その46:珊瑚海は燃えているか? 2
ラバウルを出港した船団が航行している。
その船団の目指す先はポートモレスビーだった。
ニューギニア最大の連合軍拠点。2か所の飛行場を持ち、今も日本海軍の基地航空隊と壮絶な航空撃滅戦を展開していた。
ポートモレスビー攻略船団は陸軍部隊を乗せた12隻の輸送船を護衛艦隊が守る形で進んでいる。
攻略部隊の南海支隊は5000人の兵力であった。
特設水上母艦神川丸は、僚艦の聖川丸ともに、その船団護衛の任務についていた。
運用できる水上機は2艦で16機。零式水上偵察機、零式水上観測機を各8機だった。
その内の一機、零式水上観測機が対潜哨戒任務についていた。
1942年当時、航空機から潜水艦を見つけるために用意されたセンサーは、生体光学センサーのみだった。
要するに肉眼だ。肉眼による発見以外に手段は無かった。
ただ、この光学センサーは意外に高性能である。21世紀になっても使用が続けられているくらいだ。
より足の長い、零式水上偵察機は、長距離索敵に投入されていた。
ただ、この索敵機が敵空母を発見したとしても、この護衛艦隊に出来ることは退避行動くらいだった。
最後尾には瑞鳳、祥鳳の艦隊型の軽空母が随伴している。しかし、搭載機は全て戦闘機である。
対艦攻撃能力は皆無に等しかった。
「飛曹長、あの噂は本当ですかね――」
「噂?」
伝声管から聞こえる藤田一飛の言葉に、神田飛曹長は一瞬考えた。
「この船団が囮だって話しですけどね」
「ああ、あの与太か――」
神田一飛曹は一笑に付した。あり得なかった。
彼の眼下に広がっている船団を囮にするほど、日本に金があれば、そもそも戦争などしていない。
「航空機の援護は全部ポートモレスビー攻略船団ですよね。なんでですかね」
藤田一飛が言外で言いたかったのは、囮であるがゆえに、独力で対空戦闘できる護衛を付けているということだ。
軽空母2隻には戦闘機のみ60機を積んでいると聞く。
これはかなり、異常な運用なことは確かだ。ただ、それは過去の戦訓から導かれた運用であり、これをもって囮と決めつけるのは早計だった。
「護衛は多い方がいいだろう。なんせ、12隻の船団なのだからな」
1942年当時の日本にとっては、12隻の輸送船団は大船団といってもよかった。
「ラビに向かった、船団の上空護衛は基地航空隊のみって話ですけどね」
「それだけ、ポートモレスビーの方が難所を通るからだろ」
「そうですかね……」
警戒すべきは空母だけではなかった。豪州、ニューギニア、ソロモン方面の米陸上基地からの攻撃もあり得た。
事実、昨日すでに、船団はカタリナ飛行艇の接敵を受けてた。
距離か敵基地周辺の天候の問題であるのか、まだ攻撃は受けていない。
だが、すでに船団は見つかっている。いずれ、攻撃されるのは、予定調和内の出来事であるとさえいえた。
バカバカしいと思いつつも、船団が囮であるという噂はかなり広がっていた。
機動部隊は輸送船団に食いついた米空母を狙って攻撃を行うというものだった。そのため、輸送船団はわざと攻撃されやすい航路を進んでいるというものだ。
攻撃されやすい航路?
だいたいポートモレスビーに向かう安全な航路とはどこだ?
そんなものはあるわけがない。渡る海路は敵ばかりなのだ。
「陸軍じゃ、海軍のそんな態度を見透かして、陸からポートモレスビーを攻略する準備をしているとか…… 大本営から参謀が送りこまれたとか…… 話半分でしょうけどね」
「貴様はどこから、そんな与太を仕込んでくるんだ?」
この様な噂は、戦場の不安心理で生み出す妄想のたぐいだと神田飛曹長は思っていた。
陸路で攻撃できるものであれば、わざわざ船団で危険を冒して珊瑚海を航行する必要はない。
陸軍の大本営参謀云々については、意味すら不明だ。やってきてどうしようというのだ?
陸さんのやることはよく分からないのではあるが。
「とにかく見張れ―― 帰る場所がなくなりたくなければな」
神田飛曹長は話を打ち切った。
特設水上母艦の神川丸は、船団の外側に位置していた。
本来であれば、最後尾をいくものである。水上機とはいえ航空戦力を運用できる艦艇は貴重だ。
潜水艦に対し、最も安全な最後尾というのがセオリーだ。事実、2隻の軽空母はその位置を進んでいる。
潜水艦は速度が遅いため、最後尾を攻撃すると、追撃が殆ど不可能となる。
最後尾にいる空母を攻撃するということは、それ以上の戦果拡大はできないことを意味している。
そのため、通常護衛の空母は最後尾を航行している。これが定石だった。
ただ、商船改造の特設艦である神川丸は、速度の関係で最後尾での航行は困難だった。
着水した水上機を拾う必要もある。
この位置にいることで、潜水艦に狙われるリスクは大きくなっていることは確かだった。
「潜望鏡! 潜望鏡らしきもの! 30度、距離3000――」
藤田一飛の声が響いた。
機首から見て、右に30度の方向だ。どこだ?
神田飛曹長は目を凝らした。
いた――
あれか?
一瞬キラリと光るものがあった。そしてすぐそれは波間に消えていく。
神田飛曹長は部下の視力に感心した。しかし、それを表に出すことは無かった。
フットバーを蹴飛ばし、機体を傾け、潜望鏡が見えたと思われる場所に飛ぶ。
藤田一飛はすでに打電を行っていた。船団に対し、潜水艦の発見を伝える物だ。
緩降下で潜望鏡発見の場所に突っ込んでいく。
零式水上観測機には、翼下には30キログラムの陸用爆弾2発を吊るしている。
一応対潜攻撃は可能であるが、完全に潜航している潜水艦に対する効果は分からなかった。
対潜爆弾というものがあるという話は聞いている。しかし、神田飛曹長は実物にお目にかかったことは無かった。
手持ちの武器でやるかなかった。
緩降下を続けながら、機首の7.7ミリ機銃を放つ。
すでに、潜望鏡は潜航している。
機銃の銃撃が効果があるとは思えなかったが、撃たずにはいられなかった。
潜水艦といっても通常の運用限界となる深度は100メートル程度だ。最新の潜水艦でこれだ。
旧式であれば、さらに深度は浅くなる。
これは、潜水艦自身の全長よりも短い。
つまり、縦にすれば、潜水艦は先が出てしまう程度しか潜れないということだ。
よって、海の透明度が高ければ、上空から潜水艦を見つけることも可能だった。
ただ、今はそのようないい条件ではない。
丸めた青いセロファンを再び広げたような海面からは潜水艦の影は確認できなかった。
「頭を押さえるしかないな」
潜水艦を沈めることはできなくとも、制圧はできた。
また、味方の対潜攻撃可能な艦艇を誘導することも可能ではあった。
ただ、その判断をするのは神田飛曹長ではない。
情報は流した。それをもって、潜水艦をどうするか判断するのは、艦隊司令官の職務だ。
「頭を抑えろといってます。特設砲艦を向かわせるそうです」
藤田一飛の声が伝声管越しに聞こえてきた。
「特設砲艦? なんだそれは? なんとかなるのか?」
聞きなれない艦種に訝しげに答える神田飛曹長。
彼は、爆弾を投下するかどうか迷った。
どうせ、着水時には捨てるものだ。今の段階で捨てても大差はない。
「3番を投下する」
神田飛曹長は言った。
狙いはつけない。潜望鏡を発見したあたりに適当に爆弾を投下する。
黒い礫のような30キロ爆弾はすっと海面に吸い込まれるように落ちていき、ささやかな水柱を作った。
ただ、それだけだった。
「浮遊物あるか?」
「ありません」
あるわけが無かった。こんな適当な爆弾投下で、損傷する潜水艦があるなら、苦労はしない。
「後は、頭を押さえ続けるしかないか――」
神田飛曹長の呟きはエンジン音にかき消されていた。
◇◇◇◇◇◇
「猟解禁だ――」
潜水艦S-44の司令塔に静かな声が響いた。
ハワイのホノルル放送に乗って流れる潜水艦に対する指令だった。それは、1月以上に渡り積極的な攻撃を禁止されていた潜水艦に対し、攻撃を解禁する指令であった。
ラバウル、ソロモン方面に展開するアメリカ潜水艦は合計20隻以上。太平洋方面で稼働する潜水艦を集中運用していた。
中には、S-44のような、退役寸前の旧式艦も混ざっている。
マドロック艦長は蒸し風呂のようになっている司令塔中で、頭をかいた。爪の間に汗の塩が溜まっていくような気がした。呼吸する空気の温度の方が、体内の温度より高い気もする。潜航中の潜水艦の艦内温度は地獄のように高くなる。これはどこの国の潜水艦でも同じだ。
最新鋭の潜水艦には空調システムがあるというが、まあ気休めのようなものだと聞いている。
ただ、このS-44には、その気休めすら存在していない。赤道に近い海での運用はかなり厳しいものがあった。
1942年6月現在――
アメリカ潜水艦部隊の置かれている状況は、良好とは言い難かった。
様々な問題点が吹き出し、戦前に想定していた活動が困難になっていた。
ニューギニア、ソロモン方面での1月間の攻撃禁止。敵情を探るのみという消極的な運用が許容されたのも、その問題点が根底にあったからといえる。
まずは、魚雷の不足だった。
フィリピンが日本軍に攻撃されたことにより200本を超える備蓄魚雷の全てを米海軍は失っていた。
更に、策源地の喪失だ。
オーストラリアの消極的な姿勢により、同国内に有力な潜水艦基地を作ることができなくなっていた。
下手に、基地を作って、日本の攻撃を誘因した場合に、反撃する戦力が無いという点が大きな問題であった。
太平洋は広すぎた。
特に、日本と東南アジアを結びつける資源輸送ラインは、現状のアメリカ軍の潜水艦基地からは遠すぎたのだ。
広い海洋は会敵頻度も低下させる。
効率的なシーレーン遮断を行うことができずにいた。
散発的に戦果を挙げていたものの、それは戦前に期待されていたものとは大きな隔たりがあったのだ。そもそも、アメリカ軍にとって、潜水艦は敵艦隊を攻撃するものであり、商船攻撃については二の次という面があった。
そして、米潜水艦の活動を最も掣肘しているのは魚雷の不具合だった。
MK14魚雷。
アメリカ軍の正式魚雷であり、額面上の性能で行けば、当時の水準にあるものだ。
この魚雷が大問題だったのだ。
不具合の総合商社のようにあらゆる場所に不具合があった。
信管の不良で当たっても爆発しない。
深度調整機能の不良で狙った深度で進まない。
ジャイロとフィードバックシステムの不具合で真っ直ぐ進まない。
要するに真っ直ぐ進むかどうか分からず、狙った深度になるかどうか分からず、当たっても爆発しない可能性の高い魚雷だった。
下手すると魚雷がグルと弧を描いて自分のところに戻ってくる可能性すらあった。
ただ、現在珊瑚海を進むS-44にとってはあまり関係はなかった。
彼女は最新のMK14が運用できず、旧式のMK10を使用していからだ。
性能はかなり低いが輸送船攻撃には大きな問題の無い魚雷だった。
「潜望鏡揚げ」
マドロック潜水艦長の命で、油圧により潜望鏡が上がっていく。
昨日、すでに発見し、夜間に距離を詰めてある日本の船団だった。
現在のところ、こちらの存在に気取られた気配はなかった。そんなへまをする気もなかった。
その狭い視界内に映った情報で彼の脳は様々な判断を下した。
方位――
すでに彼らは船団のかなり前に進出していた。
距離――
潜望鏡レンズには分角で、目標までの概算距離を測定する目盛があった。
およそ、8海里(マイル)といったところか。
「潜望鏡下げ」
マドロック艦長は高い技量の持ち主であった。実際のところ、最新鋭の潜水艦艦長へという周囲の声もあった。
ただ、彼は妙にこの旧式潜水艦が気に入っていた。
最高深度40メートル少々の性能ではあったが、まだ活躍できる潜水艦だと思っている。
「モータ並列、微速前進」
ゆるゆると潜水艦S-44は、水中を進む。速度は3ノットにも達していない。
「奴ら、空母をもってるな――」
「艦長、それは確かですか?」
「ああ、見えたぞ、奴らの上空に足無しの機体が飛んでいやがった」
「哨戒機ありですか――」
艦長に質問したのは先任士官であった。アメリカ海軍で、その存在は敬意をこめナンバーワンと呼ばれている。
「おそらく、空母がついている。まあ、護衛空母か軽空母かもしれんが。おそらくは船団護衛用の空母だろう」
「となると、セオリーでは最後尾ですね」
「ああ、そういうことだな、ナンバーワ――」
潜水艦艦長と先任(ナンバーワン)声が遮られる。凄まじい轟音。
ビリビリと船体が震えた。
「なんだ! いったい!」
ナンバーワンが叫ぶ。
そしてさらにもう一発の爆発音。
続けて2発の爆発音であった。
「被害状況は?」
「艦尾機械室に若干の浸水です!」
「止めろ、木栓でもズタ袋でも詰めておけ!」
「なんだこれは? 爆雷……?」
「爆弾です。おそらく敵機からの爆弾攻撃。接近する艦艇は何もなかったのですから」
「感アリ! 9時の方向 距離8000―― 敵です! 敵の駆逐艦!」
聴音員が報告する。
「気取られたか」
吐き捨てるようにマドロック潜水艦長は言った。
冗談じゃない。これから狩るのはこっちの方だ。
俺たちが獲物になって追い立てられるのは、ゴメンこうむる。
シュシュシュシュシュ――
一軸推進のスクリュー音が聞こえてくる。聴音マイクを通すまでもなかった。
艦内は静寂に満ち、温度は上がる。沈黙で満たされた焦熱地獄と化している。
太い汗の筋が、マドロック潜水艦艦長の額から流れ出していた。
沈黙に支配された、緩やかな時間が艦内を流れていた。
「聴音データだけで、攻撃する――」
マドロック艦長の言葉だけが沈黙の艦内に流れ出していた。
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