その28:容赦なき人種戦争
1942年4月。
フィリピン、バターン半島に展開する米軍は戦闘力を失っていた。食料の枯渇。マラリア、赤痢、デング熱などの熱帯性の疾病。
7万8000を超える将兵の中でかろうじて戦闘可能と判断されたのは2万7000人。
それも日本陸軍の砲撃と爆撃に晒され、消耗しきっていた。
日本軍の攻撃は、第一次世界大戦知っている古参兵にとって「まるでドイツの猛砲撃だ」と言わしめるものだった。
爆撃や砲撃により、周囲の竹藪が焼けた。その熱が、タコツボに籠ることを許さなかった。
タコツボを飛び出した数千の兵士が焼死した。
そして、増援を得た日本陸軍精鋭の突撃。九七式中戦車と皇軍兵士の突撃を阻む者は何もなかった。
この九七式中戦車の中には、戦闘の序盤で出現したM3軽戦車・スチュアートに対抗するために、わざわざ輸送した車両が混じっていた。
同じ九七式中戦車であるが、「新砲塔チハ」と一般に言われるもので、口径47ミリの戦車砲を搭載している。一式47ミリ戦車砲だ。
砲身長が長く、従来の短砲身57ミリ戦車砲に比べ、対戦車戦闘では圧倒的に優れたものだった。
57ミリ砲では撃破できなかったM3軽戦車・スチュアートの正面装甲を貫通できる。
ただ、今回の戦闘は、米軍は戦車も失い、「新砲塔チハ」が対戦車戦闘をすることはなかった。
それでも、砲爆撃により、ボロボロになった米軍にこの突撃は止めに近い物があった。
米軍の拠点であったサマット山も陥落、続く新防衛ラインであるサン・ビゼンテラインも蹂躙された。
病人と敗残兵の群れは南に向け潰走を続けるだけだった。
神の名を叫ぶか、呪詛の4文字言葉を叫ぶだけの、敗残者の群れだった。
もはや、米軍にとって取りうる選択肢は4つしかなかった。
無条件降伏か、戦って死ぬか、病気で死ぬか、餓えて死ぬかだ――
コレヒドールに籠城するマッカーサーは降伏を許さなかった。
端的に言って「死ぬまで戦え」ということだ。
「バターンは死守せねばならん。食料が無くなろうが、その管区の降伏は認めん。ウェーンライト少将」
マッカーサー将軍は、受話器を握りしめ強い口調で言った。
電話の相手は、バターン守備の総指揮官となっているウェーンライト少将だった。
「バターン半島西の部隊は? 無傷なのだろう。攻撃だ。本間の部隊を真っ二つに分断するのだ! 無理? そのようなコンディションではない?」
だんだんと、マッカーサーの声が大きくなってくる。
「降伏は認めん。攻撃だ。日本軍を撃退するまで、生きて帰ることは許さん」
マッカーサーはそう言うと受話器を叩きつけるように置いた。
オタマジャクシのように見えるコレヒドール島。要塞と化したその島のトンネル内の一室にマッカーサーはいた。
「もう、限界かね……」
マッカーサーはつぶやくように言った。
部下には死ぬまで徹底抗戦せよと命じたが、客観的に見て戦闘継続は不可能に思えた。
しかし、それでも戦闘を行い、独りでも多くのジャップを殺す。そして時間を稼ぐ。
指揮官としてそう命ずる以外ない。そこには、苦い思いがあった。
「彼らはよくやっています」
サザーランド参謀長は、静かに言った。
彼も相当に憔悴している。ここコレヒドールにも連日、日本軍の爆撃が続いているのである。
最前線にいるという意味では、ここも最前線であった。
「分かっているよ。サザーランド君」
「閣下――」
「窮地にあるのは分かる。しかし、最後の一兵まで戦わねばらなない。祖国のためだ。それが軍と言う物だ」
死ぬまで戦えは、日本軍の専売特許ではなかった。どこの国の軍隊でも「不利になったら降伏していいからね」などと教育などするわけがない。
基本的には「死ぬまで戦え」なのだ。後は程度と、その軍隊の持つ文化の問題だった。いや、軍隊のバックヤードにある国の文化の問題だろう。
後は現地の指揮官が降伏を判断できるかどうかという問題だ。
「アメリカとフィリピンの若者に死ねと言う私が逃げるわけにはいかんのだよ」
マッカーサーは言った。
ワシントンからは再三、コレヒドールから脱出せよとの命令が出ている。
しかし、マッカーサーはそれを頑なに拒否していた。
結局、自分の妻と子ども、フィリピンのケソン大統領を脱出させただけだった。
自分は最後までフィリピンで徹底抗戦する決心をしていた。
彼自身、アメリカの抵抗の象徴となっていることは、悪い気分ではなかった。
このクソのような戦況を別とすればだが。
もし、部下を見捨て、オーストラリアに逃げたとしてどうなる。
輝かしい軍歴に傷がつく。アメリカ合衆国の抵抗の象徴である自分が逃げることは、祖国が逃げることと同じだ。
マッカーサーはその誇り高さゆえに、フィリピンの地に縛り付けられていた。
そして、1942年4月9日――
マッカーサーの意思に反し、バターンの現地部隊は日本軍に対する無条件降伏を飲んだ。
◇◇◇◇◇◇
「2万5千の捕虜を輸送する手配は、ついたのかね」
フィリピン攻略の責任者である本間中将は言った。
その声音は、大きな仕事がひと段落ついた安堵の色があった。
「計画書の通りであります」
野戦輸送指揮官の河根良賢少将は言った。
すでに、計画書は提出されている。
その計画は別に無茶なものでもなかった。日本軍としては、極めて人道に配慮した物だった。
まずは、バターン半島南端のマリべレスかバランガまで30キロを歩いて移動させる。
この間は、捕虜は手持ちの食料で行ってもらう。
この距離なら、重装備の日本軍でも1日で歩ける。軽装備の捕虜であれば、それほどの負担にはならないであろう。
輸送手段は何もいらない。徒歩で十分だ。
そして、バランガからサンフェルナンドの駅までは、トラックを用意した。
200台もだ。この距離は53キロある。捕虜のために日本軍にとって貴重なトラックと燃料を消費するのである。
ピストン輸送すれば、2万5000人でも十分対応可能と見積もられていた。
そこから鉄道で48キロを移動。カパスで降りて、12キロを徒歩。こんなものは遠足みたいな距離だ。
それで、オドンネルの捕虜収容所に着くという計画だった。
バランガとサンフェルナンドには野戦病院も設置。しかも徒歩で移動する間は数キロごとに、休憩所を設けるとういう計画だった。
捕虜には日本人と同じ食事を与えるという配慮も計画段階で折り込まれていた。
全く無理のない、人道に配慮した計画だった。
しかし――
ここに、とんでもない計算違いがあった。
計画の根底をひっくり返すような計算違いだ。
そもそも、捕虜は2万5000人ではなく7万8000人もいたのだ。
しかも、ほとんどの捕虜は、マラリアなど熱帯性の疾病で衰弱していたのだった。
日本軍の捕虜輸送は1日目から破たんした。
バランガまで1日で移動する予定が、3日かかった。
その間、日本への捕虜に対する対応は様々であった。
いらだちを隠さず、ゴルフクラブで捕虜をぶん殴るも者もいれば、捕虜に食事を分け与える者もいた。
戦場は勝者である日本兵にとっても過酷なものだった。
熱帯雨林の日差しとドロドロした大気は、その理性と人間性を奪うのに十分な力を持っていた。
極めて個人的な捕虜に対する対応は、やがて組織的な計画に破たんを露わにした。
食料の配給が間に合わなくなったのだ。
ある者は受け取ることができたが、ある者は全く受け取ることができなかった。
当然だった。当初の計画が2万5000人なのだ。8万人近い捕虜に対応できるものではなかった。
日本軍に言わせれば「なんで、こんな病人だからけになってから、大量に降伏するんだ!」と文句の一つも言いたくなる状況だった。
捕虜の中でも最初に出発した者たちは、十分な食事を与えられ、一度も虐待を受けずに、捕虜収容所に到着したものがいた。
ただ、その状況は長くは続かなかった。
末端の将校、兵の中には「武士道にもとる行為はしない」と信じそのように行動した日本人もいた。
そして、アメリカ人を憎み、殴り倒し、蹴飛ばし、そして虐殺する将校も存在した。
この2つは同時に真実であり、日本人の姿であった。
ただ、このデスマーチは、決して日本軍により計画されたものではなかった。
◇◇◇◇◇◇
「正気か?」
今井大佐は、あきれたような口調で言った。
立った今、大本営高級参謀から口頭で命令を受けた今井大佐は困惑していた。
その命令は、捕虜を皆殺しにしろというものだった。今回の降伏を大本営は認めていない。よって、彼らは捕虜ではない。捕虜ではないので殺すという論法だ。
あまりに、無茶苦茶な命令に、彼は書面での命令書を要求。また、トチ狂ってそんな命令が出た場合に備え、捕虜を全員逃がしてしまった。
そのような士道にもとる行為をするつもりは全く無かったからだ。
この命令はバターンの全軍に通達された。
一部、忠実に実行したケースもあったが、それは一部であった。
当事者になった捕虜からすれば、たまった物ではなかったであろうが。
しかし、現地の陸軍指揮官の多くは、このような狂った命令を疑ってかかっていた。
今井大佐だけではなく、多くの指揮官が実行をためらった。
そうでなければ、凄まじいジェノサイドが、バターンで展開されていたことは間違いない。
大規模なジェノサイドが起きなかったのは、陸軍の中にまだ理性があったという証拠であろう。
「しかし、なんだ…… この命令は」
今井大佐は、憤りの色をにじませ、言葉を吐いた。
その命令を出した主は、今バターンの地に立っていたのである。
◇◇◇◇◇◇
「人種戦争なのである! 今次大戦は、大和民族とアングロサクソンの生存を賭けた、人種戦争なのである!」
丸いメガネをかけた、参謀がバターンの地で絶叫していた。
熱帯の粘るような空気をビリビリと振動させる叫びだ。
坊主頭に、丸メガネ。理知的といっていい顔をした男であった。
周囲の道路には、熱帯の日差しで腐り、パンパンに膨れ上がった、敵兵の死体が転がっている。
その腐った死体のゴロゴロする中を、生き生きとした様子で、歩く者がいた。
辻政信中佐。
大本営の参謀であった。
「どんどん、殺すのですか? 中佐殿?」
三八式歩兵銃にゴボウ剣をさしそれを構えた兵士が辻参謀に訊いた。
ゴボウ剣とは銃剣のことだ。夜戦用に黒く塗っていることから、ゴボウに見立て、ゴボウ剣といわれている。
「おお! そうだ。殺すのだ、いいか、大本営は、捕虜など認めておらんのである! アングロサクソンは皆殺し、アジアの同胞を裏切ったフィリピン人も皆殺しなのである!」
断言する辻参謀だった。
「これは、大陸命なのである!」
辻政信中佐の数ある得意技の一つ、大本営命令のねつ造であった。
「すべては、聖戦完遂! 大東亜共栄圏の設立と、八紘一宇の新世界を作り出すためなのである。これは、アジア解放のための、正義の行為なのである!」
ある種のカリスマを持った辻参謀の言葉に、兵士たちがどよめく。
「殺せ! いいか! 殺すのだ! アングロサクソンは皆殺しなのである!」
帝国陸軍の暗黒面を象徴する存在が、フィリピンの地で獅子吼した。
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