その26:Never say die
「失態だな……」
アメリカのルーズベルト大統領はそう言うと、プルプルと震える手でメガネを取った。
そして、テーブルの上に置く。
その震えが、持病によるものなのか、胸の内に生じた感情に起因する物かは、外から見ただけでは分からなかった。
20世紀のモンスター国家、神の恩寵を受けていると盲目的に信ずる人工国家の首都であった。
ワシントン。この国の初代大統領の名を冠した都市だった。
通常大統領に対する情報連絡会議は、週1回となっていた。それが、今回は異例の開催だった。
出席者は、ルーズベルト大統領、コーデル・ハル国務長官、ジョージ・C・マーシャル陸軍参謀総長。
そして、アーネスト・J・キング海軍艦隊司令長官だった。
3人は、じっとルーズベルト見つめていた。
氷のような沈黙がホワイト・ハウスの一室を支配していた。
「大統領……」
緊張感に耐えかねたように、首のあたりを触りながら、ハル国務長官が言った。
しかし、ルーズベルトは、視線を机に伏したままだった。
永遠と思えるほどの数秒が経過する。
不意にルーズベルトが口を開いた。
「キング長官」
「はい」
「なにか、言うことはあるかね?」
「ないですな」
ゆっくりと顔を上げたルーズベルト。その顔には一切の表情が抜け落ちていた。
ただ、落ちくぼんだ目が、目の前の海軍提督を見ていた。
「ないですな、大統領。報告書に書いてある通りですよ―― それ以上でも以下でもない。作戦は失敗。以上です」
海軍の実戦部隊の総責任者ともいえるキング司令官は言った。
表情、声音、態度、三拍子そろって傲岸不遜だった。大統領を前に、このような態度を取れる人間がいるのかと思わせる。
「どうするつもりだ?」
ガタガタと震える右手をテーブルの上に置き、ルーズベルト大統領は訊いた。
「どうとは?」
キング長官は、体に染み込んだヤニ臭い息を鼻から吹き出し、背もたれに身をあずけた。
性格も私生活も全て破綻しており、周囲は敵に囲まれた性格破綻者。彼の有能さを評価しても、好意を持っている人間はいないであろうと断言できた。
彼は、軍事的才能にパラメータを全振りした結果あっちこっちがブチ壊れている人間だった。
大統領にこのような態度をとれるのも、どこかが壊れた人間特有のものだった。
「私はね―― 海軍がジャップに勝てるのか? と聞いているのだよ。長官――」
「勝つのは簡単ですな」
見る者を100パーセントの確率で不愉快にさせる笑みを浮かべていった。
「お前は、そんな簡単なことも分からないのか?」とその笑みが言っていた。
完全に自分以外の人間は全てアホウであると思っている者特有の笑みだった。
「ほう……?」
「ジャップに勝つだけなら、莫迦でもできるのですよ。大統領」
その言葉が室内の気温をさらに下げた。
ハル国務長官は「もうかんべんしてくれ」と言う感じで首を左右に振る。
マーシャル参謀総長は、眠そうな目でその様子を見ているだけだった。
「イギリス、ソ連への援助を止めて、戦場ではジャップより大量の物量をぶつければいい。それだけで勝てますな――」
キングはイギリスもソ連も大嫌いだった。当然、日本も大嫌いだ。ドイツも嫌い。ありとあらゆる存在は呪詛の対象。それがアーネスト・J・キングだった。
もしかしたら、祖国すら憎んでいるのかもしれない。
とにかくだ――
ドイツなど放っておいて、日本を徹底的に叩くべきというのが、キングの主張だった。
アメリカの本当の危機は太平洋にあるという考えだった。それは、いかにも国民の支持を得そうな考えではあった。
「話になりませんな。海軍のやる気を疑います」
眠そうな顔のまま、鋭い刃のような言葉が出てきた。
マーシャル参謀総長だった。
キング司令長官が「この、腐れ陸助(ドッグ・フェイス)が!」という顔をして睨み付けた。
日本であれば陸軍への罵倒後は「馬糞野郎」であろうか。
「欧州戦線重視の方針は変わらない。主敵はドイツだ」
ルーズベルトは言った。
断固として引かないという言葉だった。
「片手間であやせる相手じゃない…… ジャップは……」
キング長官は言った。ポロッと本音を漏らしたように聞こえた。
不遜な態度であったが、彼が他者を手ごわいというのは非常に珍しいことであった。
彼にとって彼以外の存在は等しくクズかクソなのだから。それが、国家であったとしても。
キングの言葉はルーズベルトにも理解できた。
「我々は日本を甘く見過ぎていた」その思いが胸の内にある。
あの真珠湾攻撃以来、海でも陸でも空でもアメリカ含む連合国は連戦連敗だった。
インド洋でイギリス海軍が少し抵抗したが、結果は尻尾をまいて逃げてしまった。
彼らの艦隊は、マダガスカルにまで撤退してる。
ドゥーリトル空襲の失敗はアメリカにとって単なる作戦の失敗以上のダメージを与えていた。
マスコミの報道規制を強化しなければならない事態となった。
20世紀の科学の発達は、情報の拡散も促進していた。
日本側の報道は、電波にのって国境を突き破ってくる。
エンタープライズ、ホーネットの喪失はマスコミには知られていた。
しかし、総力戦体制の中、国家にとって不利益な情報は国民に知らせないという「健全」な統制が行われていた。
多くは自主規制という形であった。ただ、今回は事態が事態なだけに、マスコミに対する報道介入を行っている。
被害はおろか、作戦があったことすら一切報道されていない。
日本近海まで陸軍のB-25を運び、東京を空襲するという作戦は、今のところ報道されていないのだ。
おそらく、日本に何らかのダメージを与えたときに、合わせて報道することになるのだろう。
ルーズベルトは思考をまとめていく。
やはり、無理な作戦であったか……
しばらくは消極防御しかないか。そのように思う。
ドゥーリトルの空襲は完全に阻止され、部隊は全滅。
13機は東京にたどり着くことなく、全機撃墜されたらしい。神戸、名古屋に向かった機体も同じ運命をたどった。
日本本土への投弾に成功した機体は無かった。(日本側の写真付きの発表を信じるならばだが)
さらに、現在の米海軍にとって宝石よりも貴重な空母2隻が失われた。
パイロットや、空母運用に経験を積んだ乗員も多数失った。
空母の損失よりもこちらの方が痛いかもしれない。
日本近海での作戦ゆえに、十分な救助も出来なかった。
「一度、西海岸まで引いて反撃密度を高めるべきだ」
マーシャル参謀総長が言った。
陸軍は日本軍の西海岸上陸を真面目に検討していた。
過小評価が転じて、過大評価だった。もはや冷静な判断力を失っていたというより、海軍の戦争資源を陸軍に渡せという意味のものだった。
フィリピンではまだ、マッカーサーが粘っていた。すくなくとも陸軍は頑張っているのだ。
大統領の脱出命令を無視したものであったが。
「莫迦な!」
ガタンと椅子を鳴らして立ち上がりかけるキング艦隊司令長官。
「本気なのか? この莫迦」という目でマーシャルを睨み付ける。
「ハワイを捨てることは無い」
ルーズベルトが断言。ハワイからの後退はない。常識で考えてあるわけがなかった。
むしろ、ハワイに来てくれるなら歓迎だ。こちらのホームタウンで奴らに出血を強いることができる。
作戦は失敗した。それを今悔やんでも、もう元には戻らない。
今は、この作戦失敗が生み出す政治的状況こそが大問題だった。
それは、空母2隻を失ったというレベルではない。
2方面作戦を行っている合衆国の戦略の根幹を揺るがしかねない問題を内包していることにルーズベルトは気付いていた。
ルーズベルトにとっては、欧州で覇権を握ったドイツの打倒が最優先だった。
大西洋の安全保障は、アメリカの安全保障に直結する。
ドイツが覇権を握り、アメリカの裏庭ともいえる中米、南米への影響力が強化されるのは悪夢だった。
放置しておけば、アメリカ1国では対抗するのが困難なワールドパワーが生まれる可能性もあった。
ドイツが完全に欧州を支配し、ソ連を打倒してしまった場合、その影響は計り知れない。
一方で、中国で泥沼にはまっている日本は、本来であればそれほどの脅威ではない。
ルーズベルトにとって、日本がいきなり戦争を仕掛けてきたのは想定外だった。
真珠湾攻撃は、確かに分裂していたアメリカの世論を1本化してくれた。
内向きなアメリカ国民の意識を変えてくれたのだ。
しかし、この奇襲は日本人に対する憎悪を生み出し「日本への復讐優先」という世論圧力を生み出している。
世論だけではない、目の前のこの男のような人間も多い。
ルーズベルトは、不遜な態度で椅子に寄りかかっている性格破綻者を見た。キング司令長官だ。
海軍軍人としての技術、能力以外は全てクズ以下という存在だ。
とにかく、日本への攻勢はまだ必要ではない。
それは、対ドイツ戦を主軸とする国家戦略を捻じ曲げようとするものだ。
そもそも、二正面作戦は下策だ。その思いは確実にルーズベルトの中にあった。
日本と戦争することになるだろうという見通しはあった。
だが、ルーズベルト自身は、決して日本との戦争を望んでいたわけではなかった。
政権スタッフの中の好戦派を「幼稚だ」と断じたこともある。
戦などしなくていいなら、しない方がいい。
政権内では財務省の内部が対日強硬派の巣窟となっていた。国務省は経済制裁により、妥協を引き出せと言うスタンスだった。
彼自身は、国務省寄りのスタンスであったが、政権内の意見の調整役という場面が多かった。
日本は合衆国の市場に依存している。資源だけではない。経済そのものが依存しているのだ。
逆にいえばだ。アメリカにとって、日本は上得意ともいえる面があった。中国に対する侵略的な政策がなければの話であるが。
日本の絹は、アメリカ国内で100万人の雇用を生み出していた。絹加工業に従業者の人数だ。
更に、年間5億ドルの投資があったのだ。
アメリカにとっても、日本への経済制裁は、痛みがないわけではない。致命的ではないが、損であることは確かだ。
経済的な締め付けで、日本は屈すると思っていた。
日本などに関わっているより、合衆国にとっては解決しなければいけない問題が山積みだったのだ。
対日問題など、我々が抱える問題の「ワン・オブ・ゼム」にすぎないと思っていた。
確かに、交渉の最終局面。
日本をよく知るスタッフの中には「これは日本と戦争になります」という助言をするものもいた。
在日米国大使のグルーは、これ以上の対日圧力は「切腹的開戦を招く」という主張していたが……
そもそも、絶望感から開戦した国が歴史上どこにある?
あるわけがない。
常識的に考えて、あるわけが無かった。
ただ、あの極東の島国は常識が通用しなかった。
そんな非常識な国があったのだ。
自分の任期中は、存在してくれないで欲しかったが……
そんなこんなで、いきなり真珠湾である。
そして、破竹の進撃だ。
しかしだ――
ルーズベルトは自己決断の無謬性にすがりつく思考を続けた。
日本は、経済的に合衆国に依存している。
資源もない、技術もない、そのような国が、自分たちより10倍以上も強大な国に喧嘩をして勝てる気でいるのか?
自殺行為以外の何ものでもない。
そのような思考がグルグルと頭を駆け巡る。
戦争において日本が作戦的な勝利を重ねても、最終的には破滅に結びつくだけではないか。
いくら、進化的に遅れた日本人であっても、それくらいは理解できそうなものだ。
「絶対に勝てる戦争だ…… それは間違いない」
その「事実」を確認するかのように言葉に出した。
以前まで、公理のような響きをもっていた言葉が、急に薄っぺらい物に感じられた。
未来を100パーセント担保するものなど、存在しないことに気付いていた。
神の恩寵を受けた人工国家の大統領は、その事実の中で茫然としていた。
予想以上に日本の軍事的能力は高い。
真珠湾で被害を受け、各地で連戦連敗を続ける中、それでもこの事実を認めることには抵抗があった。
しかし、認めざるを得ない。
我々は日本を甘く見過ぎていたのだと……
「机上の戦争」というクラウゼビッツの言葉が脳裏によぎる。
現実の戦争に比べ、机上で想像した戦争は非常に単純に思えるということだ。
今、合衆国が戦っている「現実の戦争」は難しい局面に差し掛かっている。
ルーズベルトは「ふぅぅ」と息を吐いた。
(少し、焦っているのか?)
彼は自問した。
ルーズベルトは、車いすの背もたれに体重をかけた。
軋む音が聞こえる。
この作戦失敗を、戦略的失敗につなげないことが重要だと思った。
「私は、大統領としてなすべきことをする。キング司令長官――」
「はい」
「海軍として、成すべきことをしてほしい」
「それは?」
「飛行機がダメなら、戦艦だ―― 艦砲射撃、日本本土への艦砲射撃を行って欲しい」
「は?……」
傲岸不遜のキングが顎をかくーんと落として、ルーズベルトを見つめた。
それが、ジョークでないことが分かった。
まさに、ルーズベルトは不退転の鬼だった。
骨を断たれても肉を切る。
日本にアメリカは絶対に屈しないというメッセージを送るのだ。
そのためには、なにかをする必要があった。
参考文献
日米戦争と戦後日本:五百旗頭 真
日本の戦時経済-計画と市場-:原朗
日本経済を殲滅せよ:エドワード ミラー
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