第七部 第十章 第三話 風の泣き声


 トシューラの大地を駆ける豹型の魔物は確かに異常な速度だった。


 その巨躯にも拘わらず恐らく並の者の眼では正確な姿が捉えられないであろう俊敏さは、広大なペトランズ大陸の国々を一日足らずで踏破できる速度だった。

 通り名の如き【風】──自在にして自由……それは大地の軛さえも断ち切れそうな程だった。


 だが……魔物は知ることとなる。並ぶもの無き『風の世界』に己の足音以外の何かが背後から付いてきているという異常事態を……。



 肉食獣は狩りを行う際に獲物に気づかれぬよう音を出さぬ肉体構造を生まれ持っている。靭やかなバネの様な脚が加速、衝撃吸収、急制動を可能としているのだ。

 事実、大型魔物は衝撃波こそ発生しているが足音は微かなものである。大地を蹴るその力さえ絶妙で地を爆ぜる様な踏み込みは見せていない。もっとも、それはそれで接近に気付き難い為に余計に警戒されることとなっているのだが……。


 ともかく、魔獣と誤認された魔物・【風斑】はその静かな足音故か背後から迫る“自分以外の音”に気付き警戒を始めた。進行方向を変え速度を上げ、更に立体的な移動も行い確実に引き離しに掛かったのである。


 しかし……。


 【風斑】の横にはいつの間にか人間が並走していた。


『よっ! お前、速っやいなぁ!』


 【風斑】は……“ビクゥッ!”となった。


 そもそも音の壁で外の声が聞こえる筈も無いのだ。念話は直接頭に響いた。だから余計に驚いたのだろう。


『なぁ。ちょっと話しないか? 俺の名はライっていうんだけど……言葉分かる?』


 ニコニコと手を振り並走を続けるライは地形に関係なくピッタリと付いてくる。生命の危機を感じた【風斑】は……更に速度を上げて逃げた。


「ありゃあ……ビビらせちったかな?」

『…………』


 蟲皇は少しばかり魔物に同情した。


 唐突に現れた男により自分の優位性を奪われる……それは生物としては当然の恐怖となる。ましてや大型の魔物となれば脅威となる相手も少なかっただろう。

 ただ、ライの捉え方は少し違っていた。


「成る程成る程……。アイツ、悪い奴じゃないッスね」

『……何故そう判断した?』

「反射的に攻撃に出なかったからですね。俺、殆どの威圧切ってますから普通は本能で攻撃してくる筈なんですよ。でも、逃げに徹した。つまり、他の奴を攻撃しないのがアイツの日常なんでしょう」

『……。根拠としては弱いな。お主の異常さに躊躇したことも否定できまい?』

「でも、普通逃げるにしても撹乱させるでしょう? 体当たりのフリとか方向転換の際に土かけるとか。それが無い魔物って俺は経験ないッスよ」


 余程の絶望に追い込まない限り生物は生きる為に足掻く。肉食獣ならば尚の事己の攻撃性を使用する筈……それが無かった【風斑】は“逃げに徹する知能を持ち合わせている”と言い換えても良いとライは判断したらしい。


『……まあ良い。それで、これからどうするつもりだ?』

「勿論、対話継続ですよ。でも、あのままじゃ被害が拡がりそうなんで早期決着をば……」


 【風斑】の進行方向に転移し分身四体を展開したライはそのまま本体のみ元の位置に転移して戻った。そして再び後方からの追跡を始めた。

 今度は微妙な圧力を掛けつつ移動方向を誘導。ライの僅かな移動で直ぐ様方向を変えるので調整は難航したが何とか意図した地点まで誘導に成功した。


 そこで再び一気に加速し【風斑】と並走。再び対話を試みる。


『お〜い。危害は加えないから話しようぜ?』


 再度“ビクッ!”となった【風斑】は更に超高速に……だが、その先の森には気配を隠していた分身体が待ち構えていた。


 分身が展開したのは風属性魔法 《空綿包そらわたつつみ》。所謂空気のクッションである。ライに気を取られていたことに加え加速の瞬間というタイミングが仇となり、【風斑】は敢え無く捕縛された。

 【風斑】はそこから何とか逃れようと藻掻いているが、空気が纏わり付く様に絡むのでじゃれている様にさえ見える。


「あ〜……暴れないでくれ。ちょっと話がしたいんだ。絶対に危害は加えないからさ?」


 ライの言葉が届いたのか、それとも観念したのか【風斑】は大人しくなった。その様子を確認したライは魔法を解除しつつ近付き地に腰を下ろした。


「言葉わかるか?」

『……。少しだけ』

「そっか。良かった」


 改めて見る【風斑】の姿は知られているものと少し違っていた。本来の【風斑】は金色の体毛に包まていて黒の斑模様、尾が二つだと確認されている。しかし、目の前の個体は首回りの毛が少し長く襟巻きを巻いた様にフサフサとしていた。

 そしてもう一つ。瞳の色は通常の黄色ではなく透き通る緑だった。


 念話が子供の声だったことに驚きはしたもののライは顔には出さず話を続ける。


「俺はお前と話をしに来たんだ」

『話……?』

「先ず自己紹介だ。俺はライ。お前、名前はあるか?」

『……ウィステルト』

「確か古い言葉で『竜巻』だったかな……。うん、格好良い名前だな」


 名前を褒められた【風斑】……ウィステルトは緑色の瞳でライの目をじっと覗き込む。やがて警戒を解いたのか身体を伏せ地に頭を付けた。


「ウィステルトは人間を襲ったことはある?」

『ないよ。人間、襲うと危ないってモーリスに言われてたから』

「モーリス?」

『うん。モーリスは人間だけどお父さん。森で一人ぼっちだったウィステルトを見付けて育ててくれた』

「へぇ〜……お父さんか」


 つまり、ウィステルトは人が育てた魔物。だからこそ人間への直接の被害は少なかったのだとライは理解した。


「モーリスさん……お父さんに会って話せる?」

『……。モーリス、もう居ない。動かなくなった。死んだんだってルチアが言った』

「そっか……ゴメンな、辛いことを聞いた」

『大丈夫……』

「じゃあ、そのルチアって人は?」

『……。ルチア、ウィステルトのお姉ちゃん。ルチアも居なくなった』

「その人も……死んじゃったのか?」


 優しく探るようなライの問いにウィステルトは首を振った。


『ルチア、まだ生きてると思う。でも、匂い追ったけど何処に行ったか分からない』

「何かに焦ってると思ってたらそれが理由か……。お前、お姉ちゃんを捜してたんだな」

『…………うん』


 少し口籠ったウィステルトの鼻先を撫でたライは、許可を貰いこれまでの記憶を読み辿ることにした。



 狩人のモーリスとその娘ルチアに拾われた幼い【風斑】ウィステルトは、現在居る地点より東北東の山中に暮らしていた。

 モーリスは幼いウィステルトに狩りを教え育てた。それは野生に戻った時に一人でも生きていけるようにという親心……だから同時に我が子と同様の愛情を注いだ。ウィステルトは知能が高く、モーリスとルチアを家族として認識し、学んだ狩りでその生活を支えた。


 しかし、ウィステルトは成長するに従い身体が大きくなり始めた。そこでモーリスは滅多に人の寄り付かない廃坑にウィステルトの住まいを用意した。


 それからも共に狩りを行う日々が続く。獲物は余分な肉と革を人里に卸しモーリス達にはそれなりに蓄えが生まれた。ウィステルトは巨体ではあるが食事の量は人とそれ程変わらない。恐らくは体内魔力臓器の影響……巨体化が起きたのも魔力量の多さからのことだろう。


 やがて月日過ぎ、モーリスは病になり狩りを続けることが難しくなった。だからウィステルトはモーリスの分も狩りを行った。そうしてモーリス一家は暮らしを維持できていた。


 だが……トシューラ国内に脅威が訪れる。危険な魔獣が現れ弱き民は逃げ惑うしかなかった。


 自分のみならば何とでもなるがモーリス達はそうは行かない。だからウィステルトはモーリスとルチアを背に乗せてカイムンダル大山脈へと避難した。

 そこでウィステルトは同じ様に避難した人々から恐怖された。巨大な肉食獣は魔獣と変わらない。ウィステルトはモーリス達に迷惑が掛からぬよう姿を消すことにした。


 それから魔獣騒動が収束し、モーリスとルチアは山中の家に戻ってきた。ウィステルトは山中で二人の帰りをずっと待っていた……。


 そして再び月日が過ぎた。ある日、ルチアがウィステルトを呼ぶので姿を見せると『モーリスが死んだ』と告げられた。ウィステルトは悲しくなり森を駆け巡った。



 程無くして、今度は突然ルチアの姿が消えた。ウィステルトは必死にルチアを捜した。家族を失い独りぼっちになることを恐れたのだ。

 捜索は山中から近隣の街、そして隣の領地へと拡がり、そしてトシューラ全土へ。それでもルチアは見付けることができなかった。


 ウィステルトは寂しさから混乱した。だから、ただひたすらに大地を駆けルチアを捜し続けるしかなかったのだ……。


『…………』

「…………。辛かったな、ウィステルト」

『……。ねぇ、ライ』

「何だ……?」

『ルチア、ウィステルトが嫌いになったのかな……』


 獣は泣かないのだと誰かが言った。もし眼から涙が溢れてもそれは生体の反応でしかないのだと。

 しかし、ライは前世からの本能で知っている。魔物でも動物でも悲しみから涙が流れることを。知っているからそこ魔物と戦うことにさえ躊躇が生まれ、旅立ちの覚悟を決めるまでに時を要したのである。


 そして今のライはその心を汲むことさえできる力を得た。ウィステルトが家族を想い涙していることを見捨てることは到底できなかった。


「……ルチアが生きているかは調べれば分かるよ」

『本当……?』

「ああ。でも、ルチアが何で消えたかは本人に聞くしかない。でも、もしかするとルチアはそうして欲しくないかもしれない。それでも会いたいか?」

『……。ルチアがウィステルトと一緒じゃなくてもルチアが幸せなら我慢する。ルチアが生きてるならそれだけで良い』

「分かった」


 《千里眼》を発動したライはルチアを直ぐに見付けた。同時に現在の暮らしぶりも……。


「……ルチアは生きてるよ」

『……! 良かった……』

「ウィステルト。ルチアは人里に居る。今から会いに行こう。もしかすると、これが最後の別れになるかもしれないから……」

『でも、人間はウィステルトを怖がるよ。ルチアを困らせたくないよ……』

「大丈夫。俺が力を貸す。先ずは……」


 ルチアが暮らしているのはドレンプレル領。ならば見知った地……一先ず人気の無い森の中へと転移した。


 それからライは分身を生み出すと子供の姿に変化させウィステルトの精神を移す。これで街の中を歩いても目立たぬ筈だ。

 【風斑】の体を森の中に待機させ結界で保護したライは、子供姿のウィステルトを抱え飛翔にて街を目指す。そこは奇しくもかつてリーブラ国のあった建設中の街だった。


 ルチアはすぐに見付かった。街の一画にある小さな薬屋。その店先にて花に水を与えていたのだ。


「ルチア」


 突然の呼び掛けに振り返るルチア。見知らぬ顔なので首を傾げている。


「あら。あなた、だぁれ?」

「…………。ウィステルトだよ、ルチア」


 その名を聞いたルチアは如雨露じょうろを落す程に動揺を見せる。


「ウィステルト……? 嘘……そんな……」

「本当だよ。この姿は貸して貰ったんだ。だから今日だけ……。ルチアにお別れをしにきたよ」

「ウィステルト……うぅ……」


 ルチアは膝を地に付け泣き始めた。


「ああ! ウィステルト! ゴメンね、突然居なくなって……! でも、私どうしたら良いか分からなかったの! お父さんが居なくなって、私ももう大人なのに狩人じゃないから、ずっとあなたに頼る生き方になっちゃうのが怖くて……」

「ウィステルトが嫌いになったんじゃないの?」

「違うわ。ウィステルトは強いから一人で生きていける……。でも私、あなたの枷になりたくなかったの……」

「ルチア……」

「いいえ、きっと逃げたのね……。以前逃げたカイムンダル大山脈で知り合った人が居て、その人が良ければ薬屋を手伝って欲しいって言われていて……。私、薬草だけは知識があったから、匂い消しの方法を使って……ごめんね、ウィステルト……ごめんなさい……」


 泣き崩れ懺悔するルチアに衆目が集まっていたが、直ぐにライの認識阻害魔法で散り散りになった。


「……。ルチアが生きてた。ウィステルトは嫌われてなかった。だから幸せだよ」

「ウィステルト……」

「最後にどうしても会いたかった。ちゃんとお別れが言いたかった。今までありがとう」

「ウィステルト!」


 ルチアに抱きしめられかつてと同じ家族の温もりを感じたウィステルトは、本当に幸せそうに微笑んだ。

 そしてウィステルトの身体は光り霧散を始める。消えかけた手はルチアの背に背負われていた新しい命に優しく触れた。


「ルチア、お母さんになったんだね。新しい家族を大切にね」

「ウィステルト……」

「バイバイ、お姉ちゃん……」


 完全な光の粒子となったウィステルトはその姿を消した……。



 物陰から結末を見守ったライが森に戻った時、ウィステルトはやはり泣いていた。家族との永遠の別れを決意したのだ。悲しみはライにも伝わってきている。


『……ねぇ、ライ』

「何だ……?」

『僕が人間だったらルチアと別れなくて良かったのかな……』


 ライはその問いに首を振った。


「多分、人間の姉弟の方がもっと短い時間しか一緒に居られない。ウィステルトは長く居られた方だと思う。愛されていたんだよ、きっと」


 ライに首元を撫でられたウィステルトは悲しげに咆哮いた。その声は風に乗ってドレンプレルの空へ吸い込まれるように消えた……。


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