第七部 第五章 第三十九話 ヒイロ・アルバンカーク
白い花はライの呼び掛けに僅かに揺れる。やがて花は透明に薄れゆき、膝を抱えた金髪の少年の姿と入れ代わった。
少年は伏せていた顔を僅かに上げ口を開こうとするも言葉を飲み込んだ。
「………」
その様子を見たライは無言で少年──ヒイロの隣に座る。改めてヒイロを見れば線が細く、レフ族特有の美形故に少女と見間違う程だった。
精神内での時間は実時間よりも流れが遅い。ライはヒイロが口を開くまでただ待ち続け寄り添った。やがてライが何も言わずにいたことで落ち着いたのか、ヒイロは小さな声でゆっくりと語り始める。
「君はライ……だったよね」
「ああ。内側から見てたろ?ヒイロ……プレヴァインは契約を解いたよ。これで帰れる様になったんだ」
「……。僕は……帰れないよ」
「怖いのは罰せられることじゃなくて、取り返しの付かない罪……だろ?」
「うん……。死んだ人は帰って来ない……なのに僕が幸せになっちゃいけないんだ」
再び顔を伏せ嗚咽するヒイロ。ライはその背を優しく撫でる。
「……。ヒイロ……俺はさ?ヒイロだからこそ幸せにならなきゃいけないと思ってるよ」
「何で……そんなこと言うの?」
「レフ族を知ったからだよ。レフ族と交流する度に思うんだ。あの人達は自分より他人の幸せを願う。特に一族に対してはどんな重い罪でも赦せるし困難も一緒に乗り越えようとする。勿論ヒイロも救いたい筈だ。だから、ヒイロが幸せになることはレフ族の幸せでもあるんじゃないのかな?」
「…………」
「エイルはそんなレフ族の心が嬉しいと同時に苦しいみたいだけどね」
魔王となりカジームの大地を枯渇させたエイルは、レフ族からの叱責を一切受けていない。結果はどうあれ、元はレフ族の為だったことを皆が知っているのだ。レフ族の同族愛はそれ程に深いのである。
だからエイルは一族の為になる事を陰で行っている。カジームとシウトという国の橋渡しは実質ティムが執り仕切っているが、その為に必要な労力がある場合は率先して役割を買っていた。
「エイルは言ってたよ……。レフ族の気質は理解できる。だからこそ赦されない罪を自分なりに償いたいんだって」
「………。エイルは強いね……」
「そうだな。でも、エイルの心は年相応の女の子だよ。戦いだって好きじゃ無いし、穏やかに過ごしたいことも分かってる。過去の後悔も心の傷もまだ本当の意味では癒えていないんだよ……。エイルは……ヒイロと同じくらい純粋なんだ」
エイルは失われた命が戻らぬことも理解している。だからこそ……居なくなった者達の分も皆を幸せにしたいのだろう。
「その中にはヒイロも含まれてる。エイルも、レフ族も、ヒイロの両親もヒイロには幸せになって欲しいと願ってる筈だ」
「それでも……僕は……」
忘れられない罪が、拭えない血があるのだとヒイロは
なまじ霊位格が高い為、記憶の力が上昇していることも災いしているのだろう。そして今の力があれば救えたかもしれない過去への憤り……悪い方へと思考が動き始めるともう止まらないことはライにも憶えがあった。
「………。“あの時、力があれば救えたかもしれない”とか“もっと早くその力があれば”とかはね……俺も良く考える」
「ライは……辛くはないの?」
「辛いよ。本当はね……俺は戦いが嫌いなんだ。でも、誰かがやらないともっと酷い犠牲が出るかもしれない。それこそ後から後悔しても悔やみきれない。だから俺は……」
「僕には……その勇気さえ無いんだ。今までだって決めるのはプレヴァインに任せきりだったんだよ。わかってたんだ……本当は……」
プレヴァインとの契約を言い訳にしてずっと責任から逃げていた。魔物達にレフ族を守る役割を丸投げにして自分はただ怯えていた。プレヴァインは全てを理解しながら何も言わなかった。
それを甘やかしているなどど誰が言えようか……。ヒイロの傷は深く後悔は体に絡み付く程に重いのである。
「帰りたい……。僕が壊す前の幸せな里に……お父さんとお母さんのところに帰りたいよぉ……」
再び顔を伏せ嗚咽を漏らすヒイロ。その足首はまるで植物の様に闇に根付いてしまっている。
人の心の痛みは同じではない。殴られた痛みの感じ方が違う様に、同じ様な精神的苦痛でも堪えられる者とそうでない者が居る。
只でさえ、三百年苦悩し続けた心の負荷は常人では堪えられぬだろう。生まれ持った繊細さが加われば、それは到底癒せないのかもしれない……。
だから……ライはヒイロに対して選択肢を提示することにした。
本当なら提案するつもりもなかったそれは、本来の意味での幸運からは程遠い。謂わば逃げに過ぎない。
それでも……ライはヒイロに選ばせてやりたかった。このままでは精神が苦痛の中で摩耗し永遠の眠りに就いてしまうから……。
「ヒイロ……魔物達はヒイロを待っている。その魔物達と別れることになっても帰りたいか?」
「……。それは……」
「これまでの三百年は無かったことにはならないけど、三百年の苦痛を忘れさせてやることは出来る。でも、そうなったら魔物達のこともプレヴァインのことも忘れる。過去の大切な人達との思い出も全部……それでも、お父さんとお母さんの元に帰りたいか?」
「そんなの……無責任じゃないか!」
「でも、ヒイロは今のままじゃ帰れないじゃないか……。このまま眠りに落ちるのだけは駄目だよ。それこそ無責任だ」
諭すようなライの言葉にヒイロは反論できない。自分は逃げているだけ……それは理解している。
「ゴメンな、ヒイロ……。でもな?選ぶのは今だと思う。皆がヒイロを救おうとしている今、応えることこそが分かれ道だと思ったんだ」
「……分かれ道?」
「そう……。ヒイロがここから奮い立てないなら、新しい自分から始めるんだ。これが俺の用意できる精一杯……」
ライは改めてこれからやろうとしていることをヒイロに伝える。決めるのはヒイロ自身……しかし、ライはヒイロが応えてくれると信じた。
「……。ライ……僕は───」
実時間にして湯が沸く程の時間でライは意識を戻した。当然ながら隣にいたエイルは真っ先に気付く。
「ライ……ヒイロは……?」
不安そうなエイルの問いにライは申し訳無さそうに答えた。
「ゴメン、エイル……。ヒイロは今のままじゃ目を覚まさない」
「そんな……」
「ヒイロの心は疲れ果てていた。だから、その負荷を取り除かなくちゃならない。本当ならこのまま眠らせていても良いんだ。でも……ヒイロの場合は多分、心が死んでしまう」
心の摩耗は魂の疲労にも繋がる。眠りに就き魂を癒やすことも可能なれど、ヒイロの場合はその眠りの中でも自らを責め続けるだろう。それは心を癒やすどころか疲弊が加速してしまうことに繋がる。
「では、プレヴァインとの契約は解かない方が良かったのでしょうか?」
『いや……魔導師よ。私は繋ぎ止めていただけに過ぎぬ。根本的な解決からは程遠かったのだ』
「しかし、契約を残していればヒイロは……」
『引き延ばしたところでヒイロを癒やす方法があると言えるのか?』
「それは……」
『結局、私にはそれが分からなかった。貴様達に期待していたのはそのことだ』
「それじゃヒイロはもう……」
皆が沈痛な表情を浮かべる中、プレヴァインだけは力強い視線をライに向けている。
『それで貴様は何をするつもりだ、勇者?』
「……。全ての記憶を消してヒイロ自身が人生をやり直せる様にする」
『記憶を消すことは理解できる。それは私も考えたことだ』
「でも、やらなかった……。それって契約が絡むからだろ?」
『そうだ』
ヒイロの記憶をプレヴァインの意思で消してしまうと、根本である復讐心さえ失われ契約そのものが意味を失ってしまうのだ。それでは本末転倒になる。
それにヒイロ自身にも過去に苦しんでも記憶を失いたくないという思いもあることを憑依しているプレヴァインは理解していた。
『確かに貴様なら記憶を消すことに問題は無いのだろう。だが、貴様達はそれで良いのか?』
それが本当の意味での救いになるのかはライにも分からない。だからライは即座に記憶の消去を行わなかった。
「……。ヒイロは承諾したけどね……俺はともかく、最後はレフ族に決めて貰いたい」
それならばきっとヒイロも納得するだろうとライは思う。一族の為に心を砕くレフ族の優しさは、記憶を失ってもヒイロに何かを残すと信じたのである。
「私はライに賛同します。私自身何度もそうしたかったこともありますからね」
「ベルフラガ……」
「エイル。貴女は自分に正直な答えを出しなさい。私達に合せる必要はありませんからね?」
「………」
答えに迷うエイル。その間に答えたのはアービンだ。
「私もライに賛同するよ。ただ、魔物達の処遇はどうするつもりなんだ?」
「ヒイロの記憶を消す前に魔物達にも事情を話します。ヒイロの為だと分かれば多分反対はしない筈だから……。後のことは魔物達自身が決めると思います」
「それだけの知性は確かにあった。……しかし、恐らくは……」
「ええ。ヒイロの元から離れたがらないかもしれない。その時は一緒に居られる様にしてやろうかと」
「そうか……。ならば、やはり私もライに賛同しよう」
男達はヒイロの未来に目を向け答えを出した。だが、エイルは迷う。慈母の心がまだヒイロを今のまま救いたいのだ。
同じような過ちを犯した過去を持つエイルは記憶を消さずとも救われた。だから、その可能性がヒイロにも無いのかをどうしても考えてしまう。
やがてエイルは……迷いながらも答えを出した。
「……。決めたよ、ライ」
「ゴメンな……迷わせちゃったな」
エイルは首を振る。レフ族に選択させたのはライの優しさだと理解している。
「ヒイロを……罪の重さから解放してやってくれ」
「分かった。フェルミナ……力を貸してくれるか?」
「わかりました」
「その前に魔物達にも話をしよう」
それぞれが封印した魔物を解放し事情を説明。魔物達は眠ったままのヒイロの元へと導かれ最後の対面を行う。
通俗では魔物は涙を流さないと言われている。しかし、守護獣達は全員が悲しみの涙を流していた。
『主……』
「今からヒイロの記憶を消す。いや……正確には封印する」
『封印……?』
「そうだ。記憶は消してしまうともう戻らない。でも、永遠に解けない封印でも消滅で無ければ魂には刻まれたままだ。それがお前達にしてやれるせめてもの配慮」
『魂が……忘れない……』
「そうだよ。これからヒイロは新しく生まれ変わる。でも、きっとお前達のことを恐れることは無いよ。だから……またいつか、ヒイロと仲良くしてやってくれないか?」
『……ありがとう』
レフ族、魔物達、そして神の元眷族──その誰もがヒイロに慈愛を向けている。“ヒイロは幸せ者だよ”とライは小さく呟いた。
そして……ヒイロへの概念力行使が始まった。ただ、それは皆が考えていたものとは大きく違っていた。
「フェルミナ……やれるか?」
「はい。大丈夫です」
力の行使はフェルミナが行う。契約印にてライから力の供給と補助を受けたフェルミナは、ライの意図していることも全て理解していた。
フェルミナが添えた手から光が広がりヒイロの身体を包んだ。光はやがてその形を変え小さく縮んでいった。
小さな塊となった光は剥がれる様に宙に散る。そして残されたのは……小さな赤子だった。
「これが……ヒイロなのか?」
エイルは赤子をそっと抱き上げると優しく頬を寄せた。その目からは大粒の涙が溢れ出していた。
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