第三部 第一章 第六話 クリスティーナの鍵


 クリスティーナは荒野をひた走る──。



 アステ国境付近は身を隠す場所すらない。せめて隠れられる森があれば良いのだが、遠近感が狂うほど遠くにそれらしき何かが見えるだけ……。クリスティーナは、まるで巨大な抽象絵画の前に立っているような錯覚に襲われた……。


 かなりの距離を走った為に僅ながらの高低差が生まれ始めた感じはするが、それはクリスティーナの助けになる訳でもないことを当人こそが知っている。


 式典用の衣装は動きづらいのでドレスの膝元を引き裂き軽量化した。靴もヒールが邪魔で走るには向かず、既に裸足になっている。更地と言えど当然ながら地の中には岩もあり、足は瞬く間に傷だらけになった……。



 しかし、クリスティーナは挫けない。心の痛みに比べれば……生きる意味に比べれば、足の痛みなど然程の苦痛でもなかったのだ。



(クリスティ、大丈夫?)


 走り詰めのクリスティーナを心配するメルレイン。聖獣である彼女は、その力を使い果たしクリスティーナの中で待機している状態だ。少しでも早く回復するには余計な行動を起こすべきではない、そう考えていた。


「だ、ハァ……大丈夫……です。ハァハァ……」

(喋ると呼吸の負担になるから思考で大丈夫だよ?)


 それならば確かに負担は少ない。寧ろ疲労に意識を向けることが減る分、多少なりの助けになる。


(わかりました……。これで良いのですか?)

(うん、大丈夫。それより体力はまだ持ちそう?)

(このくらいなら……まだまだ……わたくし、おてんば姫なんて言われてましたし)


 幼き頃……ニルトハイム公国で兄と日暮まで国中を駆け回り母に窘められた記憶が甦る。戻らぬ日々を思い出し再び涙が浮かんだが、必死に心から悲しみを追い払う。


(………ねぇ、メルレイン。ニルトハイムを襲ったのは魔王だと言いましたよね?何故わかったのですか……?)

(……光が広がり始めるあの時、大きな力を使った存在を感じた……それに)


 答えを言い淀むメルレイン。正しい判断であることは間違いないが、クリスティーナを思えば後ろめたさは拭えない。


(それに……大公と別れたあの時、既にニルトハイムには高い魔力が存在していた。それも三つ。……ごめんなさい、クリスティ。あの時、私は知っていた)

(……………)

(どう思われても構わない。でもイズワード領までは必ず送る。その後で私が気に入らないなら好きにして良いよ……)


 大公を見殺しにしたも同然だとメルレインは自覚している。正しいかどうかなどは別……。クリスティーナがどう感じるかが重要なのだ。結果、仇と言われるなら甘んじて受けるつもりだった。


 聖獣というのは不思議な存在で、人に寄り添うことは極力避けるのが習性の一つだ。しかし関わりを持った人間、特に心を許した相手の為なら自己犠牲すら厭わない。

 クリスティーナが現在無事なのも、メルレインがクリスティーナに憑依してその身を魔力の繭で包んだからだ。あの時単体なら逃げることが可能だったメルレインにとって、それは完全な自己犠牲の行為である。


 だが……クリスティーナはそれを覚えてはいない。




(……ありがとう、メルレイン)

(……え?)

(お父様と別れたあの時、きっとお父様はメルレインにその可能性も『目』で告げていたのでしょう?)

(…………でも、それは)

(それに……あの場で引き留めていてもお父様はニルトハイムに向かったでしょう。お母様、お兄様を救いに。だからメルレインが心を痛める必要はありません)

(……………)

(あなたは私の命を救ってくれた……。姿を保てぬほどに疲弊してまで私を生かしてくれたのです。感謝こそすれ、恨む謂れはないですよ)

(クリスティ……)


 メルレインは不思議な気持ちだった。悲しみに暮れながらも感謝を忘れないクリスティーナ。無論、人が皆そうで無いことは理解している。だが確かに人は慈しみ、感謝、友愛を持つ存在なのだ。


(だから……これからも友人でいて下さいね?メルレイン……)

(うん……宜しくね、クリスティ)


 友情を確かめ合った二人は、それから他愛のないことを語らいながら進み続ける。その中でメルレインは一つ疑問を投げ掛けた。


(そう言えばクリスティは魔法は苦手なの?)

(え……どうして?)

(私は大公家の人間……大公とナタリア、そしてあなたの三人に出会ったけど、あなた以外は魔力の流れが安定していたから。今もただ体力で走っているみたいだし……)


 魔法に通じていれば、クリスティーナももう少し効率的な移動が可能な筈なのだ。しかし、魔法を使う素振りもない。


(……理由はわからないけど、私は上手く魔力が巡らないらしいのです。お父様やお兄様、お姉様は皆、魔力に秀でていました)

(お母さんは?)

(お母様は正確には他国の人間で、元々商人の系統と聞いています。魔法に秀でた家系ではないそうです。私はその系統を継いだのかと……)

(う~ん……こうしてあなたの中にいる感じでは、魔力はかなり高いんだよ。寧ろ大公家の中では一番じゃないかな?)

(そう……なんですか?)


 メルレインは考えた。クリスティーナが魔法を使えない原因が判明すれば、それを改善することが出来るかも知れない。上手く行けば憑依しているメルレインがクリスティーナの代理を行ない、その身体に魔纏装を展開出来る可能性もある。そうすれば移動はかなり捗るだろう。


(少しあなたの身体を調べたいんだけど、良い?)

(それは構いませんけど……メルレインの方は大丈夫なのですか?)

(大丈夫。魔力の流れを見るだけだから……じゃあ、少しだけ休んでて)


 走り詰めのクリスティーナ。流石に休憩を入れねば逃げるどころか倒れてしまう。その間を利用しメルレインはクリスティーナの身体を調べた。

 身体に異常はない。寧ろ健全と言える。魔力生産の細胞も十分に機能していた。


(肉体ではない、ということかな?じゃあ、精神側を……)


 意識の流れから魔力の通り道を遡ってゆく。原因が精神的なものとなれば、クリスティーナ自身に自覚させれば改善される。それは肉体側の問題であるより簡単だが、難しくなる可能性もある。


(この先……少し堅い感じがする……。ゴメン、クリスティ。少し心を覗かせてもらうよ?)


 恐らく魔力循環阻害の原因なのだろう心の一部に触れたその時、メルレインの意識は心の中に吸い込まれた……。




 そこは見渡す限り一面の花の絨毯。白一色の花は精神世界の果てまで続いている。空は蒼く雲一つない。

 そのあまりの美しさと清らかさにメルレインは心奪われた……。


(こんな……人がこんな世界を持つなんて……)


 クリスティーナは確かに純心だろう。しかし、人は必ず負の感情を持つ。例えそれが聖女であれど、人である限り折り合いを付けている筈なのだ。

 だが……今メルレインが見ている景色にはそれが全くない。在るべくして拡がる世界……唯一意識による完全な世界だ。


(……これはクリスティの心じゃない!じゃあ一体……?)


 メルレインが花の絨毯を意識で感じれば、その中に白い衣を纏う人物がいることに初めて気付く。白いドレスの様な一枚生地の服に、同じく白のショール。肌も真っ白だ。髪は絹の様な滑らかさで輝く金、そして優しさを顕す琥珀色の瞳が深みを携えている。そんな女性がゆっくりとメルレインに意識を向けた。


「あら?聖獣さんね?初めまして……」


 メルレインは驚愕するしかなかった……。目の前の女性はメルレインを認識し語り掛けてくる。それはクリスティーナと別の自我を意味している。


(あ……あなたは一体……)

「私はアローラ。ごめんなさい……今はそれ以上は言えないわ」

(今は……?)

「ええ……いずれは伝えられるかも知れないし、ずっとこのままかも知れない」


 微笑みを絶やさない女性は申し訳無さそうに答えた。メルレインは何故かそれ以上の追求が出来ない。


(…………私はメルレインと言います。あなたにお聞きしたい事が……)

「何かしら?」

(クリスティーナ……この身体の持主が魔力を使えないのは、貴方の影響ですか?)

「そうね。私の影響で間違いないわ」

(何故ですか……?)

「力を解放するとクリスティーナが堪えきれないからよ。心……精神も、身体もね?」

(それを私が管理します。だから解放出来ませんか?)

(………貴女、クリスティーナの中にずっと居るつもりなの?それは封印と同じよ?)


 管理の為にクリスティーナの中に居続けることは、自由を奪われることに他ならない。確かに封印と同様である。聖獣からすれば人の一生は短いだろうが、それでも苦痛になる筈だ。


「……やっぱり無理ね。それだと貴女も壊れてしまうかもしれない」

(………しかし、このままじゃクリスティが危険なのです。出来れば今、力が必要なんです)

「理解しています。でも困ったわ……」


 アローラと名乗った女性が思索に更ける。その姿が言葉通り困って見えないのは、微笑みを絶さないからであろう……。


「……わかったわ。では一番始めの鍵を渡します。その管理をメルレイン……貴女が行ってね。但し、今すぐ力が使える保証は無いわよ?」

(ありがとうございます。……アローラ。またお逢いできますか?)

「約束は出来ないわね……。その鍵を使えば、クリスティーナの成長が始まる。それは他の鍵も解きながら止まることはないでしょう。いずれこの意識世界も無くなるでしょうから……」

(ごめんなさい……アローラ)

「フフ……貴女が謝ることではないから気にしないで。本来ならそれが在るべき姿なの。力に鍵を掛けたのは私の我が儘……。そのせいでクリスティーナには辛い思いをさせてしまった」

(……………)


 クリスティーナは自分の無力を嘆いていた。始めから力が使えたのならば、あの悲劇は防げた可能性は確かにある。

 しかし、わざわざ封印を掛けている事情を考えれば、何かしらの不都合が生まれ結果は変わらなかったのでは?とメルレインは考えていた。


(それでも……ありがとう、アローラ)

「貴女は良い友人ね。私こそありがとう……『私』の友人で居てくれて」


 急速に遠退く『アローラの意識世界』……魔力の流れに乗ったメルレインはクリスティーナの表層意識に帰還した。




(………クリスティ?)

「え?あ、メルレイン?大丈夫ですか?」

(うん……大丈夫だよ)


 メルレインがアローラの意識世界に向かってから、十数秒の時間しか経過していない。クリスティーナからすれば呼吸すら整わない時間だ。


(クリスティ……今から貴女の魔力を少しだけ解放する。驚かないでね?)

「えっ?……。わかりました…」


 メルレインはアローラから受け取った『鍵』を使い、クリスティーナの魔力の解放を行った。


 だが、それはメルレインの想像を越えるものだった……。



 溢れ出す魔力……それは通常の人間の持つ魔力量を遥かに上回る奔流。聖獣であるメルレインは辛うじて制御してはいるが、気を抜けば暴走が始まりそうな勢いだった。


 魔人──メルレインの脳裏にそんな言葉が浮かんだ。しかし、クリスティーナの身体には魔人化特有の肉体変化が起こっていない。それどころか、鍛えていない筈のクリスティーナの身体には今のところ負担も無いのである。


 どのみちこのままでは纏装を使う以前の問題。メルレインは『鍵』を使いクリスティーナの魔力を鎮静させることにした。



(ふぅ……クリスティ、身体に違和感はない?)

「えっ?はい、特には。少しだけ身体が熱くなりましたが、それ以外は何も……」

(そう……よかった)


 安堵したメルレインは内心で不安も生まれた。これは一石一丁で扱える力ではない。少なくとも今は使いようがないのだ。


 メルレインがクリスティーナと契約を交わし魔力の供給を受ければ、力が戻ったメルレインの能力で即座にイズワードに連れて行くことが出来ただろう。

 しかし、メルレインは現在シンとの契約が残っている。これを解除しないとクリスティーナとの契約は結べないのだ。


 ニルトハイムに起こる悲劇を予見することなど不可能に近い。当然、契約の件でシンを責めることは出来ない。それ以前にシンとの契約があったからこそ、あの大破壊の中で魔力を維持することも出来たのだ。



 ともかく、結局は何も変わっていない状況である。クリスティーナは魔力を使えず、メルレインはまだ魔力回復していない。頼れるのはクリスティーナの体力のみ。


(クリスティ……残念だけど、頑張って走るしか無さそうだよ……)

「大丈夫です、メルレイン。少し休めましたから。じゃあ行きましょう!」


 大公女なのに逞しいクリスティーナ。悲しみを越え、肉体の疲弊に音を上げず走り続ける。




 しかし運命は残酷だった……。メルレインの危惧していた驚異が遂に来訪してしまったのだ。




 クリスティーナの進行方向で突然更地が爆ぜる。その爆風に煽られたクリスティーナは、走り来たる方向に吹き飛ばされた。


(クリスティ!!)

「ケホッ……だ、大丈夫です、メルレイン。でも一体何が……」


 周囲を警戒して視界に入ったのは、上空に浮かぶ三つの影──。


 人型で黒いフードを纏うその姿に、メルレインは焦燥の色を浮かべた……。


(魔王……!)

「あ、あれが魔王?……お父様達の……仇!」

(止めるんだ、クリスティ!家族の為に生きるんでしょ?)

「………でも…」

(奴らは大規模災害みたいたものだ……今の私達では手も足も出ない)

「……悔しいよ、メルレイン」

(今は生きるんだ……それこそがクリスティーナの勝負だよ)



 一方、倒れ臥すクリスティーナを見下ろす魔王達。


「あの破壊の嵐を生き残りだと?あんな小娘が?解せんな……どう思う?【角】、【鱗】よ……」


 小柄の影……【六目】は、一面の荒野を見渡して唸っている。クリスティーナはどうみても戦闘向きの人間には見えない。それ故の疑念……。


「あの娘からは不思議な気配がする……恐らくそれが理由で助かったと見るべきだろう。精霊……いや、聖獣か?」


 【角】と呼ばれた長身の影は、目敏くクリスティーナの中のメルレインに気付いた様だ。興味深げに観察している。


「聖獣か……ならば【術】に使えるんじゃないの?捕獲して調べるのも一興でしょ?」


 【鱗】と呼ばれた女型の影は、既にクリスティーナを実験対象として見ている。



 三体の魔王に絡まれ絶体絶命……。だがメルレインはまだ諦めていない。


(クリスティ……機会は必ず来る)

「機会?一体何のことです……?」

(私がこの世界に生まれて四百年と少し……こういう事態に必ず動く存在があるんだ。ニルトハイムのあの光に気付き、もう動いている筈……それに……)

「それに?何ですか?」

(フフ……クリスティは自分の見る目を信じて良いよ)

「………?」


 窮地にも限らず怯えた様子を見せないクリスティーナを見て、魔王達は訝しんだ。そしてそれは超越を自負する魔王達への侮辱に映る。

 それどころかクリスティーナは敵意の眼差しすら見せているのだ。


「生意気な小娘め……どうせ大した力を感じないのだ。聖獣も不要ではないのか?」

「私も【六目】と同意見だ。この様な些事に時間を取られているだけ無駄というもの……行くぞ」

「……仕方ないわねぇ。確かに使えるとは思えないわね。それにあの顔……気に入らないわ……」

「フン……女の嫉妬か。醜いな……【鱗】よ」

「煩いわね、【六目】!今この場で消してやろうか?」

「………くだらん。私は先に行くぞ」


 【角】の興味は既に失われ、二体の魔王を残しアステの西……タラス山脈の方角に飛び去った。


「チッ……偉そうに。彼奴もいつか葬ってくれるわ」

「あらあら……あなたに出来る訳無いでしょ?姑息で卑劣が売りのあなたには……ね?アハハハハ!」

「売女め……今この場で死ぬか?」

「死ぬのはあなたの方よ……薄汚く醜い豚!」


 突然いがみ合いを始め一触即発の魔王【六目】と【鱗】。クリスティーナは寧ろ呆れていた。


「何故いきなり仲違いを始めたのでしょうか?」

(大半の魔王は莫大な魔力を持つ反面、それが精神にも影響を与えて人格に問題が出る。あんな風にね)

「でもお陰で助かりました。今の内に逃げることは出来るでしょうか?」

(逃げるならもう少ししてから……)


 そこで魔王二人の視線がクリスティーナに向けられた。思わず強張るクリスティーナ。


「先刻からゴチャゴチャと煩い小娘だ!もう消えるが良い!」

「顔が気に入らないんだよ顔がぁ……生意気なその顔、吹き飛ばしてやるよ!」


 人格破綻者に常識は通用しない。ましてや互いにけなし合い興奮しきりの魔王二人……気に入らないものは壊す、ただそれだけの理由でクリスティーナに殺意が向けられた。


「消し飛べ!」

「ぐちゃぐちゃになっちゃいな!」


 魔王二人から強力な魔法が放たれた……。


 炸裂する爆炎。クリスティーナのいた大地には大きなクレーターが刻まれた。


「はっ!これで貴様との殺し合いに集中出来るわ!」

「フン!豚が粋がってんじゃないわよ!」


 何事もないように争いを続ける魔王達。そこに響く、重く力強い声……。


「おいおい、何だぁ?最近の魔王ってのは感知も出来ねぇのかよ……?」


 その豪快な声に魔王達が視線を向けると、遥か上空に大男が飛翔していた。その隣にはもう一人……。


「ま、そのお陰で救えた命もあった訳だがな。だろ、シンよ?」

「ルーヴェスト……これは私の義妹だ。そんな軽々しい命じゃない……必ず間に合わせたよ」


 飛翔するシンの腕には、クリスティーナの無事な姿が……。


「おっと……そりゃ失礼。で、そっちの天使さんは手を貸すつもりで来たのかい?」


 もう一人……魔王達の背後には、白い法衣に金の鎧を纏う天使の姿があった。


「必要とあらば、だな。自己紹介だ……我が名はセルミロー。そちらは勇者ルーヴェストと勇者シンだな?その娘は?」

「ニルトハイム公国大公女・クリスティーナ殿です」

「ニルトハイムの……そうか……」


 一方、魔王達は自分達が無視されていることに憤る。人間を下等と見ている者達からすれば腹に据えかねる事態。

 だが……魔王達は忘れていた。いつの世も魔王を駆逐するのは勇者であることを……。



 ニルトハイムを襲った三体の魔王……。内二体との戦いが始まる───。




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