第2話 猫と烏の一日目 PM
廃れたビルに壊れた道路。倒れた信号機の上に座って、彼女は電柱を弄んでいる。少しうなだれて見える彼女の小さな背中には骨格だけになった翼が痛々しく残る。
「ねえ」と僕は彼女に言った。その寂しそうな背中を撫でてあげたい。
長い黒髪を揺らして、ようやく彼女は振り向いた。黒目勝ちの切れ長の瞳が、何も言わずにこちらを見る。口元は油で汚れ、綺麗な頬は煤だらけだ。
「かァ」
彼女は一声そう泣いた。そうして薄い唇から色とりどりのケーブルを吐き出す。
「まっずい」
「そりゃあ、ケーブルなんて食べるから」
僕は彼女に近寄って、地面に散らばったケーブルを拾い上げる。ビビッドカラーのビニールが巻かれ、中からは銅線が覗いている。
「ずっとこんなものを食べてたの?」
「だって他に食べられるものが無かったんだもん」
その子は悪びれた風もなく言ってから、歯に挟まったらしい銅線を引っ張り出す。
「他には? 変なもの食べてない?」
彼女の隣に腰を下ろす。隣で見る彼女はとても綺麗な顔をしている。
「お腹空いたから色々食べたよ」
彼女は少し屈んで信号機の電球を弄っている。
「貴方の名前は?」
「僕? そういえば……」
そこで僕は漸く自分が誰か思い出せないことに気付いた。街のこととかはなんとなく主思い出せるけれど、自分のことが分からない。家のこととか、名前すら。昨日まで自分がどう過ごしていたか分からないなんて。
「貴方の名前はノエルだよ」
「ノエル?」
彼女はまたケーブルをもぐもぐと口に含みながら呟いた。
「みんなが貴方のことをそう呼んでたの、見てたもん」
「みんなって?」
「みんなはみんな。周りの人だよ。お父さんとかお母さんっていうの?」
彼女はまたケーブルを吐き出す。彼女は僕のことを知っている、ってことかな。僕は彼女と初対面だと思うけど……。
「へえ」
曖昧に相槌を打って、話を逸らす。
「……君の名前は?」
彼女が俯くせいで、長い髪が横顔を隠すから、表情が分からない。
「名前なんてないよ。呼んでくれる人なんていないもん」
まずいことを訊いちゃったかもしれない。そういえばさっき会った変な女の子も名前は必要ないとか言ってたっけ。僕は少し考え込む。そうして彼女の顔を隠す綺麗な黒髪を盗み見る。
「夜、ってどうかな」
「夜?」
彼女が顔をあげる。きらきらと輝く黒髪は星が瞬く夜空に似ている。
「似てると思うんだよね、君の髪の色に」
「安直」
でも彼女は自分の長い髪を触りながら笑った。凄く、可愛い。
「だよね、自分でもそう思う」
言いながら、僕は顔を逸らした。ずっと片手に持っていたココアを弄る。すっかり冷たくなっている。
「でもいいよ、悪くないかな」
そう彼女――夜は僕に微笑んだ。やっぱり、可愛い。
「夜は、神様って知ってる?」
誤魔化すように話を変える。夜の表情が険しくなる。
「神様?」
鋭い声に少しだけ体が強張る。
「さっき駅の中で会った女の子が言ってたんだ」
さっきの女の子の言葉を思い出して、ひとつひとつ話す。夜の顔が真剣過ぎて、軽く話し始めたことを少しだけ後悔しているのは内緒だ。
「……世界は神様によって壊されたけど、僕らは神様に選ばれたから残ってるって」
「なにそれ。神様っていう人のせいでこうなってるってこと?」
「……僕が聞いた話だと。それで、残ってるのは六人だって」
「その人はあと六人いるって言ったの?」
夜はかなり食い気味に聞いてくる。まあ確かにこんな状況簡単に受け入れられないし、気になるのは確かだよな。
「えっと、神様が選んだのは僕を含めてあと六人、この近辺にいるはずって」
「じゃあ私とノエルを除けばあと四人だね」
「そうだね。それにしても神様に救う価値があると認められた、ってどういうことなんだろう」
「救う価値があると認められた? そんなこと言われたの?」
「うん。……なんか心当たりがある?」
夜はそのまま黙った。少し間があってから、ぽそりと聞こえる。
「難しいことは分からないけど……残りの四人を探す?」
「そうすれば何かわかるかもしれない。どうして僕たちが選ばれたのかとか」
「確かにね」
「そうだ」
僕は立ち上がった。やっぱりじっとしているのは性に合わないんだよね。
「あ、どこいくの?」
夜も立った。黒いジャケットに黒いパンツスタイル。全身真っ黒だ。
「わかんないけど……この辺りをうろうろしてたら誰かに会えるんじゃないかな」
「じゃあこっち」
夜はブーツを履き直して、砂漠みたいになった東京を歩いていく。向かっていくのは僕がさっきまでいた東京駅だ。
「え」
「駅の中には入れたんでしょ? だったらそのまま線路を歩いていけばいいと思うの」
「ああ、なるほど」
夜の後について、駅へ戻る道を歩く。夜の背中に骨になった翼が見えた、と思ったけれど、それはそういうふうに見えただけでフリルの飾りらしい。それもそうだ、人間に翼が生えているなんて、鳥じゃないんだから。なんて考えて、僕ははたと思い出す。忘れたらいけない、大切な誰かがいたことを。それが誰だか、思い出せないんだけど。
「くしゅ、」
前を歩く夜が控えめなくしゃみをしたところで、僕は顔をあげた。確かに夜の服は寒そうだ。着ているファー付きのコートを脱いで、夜の背中に掛ける。
「寒いの? ココアならあるけど」
そうして缶を差し出してみる。夜はものすごく顔を顰めた。それでも可愛さは崩れないんだから、美人ってすごいと思う。
「蓋開いてる。それに冷えてる」
それでも夜はココアを受け取ってくれた。
「さっきもらったんだ」
「東京駅の女の子?」
「うん」
夜は息を吐いた。白い息が、少し暮れ始めた空にのぼる。
「って、貴方ココア飲んだの?」
「飲んだけど」
「大丈夫なの? 体調とか」
「うん、大丈夫だけど」
「そう……ならいいけど」
そういえばあの女の子も今なら飲める、とかなんとか言っていたような。
「やっぱりココア飲まないほうが良かった?」
「いいんじゃない? 別に」
夜はそのままココアを飲み干して、それから少し笑った気がした。
東京駅の地下まで降りて、そのまま線路沿いを歩く。真っ暗な道なき道をどこまでも歩く。やっぱりどこもかしこも瓦礫だらけだ。コートがないだけで、随分と冷える。お腹もすいてきたし、足も疲れた。初めはなんとなく話をしていたけど、次第に口数も無くなって、お互いの足音と息遣いと時折出るため息を聞くだけになった。
「あ」
夜が立ち止まって、指を指す。僕も釣られるように先を見た。
「そろそろ見えてきた」
漸く明るい場所が見えた。そこだけ明かりがついているようだ。別の駅についたみたいだ。階段があるからそこから地上に上がる。剥げた塗装の看板はかろうじて『西幡』と読める。聞いたことのない場所だ。地上は相変わらず寒い。西幡駅の出口から覗く空は暗く、星が見える。
「すっかり夜だね。……ほら、君の髪に似てる」
隣で空を見上げた夜が、空と自分の髪を見比べている。
西幡駅の椅子に座って、僕らはコートを毛布代わりにかける。
「夜は、僕のこと知ってるの?」
夜はファーに顔を埋める。寒いのかな。
「……さあ」
少しだけ、夜の口がもぐもぐと動く。このままだとファーを食べられそうだ。そういえば、こんなコート持ってたかな。
「私としては何であなたが私のことを忘れてるのかが分からないけど」
夜が欠伸をもらした。
「どういうこと?」
「もう寝ましょ。色々あって疲れちゃった」
そのまま夜は目をとじるから、僕も何も言えなくなる。
「おやすみ、夜」
「おやすみなさい、ノエル」
そうして目を閉じた。瞼の裏には黒い翼の生えた夜の姿が浮かぶ。それが何だか懐かしい気がするんだけれど、そう言ったら君は笑うかな。
猫と烏の七日間 @tukiyamakesyou
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