、本当でしょうか? 伍長殿」
岩崎一等兵は三八式歩兵銃を抱え声をひそめるように言った。
「さあな。ただ撃ってこないってことは逃げたってことかもしれんな。上がってみれば分かるだろ」
武藤伍長は答える。ただ彼にしたところで、なにかの確証がある訳ではなかった。
ポートモレスビーがもぬけの空かもしれないという話は、上陸部隊となる下士官兵まで知れ渡っていた。
「惰弱な米兵は逃げやがった」と本気で信じる者もいた。
「豪州兵がいるとなると、そう簡単に逃げないのではないか。罠かもしれない」そんな考えを口にする者もいた。
豪州に近いニューギニアには「豪州兵」がいるというのは、分かりやすい話だ。
ポートモレスビーは豪州本土から目と鼻の先なのだ。
豪州兵の勇敢さ、戦闘能力の高さは、米英兵よりも高く評価される傾向にあった。
南方戦線での戦いぶりからの評価だった。実際に彼らの戦意は非常に高く、練度も高かった。こちらの白兵突撃にもひるまず、真っ向から迎え撃ってくるという評価ができつつあった。
実際に敵前上陸を行う段となると、「敵が逃げた」を本気で信じる者の数は減っていった。
自分の命がかかっているのだ。そう簡単に楽観的になれるはずがなかった。
反撃の無さが逆に不気味さを増していく。
多くの兵士の胸のうちに、得体のしれない罠にむかって突き進んでいるのではないかという思いが浮かんでいた。
武藤伍長が口にした「敵が逃げた」もすでに願望に近いものになっていた。
「艦砲射撃も手抜きだったしなぁ」
武藤伍長は言葉を続けた。
上陸に先立ち、海軍の駆逐艦による艦砲射撃が行われたが、それは「義務的に」実施されている感じがした。
雑な言葉をつかえばまさに「手抜き」だ。
ただ、艦砲射撃が積極的に行えない理由もあった。
ポートモレスビー基地の施設が非常に価値ある物だからだ。
整備された市街、飛行場、鉄道は、ニューギニアという地でおいそれと手に入るものではなかった。
よって、それらの施設に対する積極的な攻撃が控えられていた。
飛行場に対する攻撃も爆撃ではなく、戦闘機による航空機を狙った攻撃になっていたのも、それが理由だ。
飛行場はなるべく無傷で、その上で敵の航空戦力を削るという虫のいい文脈で実施されていたものだ。
そして、敵からの攻撃がないということは、砲撃によって潰すべき拠点も特定できないことを意味していた。
「おっと」
武藤伍長は崩れそうになる体勢を踏ん張って立て直す。
大発が波で大きく揺れたのだ。
大発は、完全武装の陸兵六〇名を乗せ、8ノットの速度で陸を目指す。
帝国陸軍が開発した先進的な敵前上陸用の器材。それが大発だ。正式名「大発動艇」という。
船舶工兵が後部に錨をおろした。ジャッキに連結されている錨だ。
上陸後には、ジャッキを巻き上げ、艇体を海面に引き戻すようになっている。
大発が砂浜に乗り上げた。そして艇首の歩板が前方に倒れる。
大発のスパイラルスクリューは、浅瀬に突っ込んでも損傷を防ぐ構造となっている。
ガシャガシャと装具を鳴らし帝国陸軍「歩兵第三五旅団」の大隊が上陸を開始した。
装具のこすれ合う音と、波の音以外には何も聞こえなかった。
九六式軽機関銃を装備した軽機分隊が進む。
九二式歩兵砲が大発から降ろされ、ガラガラと音をたて進んでいく。
今のところ、これらの兵器はおろか、小銃すら撃つ必要はなかった。
夜気の中、ただ南海の波の音が響く――
「本当に、いないのか? 誰も」
武藤伍長の呟きに、沈黙が回答していた。
◇◇◇◇◇◇
「ジャップには贅沢な墓場だな」
アメリカ海軍海兵隊のスパイク少尉は吐き捨てるように言った。
彼の周囲には数名の肌の黒い現地人が立っている。
コーストウォッチャーズといわれる現地人による偵察部隊であった。
闇と密林が彼らの存在を隠していた。
「サルどもが、うじゃうじゃと湧いてきやがって」
出来ることなら、ここで機銃掃射か、砲撃を食らわせてやりたいと思った。
スパイク少尉はそのもどかしい思いを押さえつける。
日本軍がポートモレスビー侵攻を計画していると察知されてから、その対策は連合国(米豪間)で話し合いがなされていた。
オーストラリア政府は、すでに日本軍の本土進攻を既定のものとして「ブリスベーン・ライン」を策定。
日本軍の北部への侵攻を許容し、本土内陸部での防衛戦闘を覚悟していた。
そして、アメリカ側はこれを支持した。
アメリカとしては「欧州戦線優先」という大前提があった。
投入できる物資と達成すべき戦略目標。
その、中での米豪の合意であった。
欧州優先といっても、日本に好き放題させるわけにはいかない。
太平洋戦域におけるオーストラリアの脱落は、この戦争を非常に厄介なものに変えかねない要素があった。
オーストラリアはなんとしても守らなければいけないのだ。
しかしだ――
その正面戦闘力において、世界最強と思われる日本海軍を打倒し、オーストラリア侵攻を断念させるというのは早期には困難と思われた。
1943年以降でなければ、アメリカといえど本格的な反攻は厳しいものがあった。
出来ることは、防衛戦術。可能であれば、攻勢防御だ。
そのため、ポートモレスビーを完全に守りきるのは難しいと見られていた。
米豪間で共通する認識だ。
本土防衛にシフトし、限られたリソースをその準備に振り向けているオーストラリアには、ポートモレスビーを守りたくとも、その余力がなかった。
一方、アメリカとしても、海上における日本海軍との決戦にパーフェクトに近い形で勝利でもしない限り、ポートモレスビーの保持は難しいと判断していた。
そして、現時点で日本海軍相手にパーフェクトゲームができるとするのは、あまりに虫のいい考えと思われた。
可能なことは、日本軍に徹底的な出血を強いること。
奴らをズブズブの消耗戦に引きずり込むこと。
徹底的にジャップの血を太平洋にそそぎこむことだ。
まずは、このニューギニアで日本軍を止めることが最優先として考えられた。
オーストラリアという策源地を完全に失ってしまうことは、「欧州戦線優先」という中でも許されることではない。
オーストラリアが本土決戦の覚悟をしているのはいい。
これは、逆にいえば、本土に攻め込まれても戦い続けるというメッセージでもあった。
ただ、だからといってやすやすとオーストラリア本土をジャップに明け渡すわけにはいかなかった。
各地で連戦連勝を続け、勢力範囲を広げる日本軍。
アメリカの国内世論は、「欧州戦線優先」に対し大きな支持を与えていない。
アメリカにとっての「主敵」は「大日本帝国」であり、その打倒を優先すべきであるという主張は国民にとって説得力のあるものだった。
真珠湾攻撃は、アメリカを激怒させたが、その怒りの矛先は日本に向いているのだ。ドイツやイタリアではないのだ。世論調査でもそれは明らかになっている。
西海岸では日本海軍の潜水艦の砲撃が続き、潜水艦搭載の小型機による爆撃すら行われていた。
どこかで日本の進撃を止める必要がある。
それがニューギニアだ。
これにはオーストラリアだけではなく、欧州戦線の問題も関係していた。
イギリスの問題だった。
彼らは、日本海軍のインド洋侵攻を異常なまでに恐れていた。
イギリス首相のチャーチルにとって、日本海軍が矛先をインド洋に向けるのは悪夢以外の何ものでもなかった。
もし、日本が部分的にせよ、インド洋の制海権を支配した場合、その影響ははかりしれないものがあった。
イギリスの東洋艦隊は、とてもではないが太平洋の戦域のレベルで戦闘を行えるものではなかった。
そもそも、現時点で日本海軍とまともに海戦を行える国はアメリカぐらいしかないのだ。
そのアメリカですら、日本に勝利することができずにいるのだ。
日本軍の目をインド洋に向けさせない。
太平洋での日本軍の進撃を止め、そこで釘付けにする。
オーストラリアの脱落を防ぐ。
これが、太平洋戦線において、アメリカの戦略目標となっていた。
彼らの戦力をニューギニア方面に釘付けにする必要があった。
その上で、オーストラリアを守りきらなければいけない。
「今のうちに、スキヤキパーティでもしてろジャップが!」
スパイク少尉の双眼鏡を持つ手が怒りに震える。
黄色い、みすぼらしい小さな奴らがワラワラと小舟に乗ってやってくる。
全体としては大隊規模に思えた。
小さな大砲らしきものが確認できたが、大口径重砲や戦闘車両の類は見つからなかった。
こんな小さな猫背のサルども相手ならまともに戦って負けるとは思えなかった。
古参の士官が口にする「日本軍の恐怖」はあまりにも怯懦にすぎるのではないかと思った。
闇の中に溶けこむような肌の色をした男が、スパイク少尉に近づき、何事かを伝えた。
明らかに現地の人間であった。
スパイク少尉は口元に笑みを浮かべる。
アメリカも、そしてオーストラリアもまだ戦いを諦めたわけではなかった。
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